蛇の目ってなんぞや?!
 
へび調査隊記
 2011年08月23日
近畿地方調査 第二弾
 昨年、竹生島調査で大満足してから早1年、また夏休みが・・・。
 今回はUSJ(ユナイテッド・スタジオ・ジャパン)をメインに含めた調査。子供たちを喜ばせるぞ ・・・・?

 今回のへび調査隊の行動 (太字は”へび”と関係有り)
一日目
京都府京都市 大田神社 蛇の枕
京都府京都市 蛇塚古墳
大阪府大阪市 豊国神社
大坂城公園 天守閣
道頓堀周辺
二日目
大阪府大阪市 八立龍王大明神 と USJ
三日目
奈良県桜井市 三輪山 大神神社
桜井市埋蔵文化財センター と 桜井市芝運動公園
崇神天皇陵 と 今里の蛇巻
大阪府大阪市 豊国神社(ほうこくじんじゃ)
所在地 大阪市中央区大阪城2番1号
主祭神 豊臣秀吉公
豊臣秀頼公
豊臣秀長卿
例祭 8月18日(太閤祭)


社格等 府社
創建 明治12年(1879年)         
<由緒> 明治元年、明治天皇が大阪に行幸になった砌、国家の為に大勲労のあった豊太閤を、この大阪の清浄な地に奉祀する様にと仰せ出されたので、種々熟議の結果、明治六年に京都の阿弥院峯墓前を本社として社殿を造営、大阪には別格官幣社豊國神社の別社として中之島字山崎の鼻(現在の中央公会堂の地点)に、明治12年11月に創立されたました。
 大正元年中央公会堂建設の為、府立図書館の西方の公園内に移転し、大正10年に別社から独立して府社に列せられましたが、昭和20年終戦と共に社格が廃止されたので、現在宗教法人となって神社本庁所属の神社となりました。
 昭和10年頃より大阪市の発展に伴い市庁舎増築に必要のため、隣接する当神社の移転の議が起こりましたが、太平洋戦争に突入した為、移転の件は一時沙汰止みとなりました。
 その後昭和31年大阪市より神社移転の要望が再開されたので、祭神に縁のある大阪城内を移転地と決定し、昭和36年1月中之島より奉遷したのが現在の神域です。
地図
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*上記案内は調査当時のものです。お出かけ前に電話等で確認の上お伺いください。
 


 
豊国神社
東側一の鳥居 東側二の鳥居 西側の鳥居
ここでも茅の輪くぐり 豊臣秀吉公像
豊国神社 拝殿
明治12年11月に創立されただけあってどことなくハイカラな感じがする。
豊国神社 本殿
神紋は「五七桐(ごしちのきり・ごしちぎり)」

 
境内社 白玉神社
 宇迦御魂神を祀り、元白玉稲荷神社と言う。この社は中之島字山崎の鼻の藩蔵屋敷に祀られてあったが、仲仕頭の野崎喜三郎なる者が東区(現在の中央区)淡路町の自宅に移して居ったのを明治十二年に境内社として遷座し白玉神社と称した。
 また、明治40年の北の大火で焼失した天満七夕池の七夕神社を合祀する。
 
境内社 若永神社
若永神社の由来
御祭神 宇迦之霊神(うがのみたまのかみ)
本神社は今を遡る事四百年余前、豊臣秀古公の御用商人であった現在の大阪タ中央区淀屋橋南詰の豪商  淀屋の屋救内に、火難除けの御守護神として御鎮座された稲荷神社であります。以後、北浜高麗橋以西の多数の町内商家の方々の御信仰篤く御祀りされてきました。昭和二年八月五日大阪市の都市計画と地下鉄御堂筋産工事の為、当初大阪市庁舎東の豊國神社境内に遷座され、其の後市庁舎増築に伴い昭和三十六年一月十八日に豊國神社が当大阪城内に遷宮の際、現在地に御遷座されまIた。
現在も淀屋の末裔の方やヽ当時の町内の末裔の方々をはじめ、多くの人々の信仰を集めています。




感想

 両親に連れられての大阪は何度かりますが、へび調査隊として大阪入りするのは初めてです。
 大阪!といえば、というものを二日間で見てまわろうと思い、まずは大阪城へと思ったら、大阪城公園の敷地の中に豊臣秀吉公を祀る豊国神社が・・・。
 わたくしの端午の節句も秀吉公”一の谷馬藺後立付兜”を飾っているので、ここは当然抑えておかなくっちゃ。

今回勉強になったこと。
◎明治天皇が仰せになり、明治一二年に創建しているっていう点。
 なんでかなぁと思ったらのですが、豊国神社は豊臣秀吉の遺言により火葬でなく遺体を方広寺の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬し、廟所として建立されたのに始まり、徳川時代には冷遇される。 明治天皇も徳川幕府を破って新しい時代をつくり当初は神道だったわけで徳川によって冷遇された神道の豊臣秀吉も復活という流れだったのでは。明治天皇も南朝(桓武平氏系)ですし。

◎「五七桐」の紋について。
 豊臣家の家紋は「五七桐」であることは知っていましたが、そういえば首相記者会見の時の演台にも「五七桐」の紋が付いているなぁと、気になったので調べてみました。
 首相官邸のHPトップにもついており、質問のページにも回答が載っていました。
 桐は、聖天子の出現を待ってこの世に現れる鳳凰という瑞鳥(めでたい鳥)の宿る木だといわれており、天皇のお召しものにも桐や鳳凰などの紋様が使われるようになったといわれています(はっきりとはしていませんが、一説によれば嵯峨天皇(786~842年)の頃から使われているようです。)。
 明治政府は、明治5年に大礼服(重大な公の儀式に着用した礼服)を定め(太政官布告「大礼服制」)、例えば勅任官(天皇が任命した官吏)は、その上着に「五七の桐」を用いることとされました。明治8年には、勲章の旭日章が制定され、デザインの一部に桐花紋が使われました。
 総理大臣官邸では、以前から外国の賓客の接遇のための晩餐会等の招待状や食器、閣議室の大臣席の硯箱や大臣の表彰状などに「五七の桐」を使用しています。
 平成15年10月から首相の記者会見の際にも「五七の桐」を付した演台を使うようになりました。
 首相官邸「お答えします」より
 天皇家の菊紋章に次ぐ格式のある紋とされ、足利尊氏や豊臣秀吉なども天皇から賜っているようです。このため、五七桐は「政権担当者の紋章」という認識が定着することになった。
 ビザやパスポートなどの書類や500円硬貨(桐の図)、皇宮警察本部や法務省でも「五三桐」が紋章として使われているようです。
 こういった歴史的背景があることを知るきっかけになりました。

◎境内社に宇迦之御霊を祀る神社が2つも?豊臣秀吉についた商人の屋敷に祀っていたようです。宇迦之御霊神が商業の神様というのは一般的ですが、火難除けの神様であることを知りました。
 宇迦之御霊の眷属としてキツネが有名ですが、どういうわけか宇賀神となると人頭蛇身で”へび”になるのが未だわからない問題です。
この辺は課題としてあるのですが、またおいおい調べていきたいと思います。

 さて 巳美隊員(家内)は、先の蛇塚古墳が住宅街のど真ん中に囲まれるようにある意外さに驚きを覚えていましたが、 今回の調査地三箇所目で、すでに子供調査隊員の近畿に対する評価は低下してしまっている・・・・。
 いかん・・・。 (亭主)関白になるべく、いよいよ大阪城へ。

 おしまい




 
 
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