蛇の目ってなんぞや?!
 
   蛇の目って?
「へび」を調べる 
- 蛇の遺物に見る民族の流れを探る -
 
第十章  蛇の目に見えるもの
 第十章では形状から蛇の目に見えるものを掲載したいと思います。
 弦巻が蛇の目と呼ばれるようになったように ここで 紹介することによって 何百年後には 蛇の目と呼ばれるようになる事を ひそかに思いつつ・・・・。
@ 古墳時代の壁画に
 古墳時代最古の段階の古墳群4世紀前半〜中期  いきなり巨大な古墳が登場する。
現在は 三世紀と時代が早くなっている。
 中国・朝鮮にも同じように古墳がありますが 明らかにこういった海外の影響を受けているという事がいえると思います。 海外から古墳といった形式の文化が日本に入ってきただけでなく民族の移動を伴って入ってきた。あるいはそういった文化にならってその土地の豪族(民族)がまねをしたと推測できるわけです。。

 海外からの影響を受けている特に大陸的でないものといえるものの一つに奈良県桜井茶臼山古墳の出土品があります。
 古代エジプトのファラオが手にする杖と同様の「王者の杖(おうじゃのつえ)」が埋納されています。そのうちの一つには犬か狐の頭部をかたどった黒漆塗りの杖頭があります。『日本歴史展望 第1巻 原始ー古墳時代 「埋もれた邪馬台国の謎」 P178に写真あり』 漆は非常に耐久性の高いもので チャイナといえば磁器(チャイナボーン)ですが、ジャパンといえば漆器です。漆器は、中国から伝わったといわれていますが、北海道の垣ノ島B遺跡から中国の物を大幅に遡る約九千年前の漆器が見つかっています。東南アジアでも古くから使用されていますが、日本でより発展したものといえるのではないでしょうか。
 中国や朝鮮の古墳から 「王者の杖」が埋納されていたか残念ながら調べるすべを知りません が、海を渡ってエジプトの王様の流れを持つ民族が日本に入っていた可能性の1つになると思います。
 もう一つに、銅鏡などにも海外の紋様が描かれるが 同じく古墳にも様々な装飾・模様が描かれた壁画が、海外の影響を受けたといえる模様が見つかっている。 
 石室の壁面を彩色絵画で飾る特殊な古墳で 「装飾古墳」と呼んでいます。
 北九州一帯に分布し、不思議なことに 九州から、東海を飛び越え関東・東北に波及している。日本にたどり着く際、北九州と、関東方面にわかれて流れ着いたか、畿内・中部の民族を避け住み分けていたと言う事でしょうか。
 その装飾に「蛇の目」な模様がみてとれますのでご紹介したいと思います。こういったもようが太陽を表すものでしたら ふたつあるとは思えないんですよね ここでは蛇の目と考え 蛇と古墳時代との関連性があるものと考えたいと思います。


虎塚古墳の装飾壁画
茨城県の古墳に見られる 装飾壁画

北九州一帯に石室の壁画を彩色絵画で飾る特殊な古墳が分布する。
不思議なことに 九州から、東海を飛び越え関東・東北に波及しているそうです。
北九州一帯に石室の壁画を彩色絵画で飾る特殊な古墳が分布する。
不思議なことに 九州から、東海を飛び越え関東・東北に波及しているそうです。

福岡県吉井町 珍敷塚古墳 福岡県日ノ岡古墳 熊本県千金甲第1号古墳

参考文献
*5 日本歴史展望 第1巻 原始ー古墳時代
 「埋もれた邪馬台国の謎」 
責任編集:上田正昭 田辺昭三  旺文社 P260〜261

*6 福岡県吉井町 珍敷塚古墳の写真のみ
週間朝日百科「日本の歴史42」 1-285 朝日新聞社 

 
 上記資料「埋もれた邪馬台国の謎」 には、他にも数点彩色壁画が掲載されています。蛇の目模様とはっきり判断できる写真を引用させて頂きましたが、他に大陸・海外と思われる船の壁画もあります。 
 蛇の目模様が、海外から伝わってきたことがよくわかり研究に広がりを見せます。
しかもこの蛇の目模様が、「不思議発見!!」か何かの番組でも紹介されたようで、アメリカ大陸、インカ帝国のほうにも伝播しているとのことです。アメリカ・インカの方までと言いますと日本のものが中国・朝鮮経由という可能性が低くなります。
またそちらの方も調べていきたいと思います。

 上記著書「日本歴史展望」 ・・ 数年前に 図書館の除籍を受け1巻のみ手に入れたが今年(07年)の配布で7巻、合計8巻手に入れることが出来ました。写真や内容も良いものなのに除籍だなんてもったいない。ラッキーでした。 興味のある方 このシリーズ一度目を通してみるのも楽しいと思います。



装飾古墳 蛇の目 と 時代関係
◎茨城県虎塚古墳
 全長56.5mの前方後円墳,後円部直径32.5m,高さ5.7m,前方部幅38.5m,高さ5.2m,古墳時代末期の7世紀前半(約1,350年前)に造られました。
◎福岡県日ノ岡古墳
日の岡古墳は若宮八幡宮境内にある国指定史跡で約1400年以上前のものと推定されている横穴式石室をもつ前方後円墳です。よって6世紀中ごろでしょうか。
◎熊本県千金甲第1号古墳
こちらも 6世紀半ばとされています。
◎福岡県吉井町珍敷塚古墳
珍敷塚は屋形古墳群の中、原、鳥船塚、古畑の4つの古墳からなり、珍敷塚古墳はその中の1基の円墳である。築造は6世紀後半と推測される。
壁画には、赤、青、黄色を使い分け、船や舳先(へさき)に止まった鳥、船を漕ぐ人、その他、弓と盾を持つ人やヒキガエルが描かれている。画の構図が素晴らしく、表現豊かに古代人の様子が描かれている。なお壁画右の円は、死後の冥界を示す月を表現し、月のなかのヒキガエルは高句麗壁画の影響を受けており、朝鮮文化の影響がうかがえる。

まだまだ 調べればありそうですが
おおよそ 6世紀半ば〜7世紀前半と考えてよさそうです。

「装飾古墳の世界」さんにて 詳しく紹介されています。 
http://homepage2.nifty.com/mononoke-kofun-room/HP/soushyoku.htm
興味のある方は 是非ご覧ください

王塚古墳  福岡県嘉穂郡桂川町
http://www.ouzuka.jp/
珍敷塚古墳 と似た装飾古墳を見ることができます。


追記
追記 20.10.13
シルクロード・ミュージアム 調査記 (20.10/13)より
磐田市のシルクロードミュージアムに展示されていた器でありますが
模様が彩色古墳に似ており蛇の目にも似た模様があったので追記します。
彩色された器
紀元前2500年頃(インダス文明)
パキスタン・メヘンガル  テラコッタ製
 赤と青に近い色や絵の具の感じ・模様は似ていると思いませんか?インダス文明のこのような模様が日本に入ってくるのに3000年近くの時をかけてきたという事でしょうか?




A 石貨
 子供の頃テレビやアニメで観た石貨。
原始人がお金として使っていたものにこの蛇の目形状の石や、貝が使われており現在の貨幣の元になっていたと言う記憶でした。


 この石貨もヤップ島唯一のようです。

ケンラデと呼ばれる貨幣  寸法:大きいものは4m小は20cm
ミクロネシア・西カロリン群島のヤップ島 では儀礼的な婚礼・葬式などにたいし、貝殻と石貨の交換などが行われていました。 (この本が出版された昭和62年現在)

写真:-- 週間朝日百科「日本の歴史37」 2-203   朝日新聞社 --




B 北京五輪 メダルの(ぎょく) 2009.1/6
 ”888”の中国で云う吉数 2008年8月8日 から 24日まで 北京オリンピックが開催されました。
 そのオリンピック開催前にメダルについてTVやネットで紹介されましたが はじめてみた瞬間 玉をあしらったメダルをみて 「蛇の目だ!!」と、うなってしまったのは私だけでしょうか・・・。


2008年 北京オリンピックメダ *41 (マウスを当てると表側)

 そもそも(ぎょく)というのは何なんでしょうか? 
古くは玉と呼ばれたが
翡翠(ひすい)の事である。
 深緑の半透明な宝石のひとつで、東洋(中国)、中南米(インカ文明)では古くから人気が高い宝石であり、金以上に珍重された。古くは玉(ぎょく)と呼ばれた。
不老不死および生命の再生をもたらす力を持つと信じられており、古代においては遺体全体を玉で覆うことが行われた。秦の始皇帝の遺体も玉で覆われていたとされる。中南米の王族の墓でも同様の処置が確認される。 と、WIKIに記されておる。

 玉璧(ぎょくへき)とは、
新石器時代後期 長江下流域に栄えた良渚文化において さまざま形をした玉器が多数出土することで知られる。そのなかで
 
玉j(ぎょくそう) = 祭祀  
 
玉璧(ぎょくへき) = 財産
 
玉鉞(ぎょくえつ) = 軍事 
それぞれを統帥する権力の象徴といわれている。
 ちなみに 玉jとは 内側あるいは上部が円形で、外側が四角(方形)の玉の器で、
玉鉞は、斧を表した大型の玉製のものをいう。




 ちなみに 中国に留学経験もある妹と夫に メダルに見られる同心円の蛇の目紋は、何を意味するものか中国の人に直接聞いてみてもらいました。
 「玉が同心円に形とられる理由ですが、中国では商の時代から文武に優れ、それ相当の地位にある人にはこの同心円の玉を与えられたとのことです。」とアドバイスいただいたようです。
 『商』というのは『殷』の事であり、紀元前17世紀〜紀元前1046年に周に滅ぼされた王朝である。 殷とは、周などによって使われた呼び方で、みずからを『商』と呼んでいた。

 『商人という言葉は、商(殷)人が国の滅亡した後の生業として、各地を渡り歩き、物を売っていたことに由来する。店舗を持たず、各地を渡り歩いて物を売っていた人間を、人々が「あれは商の人間だ」』 とWIKIにあるように 
 
  
殷 = 『商』 = 商人 = 財 = 玉璧 = 蛇の目 = へび(龍)
 
 
並び方はさておき 実在する中国最古の王朝 殷 と 商売が密接に関わり 同心円の『蛇の目』へと 深いつながりを推測させるのである。
 それと同時に 先に見てきた 銅鏡の種類 呪術をつかさどる
多紐細文鏡 が 殷で出土していた事実と重なり非常に興味深い。


次に中国の遺跡から出土した玉璧を見てみたいと思います。
腰に帯びた軟玉製の装身具「佩玉(はいぎょく)
*42
竜紋玉壁 (漢の時代)

その他 玉璧掲載サイト様

 ◎ 『62歳からの冒険 自遊人のblog』 様
  西都原考古博物館(宮崎県)に展示の国内唯一出土の 玉壁
 ◎ 『漢方博覧図絵』 下のほう 『片桐棲龍堂漢方資料堂』 様
 ◎ 『東方ウェブサイト』  様
 
良渚文化(りょうしょぶんか)の玉架山遺跡 から出土した最大級の玉璧 

宗教信抑と関わりがあるものと考えられている。



良渚文化・・・新石器時代5300〜4000年前 長江下流の文明
 (中国国際放送局・日本語放送)

  『東方ウェブサイト』 様の記事は2008/12/15のものでまだ新しいですが、『商』(殷)より古い石器時代より、この蛇の目模様の 玉璧というものが重要なものであった事が推測できます。





さらに 深追いしてみました。

『初心者の為の古文銭』様HPより 


 『戦国中晩期に円形の貨幣(圜銭、従来より古圓法と呼ばれています)が登場します。  玉璧から変化したもので、主に「周」、「秦」、「趙」、「魏」、「燕」、「斉」などで作られ流通しました。』
 
 と記されており 右記写真をお借りしましたが裏側であるもののまさに 玉壁と同じ形であります。

『初心者の為の古文銭』様HPには
 ◎商(殷)時代晩期の貨幣 子安貝をかたどった無文銅貝(むもんどうばい) 
 ◎銅貝の表面を金で包金した包金銅貝(ほうきんどうばい)
 ◎蟻鼻銭(ぎびせん)

円孔円銭(裏側)
(西周銭)「周」
*43
お金を表す漢字に貝の字が当てられるようにまさに貝がお金として流通していたであろう事実を見る事ができます。
 貴重なものと思われますので是非ともごらんいただきたいと思います。




以上のことから 

◎オリンピックのメダルは 玉璧をあしらったものであること。
◎玉璧が商(殷)以前にも利用されて非常に重要なものであった事。
◎その形状(蛇の目模様)が 財産を現すもの。
◎石貨との関連も否定できない事


等を 確認する事ができると存じます。(蛇の目と関係がありそう)

 

写真引用
*41 『CHAINA VIKI』 http://www.chinaviki.com/
中国旅行情報局2007-10-23 13:40:04http://www.chinaviki.com/china-news/2008/2007-10-23/2008-beijing-olympic-Medal.html
*42 『beijing 2008』 http://jp.eastday.com/node2/node588/index.html
http://jp.eastday.com/node2/node588/node602/node607/userobject1ai36840.html
*43 『初心者の為の古文銭』
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kosen/index.html




C 徳川家康 歯朶の葉(しだのは)
へびって?調査隊レポート
 浜松城公園 浜松城  徳川家康の歯朶印 (20.6/26)より

 長男 巳好樹(みずき) の初節句に徳川家康の小宮人形(五月人形)を頂きました。
 そして その兜についていた蛇の目模様から今回の調査が始まりました。


 こちらは浜松城への目印にもなっている
 ”羊歯印”
(パンフレットより)
 左は若き日の徳川家康公の銅像(浜松城公園内)お城の東、石垣下あたりにあります。
 でも なんで手に持ってるんだ?
 これではまるで 幾度と見てきた ペルシャの紋章や、エジプトの有翼日輪である。

参考までに 今まで見てきた有翼日輪とその関連がありそうな物を 挙げておく
(ちなみにこれら3枚の写真は「へびって?調査隊記」◎古代エジプトの美展に掲載)
写真上・・・有翼スカラベ
   下・・・有翼ヌト神  
(ヌト神は天空の神でもある。)

復活・再生を意味し太陽を表す護符としてミイラの胸の上に置かれていた。

(左写真:イートンカレッジ、マイヤーズ博物館 229)
「へびって?調査隊記」◎古代エジプトの美展
のミイラ写真、大腿部あたりに装飾されている有翼日輪の拡大写真
三、 ペルシャ帝国の中のヘビより
エジプト プトレイマス朝の碑文
三、 ペルシャ帝国の中のヘビより
ビストゥーン磨崖碑の浮彫り
    「ペルシャ帝国」p6 *21


改めて徳川家康の兜を見てみよう。
以下3点の写真は 浜松城に展示されていた兜である。

歯朶(しだ)の葉(羊歯印) 徳川家に伝わる兜   龍と、葵紋
 調査レポートと重複するが一番左が家康公が霊夢・・・夢に見た歯朶(しだ)の葉(羊歯印)
である。そしてその右2つの兜には龍と葵紋が。

 中央の龍の兜は家康を表した掛け軸にもしばしば見る事ができます。
 次ぎに兜に葵紋があるように兜の前立て (前立てとはオデコ側にある飾りの事で、後頭部側を後立てという)に飾られる模様は重要な意味を持つ事が解る。
 そして羊歯印であるが
 

 『関ヶ原の合戦で着用し、大坂の陣にも身近に置いて勝利を得たことで吉祥の鎧として尊ばれた。家康の死後、久能山に安置されたが、三代将軍家光の第に江戸城に移管された。四代将軍家綱はこの具足を模造して御写形と称し、毎年正月には江戸城黒書院に床飾りし、以後の将軍もこれに習うを例として幕末まで続いた。』 歯朶具足(しだぐそく)説明書きより

 如何に大事にされていたか、この模様が他の模様と比べても別格の扱いである。

新田家伝来白糸威腹巻
 そして徳川家康が新田義貞の末裔であるといわれていますので東毛歴史資料館のパンフレットより。
オデコの部分に新田家家紋 大中黒(一つ引両)。
 上記写真右二つになんとなく似ていますが、
 資料館にも新田義貞の掛け軸等あったが上記写真中央のように龍が描かれていた。

正さんの気まぐれ日記に新田義貞の兜として信憑性の高い物を紹介している。象嵌が施され身分の高い人が身につけていた。前立てなどが無くどのような物であったか解らないがおおよそ伝来の物(上記写真)のようであったのでしょうか?


 ココからは私見である。
よく見て頂ければわかるが龍なら龍でいいのである。そこに日輪?を表す輪があるのは、余分である。 これでは加藤清正の蛇の目紋を付け加えたようにみえてしまう。

 最近 何でも『蛇の目』に、何でも『へび』に見えてしまう私には 羊歯印とウラエウスが同一の物に思えてならない。

 羊歯印を別の考え方をしてみたい。
 日本に松田という姓がある。 この姓の由来として ペルシャの崇拝するアフダマズダー神からという説がある。
 自動車の”マツダ”のHP 「マツダのビジョン」「社章について にも由来が書かれている。 
 アフダマズダー のマズダがマツダ 松田 になったというわけである。
 「MATUDA」じゃだめなんですよね「MAZDA」でないと!!


 漢字の読みは本来当て字であり 同じ読みでも たとえば 阿部 安部 安倍 阿倍 と表記されるが読み・意味するところは 同じであるということです。
 同じように 松平 の読みは マツダイラ であり、
 これも アフダマズダーからなる ペルシャ系の民族(平家)であったのではという もう一つの理由です。
 そう考えれば、もともと源氏を名乗る徳川氏が、ペルシャの紋章を掲げ 平家側をも味方につけ 関ヶ原・大坂の陣でも勝ちぬくことができたと考えるのはいかがでしょう。
 
以上 羊歯印の形から また マツダイラ という名前から ペルシャ民族(平家)との関連性をあげてみました。
よって 羊歯印には 『蛇の目』あるいは『へび』がいる。と推測させていただきます
 
 
 違う言い方をすれば羊歯印は有翼日輪である。


 ちなみにこの4節形状が蛇の目のもの「蛇玉もなか」を調べていたら加藤清正と重なる部分があり 富山県高岡市 妙伝寺に伝わる「加藤清正公絵図」の兜と兜の前立てが似ていることを確認できる。 (2009/1/7)




追記 可児才蔵が家康公から下賜された兜 (2011年9/18)

福島正則浪人分である可児才蔵は関ヶ原の戦いにて敵の首を20討ち取る。自分が獲った首に笹を咥えさせ目印にした。

徳川家康は大いに喜び「笹の才蔵」と呼ぶべしと言って、この兜を与える。

「三ツ葉葵の徳川家の家紋が吹きかえしに描かれ、日輪を飾った小型、黒革の兜」」
*110 P46「鈴木健二 歴史への招待18」 
 編集・発行人:藤根井和夫
 発行所:日本放送出版協会 発行:第5刷昭和56年11月1日


 蛇の目紋にも見える前立てである。 

D 新田義貞像の膝 の模様
新田義貞公之像
 「へび?調査隊」 群馬調査記 『東毛歴史資料館』
                  (20年7.31より) 
徳川家康と、新田義貞との関連性から現地入り調査してきましたが 新田義貞の兜や神社仏閣に羊歯印の発想の元となるような物は見つけれませんでした。

 唯一見られたのが 銅像の膝の蛇の目?です。


 ただ 群馬県太田市は、日本最大級のヘビ研究所があること。その辺りから蛇川(1級河川・市内) が流れ 上州の蕎麦・太田市名物「やきそば」と長い物関連

あやしい けど 関連性は無いかなぁ。
 新田義貞公之像 の膝




E 世良田長楽寺 太鼓門
 「へび?調査隊」 群馬調査記 『長楽寺』 (20年7.31) より

長楽寺 三仏堂

長楽寺の中心的建造物
 鎌倉時代、徳川義季が、高僧栄朝を招いて開いた東関東最初の禅寺。
戦国時代荒れたが、江戸時代初め 徳川家康が天海僧正に命じ復興させた。
天海は古く臨済宗(中国宋から帰国した栄西が開祖)であったものを天台宗に改められた。


太鼓門 (県重要文化財)



 長楽寺三仏堂及び太鼓門 説明より

 『太鼓門は、鼓楼ともいわれ、三仏像の西に隣接して立ち、様式手法等により江戸時代初期のもので、その後、三仏像同様に修理を経て現在に至っている。
桁行三間、梁間三間、袴腰付、入母屋造、胴瓦葺、東向き、中央一間扉構、上部は四週に縁をめぐらし、高欄が付く。正・背面の中央間に火灯窓、嵌板に華麗な彩色透彫文様を施す。楼上に太鼓をかけ、寺の諸行事の合図に使用した。』
 
慶安四年(1651)に三代将軍徳川家光の命により再造されたものです。
 太鼓門に蛇の目紋が!! 

太鼓の模様を ただデザインした物なのだろうか?この模様が蛇の目とは断定できませんが

何か意味があるはず!!


おまけ 

  徳川家康・新田氏について研究されているサイト

◎足利尊氏 http://www.ashikagatakauji.jp/index.html (藤田史観)
世良田氏の謎解き




F 蛇玉もなか  2009.1/7
 最高級和菓子 『森八』 
 http://www.morihachi.co.jp/index.html
   老舗中の老舗 
  日本三名菓「長生殿」という和菓子 を 三百八十年間 変わらぬ味を守り続けている。
 
 その『森八』の「蛇玉もなか」を知ったのは妹からのメールであった・・・。
 詳しくはブログにて。


「蛇玉もなか」 「森八」商標 紙袋 竜が玉を持っている


 「ホームページ 森八のご案内」 に いわれが書かれておりますが、
それでは なぜ 『蛇玉もなか』が生まれたのか なぜ蛇の目紋があるのか検証したいと思います。


 森八家の祖 亀田大隅守高綱(たかつな)の胴丸に描かれていた紋章・龍玉を商標にしたことがはじまり。

亀田大隅守高綱(たかつな) とは?
逸見又太郎義重
溝口勝正
◎柴田勝豊の婿養子 賤ヶ岳の戦いで、義父勝豊が羽柴方に寝返り 償いに北庄城(福井県)を守り戦死
溝口勝吉(次男) (通称・・・半左衛門)
尾張 葉栗郡出身
◎勝正に長女があり 能登国石動山の住人加藤平左衛門清重の室となっている。
(加藤清重・・ (1544〜1598年 55歳没)  加藤清正の叔父、清正の重臣)
◎兄 溝口秀勝は丹羽長秀に仕え、長秀没後、新発田(新潟県)にて6万石を賜る。
溝口半之丞 (亀田高綱)
◎賤ヶ岳の戦いで柴田勝家につき破れ追放され 後に亀田権兵衛と改姓
◎徳川方 浅野長政・幸長に仕える
◎朝鮮・関ケ原・大坂夏の陣で戦功
◎徳川方浅野勢の上田宗箇と論功で争い浅野家を辞し、堺に閑居
亀田宗兵衛 (遺子) (初代 八左衛門)
河北郡森本町から金沢城下紺屋坂に居を移し
 屋号を森下屋と称し、名を八左衛門と改める。
三代目 八左衛門
◎藩主前田利常候より町年寄役を命ぜられた時より、代々町年寄、銀座役を勤めました。
◎藩主利常の創意により小掘遠州の筆になる「長生殿」の三字を原型とした、
名菓 長生殿を世に生み出しました。
11代目八左衛門
◎家柄町人として苗字帯刀をゆるされ、「森下屋」から森下と改め、明治2年(1869)には屋号を「森八」と改称
中宮茂吉
◎亀田家に後継者がなく、明治44年(1911)10月、姻戚関係の中宮茂吉が家業の一切を譲りうける。

 おおよそこういったことを調べる事ができました。

 蛇の目 という事に着目すると やはり加藤清正との関連を最重要視することになります。
戦国時代 親族の誰かが裕福になると一族はそのものを頼ったり逆に召抱えたり援助する事はよくあることでした。

 たとえば 織田信長を討った疑いをかけられている明智光秀は、浪人からやっと朝倉家に仕える事ができた程度の武将でありました。その後500余の家来を召抱えたり将軍足利義昭にも客分とされたりと異常なほどの羽振りのよさになる。これは、織田信長の側室 美濃御前(おのう 又は奇蝶)と異父兄弟であり、援助を受けていたからである。美濃御前も織田信長を討った黒幕の一人と推測されており、美濃を治めるために利用された美濃御前と命を狙われていた家康・すきあらば天下を狙う秀吉・そして明智光秀と 利害が一致した事により本能寺の変があったようです。

 溝口勝吉の姉が加藤平左衛門清重の室となっており、清重は、甥の清正の重臣という立場である。 同じように何かしら援助や優遇を受けていた可能性はおおいに有り得るのではないかと推測する。

 ちなみに 森八家の祖 亀田大隅守
高綱(たかつな)の胴丸はどのようなものであったかわかりかねるが 竜が蛇の目紋(玉壁)をつかんでいたとする絵が描かれていたとはちょっと想像できないおそらく
こういったではないでしょうか?

この絵は富山県高岡市 妙伝寺に伝わる
「加藤清正公絵図」*44

以上のことから
森八家の祖 亀田大隅守
高綱(たかつな)の胴丸に描かれていたであろう龍玉は 蛇の目紋と同じであったと推測する。 

それと徳川家康の冑の”龍と蛇の目”とも似てるでしょう。




参照

◎『大坂の陣絵巻 〜大坂の陣総合専門サイト〜』  亀田高綱について
http://tikugo.cool.ne.jp/osaka/busho/asano/b-kameda.html
◎『道学堂 新発田藩史研究所』  溝口家について
http://www.geocities.jp/dougakudou/
◎『歴史の勉強 武家大名録』
http://roadsite.road.jp/history/daimyo/mizoguchi/mizoguchi.html

 新発田(しばた)市は新潟県下越地方にあるが 柴田勝家と溝口家も関連が強いためこの新発田も柴田と同じ意味であろうと推測する。

写真引用
◎『室屋長兵衛』 http://www.murocho.com/company/index_company.html
 古城万華鏡X 加藤清正、高岡に現る




 蛇玉もなか 2011.3/10追記
『へび調査隊記』 岡崎市南公園 (10.04.25) において

蛇玉もなかの図案 と 愛知県岡崎市の市章が 似ていると言う事に気が付きました。
経緯等は『へび調査隊記』 を参照いただけたらと思いますが、ココに関連があるところだけ 追記します。

 

岡崎市の市章
 『岡崎市の市章は、外まわりに竜の爪が宝珠をつかんだ形を配し、その中は岡崎の「岡」の漢字を図案化したものです。
 岡崎城は別名「竜ケ城」とも呼ばれていました。もともとこの山には、竜神が住み、城が築かれるとその守護神となり、敵が攻めてきたときには、必ず雲で城を覆って守ったと伝えられています。 また、徳川家康公がこの城で生まれたときも、竜神が現われて天に舞ったという伝説があります。
 このような故事をとりいれ、市章の外まわりは、竜の爪が宝珠をつかんでいる形にしたのでしょう。』 岡崎市HPより

この事によって 岡崎市の市章の原型となっていた図案はかなり古いものであった可能性と、亀田大隅守高綱の胴丸に 蛇玉もなかの図案が本当に描かれていたのでは、という疑問が出てきました。

しかし 何度見ても ”玉持っている龍”と言うより ”玉璧持ってる龍”と思うでしょ?

真ん中の”玉”を爪でしっかりつかんでないんだもん。
落ちちゃうよ。

疑問点が出てきましたが
上記疑問点の明確な答えが得られない事
もうこの枠で掲載しちゃったと言う事 
 で ひとまず 保留に。

但し 調査隊記に細かい事書いていますが、

 ・加藤清正の兜の”龍と蛇の目” 
 ・徳川家康の兜の”龍と蛇の目”(羊歯印)
 ・西郷氏の伝説 西郷氏と家康との関係
 この三家は へび民族としてのつながりが深い

と推測できる事からも蛇の目でいいんじゃないかなぁと思うんです。
G 装飾瓦
 うだつにみえる”蛇の目”模様は 他のうだつに明らかに家紋(丸に違い鷹の羽など)と言える模様がありました。
 また、装飾瓦の多くには、火事を防ぐ為のお守りとしての模様が。鬼瓦には厄除けとしての意味を持たせています。

 面白いのは 鬼瓦のルーツに当たるものが、メデューサにあるということです。 場所は現在の中東、西アジアのシリア・アラブ共和国にあたり、ローマ帝国支配時の都市遺跡”パルミア”で、邪気をはらい侵入者を防ぐ考えから、地下墓入り口にメデューサを模った石像を彫っているということです。
 「鬼瓦旅團」様のブログにも掲載されていますが、「日立 世界ふしぎ発見!!」でも メデューサ→鬼瓦といった放送があったそうです。 

 そこで、”ヘビ”つながりから”蛇の目”模様に見えるということでココに掲載します。

”うだつ” に 蛇の目紋 2009.1/7追記
◎岐阜県 調査記  うだつの上がる町並み (20.8/21) より

 現在美濃市のうだつ保存地区には”本うだつ”が19件あります。
そのうち 3つに『蛇の目紋』を確認できました。
中央(おにがわら)に蛇の目 上部(とりぶすま)に蛇の目 中央(おにがわら)に蛇の目

この城下町に豪商らが富の象徴として競う様に作った”うだつ” 良く目にする家紋らしき模様には、「三つ巴のまわりに12個の点」がほとんどで、少数として「丸に違い鷹の羽」「三つ盛亀甲」「丸にかたばみ」と明らかに家紋があります。
 「三つ巴のまわりに12個の点」は「三巴文と連珠文の軒丸瓦」として遺跡からも良く出土する模様で、平安時代後期以降もっともポピュラーなものです。
 そのような中で、3つも蛇の目を見る事ができるのは、なかなか意味あることでは無いでしょうか。
 今年2008年北京オリンピックのメダルの裏に”(ぎょく)”という”蛇の目紋”があることにお気づきでしょうか?
 この”玉”の蛇の目模様については改めて掲載予定ですが中国 商の時代と関係する物で 商業の商と関係しています。
 この美濃の豪商蛇の目紋  商業蛇の目との関連性を考える上で、とても良い例ではと思っています。


 装飾瓦 2009.11/23追記
 島田市博物館分館にて瓦の蛇の目模様を見つけました。


 日本いぶし瓦様HPにも名称等書かれています。
 株ミハラ様のHPからは 京の巻き3尺2寸頭という形が近いようですが知識不足で分かりません。

 
   建物の大棟や隣棟、隅棟などの先端にもちいられる装飾瓦のようですが、鬼の顔でなくても鬼瓦となるようですね。
 また 火事を防ぐ為、水に関係のあるものも装飾にされるようです。そういった観点から蛇の目としての呪符的もの、水との関連があるものか調べて見る価値があるかもしれません。

 うだつの紋でも記しましたが 装飾瓦の蛇の目模様はいろいろ神社仏閣も行ってはいますがそれほど多いものではないように感じます。また、博物館でも奈良、飛鳥時代などの瓦の展示もありますが巴模様が多く蛇の目模様は今のところ目にしていません。 比較的新しい時代に使用されるようになってきたものかもしれません。




 
H 時代背景 いつ頃から?
そろそろ 「まとめ」 となってきました。
まずは 表にし観想を述べたいと思います。
I 感想・まとめ
 大げさな年表の割りに・・・。 このような年表を作るまでもないような気がいたしますが 「へびって?」から見て頂いて、皆様はどのようにお感じになられたでしょうか?

へびを調べていくにつれ なんと身近な存在だったか、古くから崇められていたかと感心しましたが、同じように蛇の目模様も古くは装飾古墳として使用され、特に蛇の目模様が花開いたのは江戸時代からでしょうか?同心円状のへびの目に似た模様はどんどん「蛇の目」と名づけてしまったような感じがします。
ただやみくもに同心円状の模様を「蛇の目」と名づけていたら ここまで広く普及・世の中に馴染んでいったとは思えません。

 一見 怖いと感じる 「へび」を神様のように扱ったり、弁財天・普賢菩薩・といった仏教にもみられるように 日本人の中にへびと同じく蛇の目模様も浸透し広まっていったようですね。
 蛇の目傘を その姿の末広がりな形状から 結婚式の引き出物にされるところもあるようですし。 猪口にしても土俵にしても神聖なものとして扱われてきたようです。

蛇の目って?なんだろうと簡単に調べるつもりでしたが、 予想外にページを割いてしまったというのが感想です。
そして以外にも民族性なものも感じられました。
 この国がへびだけを祀っていたわけでなく 狐や八咫烏(やたがらす)なども神の使いとして祀られているのは皆様もご存知と思います。
そういったさまざまな動物も民族の流れのようなものがあるかもしれません。
四神(しじん) 青龍(せいりゅう)・朱雀(すざく)・白虎(びゃっこ)・玄武(げんぶ)が民族の流れとするならば 四神が力を合わしてきたという事でしょうか?

この国が 大和の国と呼ばれるように 
「和()をもって(とうと)しとす」

聖徳太子 の 十七条の憲法
「一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。」

「一、調和する事を貴い目標とし。道理に逆らわない事を主義としなさい。人には皆仲間がいるが。道理に通じている人は少ない。それで天子や父に従わない者があり。たちまち隣り里へ立ち去る。しかし、天子が調和して臣下の仲が良いと。事を議論するに調和する。それで事の道理は自然にゆきわたる。何事も出来ないものは無い。」

聖徳太子がいたかどうかは別にしまして



初日の出 で、太陽に感謝しる事から1年が始まり
正月の初詣 で神社に参り
お盆ではご先祖様や故人の供養をし(仏教
クリスマスでは キリスト教の降誕を祝い
大晦日に 寺院の除夜の鐘を聞く

「なんて 和する いい国なんだろう」
17条の1条 和する心があるから? 今があるのではと、ご先祖様達に感謝せずにはおれません。


民族がいろいろな大陸をわたって来たという事は 私の血の中にも 例えばエジプトのインドの中国の朝鮮の血が混ざっているかもしれません。 地球のみんなが家族かもしれません(おおげさかな)
”へび”・”蛇の目模様”を調べるに当たり、第十章も含めすべてが繋がっているような感覚さえ覚えました。

一つの国の中に民族の争いの絶えない国もあります。
日本っていい国だな〜〜

「世の中にはのどが渇いても満足に水も飲めない・お腹がすいても食べ物がない子供達がいるんだよ〜」と好き嫌いの多い皮肉にも龍(へび)の耳を持った娘にいい聞かせる事があります。
7歳の娘に言っても解らないかも知れませんが・・・。

昔の人は水や川を神のように扱ってきました 今の蛇口という言葉にもつながっているように 水をいかに大切に扱ってきたか、うかがい知る事ができます。
神様のへびの口から水を戴いていると思ったらあまり粗末にできないかもしれません。


ある町で 不法投棄が絶えない場所に 小さな鳥居を造ったらゴミを捨てなくなったともTVで見たことがあります。
同じように 木・樹木に 注連縄(しめなわ)をしたら やたらめったら開発したり
余分に木を切ったりしなくなるかもしれませんね。

 
神仏化 すること
水や、動物 にとどまらず 太陽を、お月様を山を海を崇め大切に考えてきた昔の方々のものの考え方・大切にするに心
「へび・蛇の目」を調べるにつれそんな事を気づかせていただきました
そして、第十章を見ていただいてもすべて繋がっている気がしませんか?

 
「蛇の目」・・・・
 元来 模様や家紋といったものが へびの目に似ている事から 縁起の良い物とされ デザイン性の美しさからも 愛されてきたようです。
まだまだ 調べていこうと思いますが 感想とさせていただきます。




 
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