蛇の目ってなんぞや?!
 
へび調査隊記
(単独行) 09年10月15日
浜松市 北区 めぐり その3
 今日は 長女が学校。家内が長男の用事ということで、調査隊員はわたくし一人・・・。
思いっきりハネが伸ばせそうです。 うふふっ


この日の調査地
恩塚山古墳
井伊谷宮 龍潭寺
浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館
細江神社

三ヶ日民族資料室
浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館
http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/hamahaku/09annex/hakubut03.htm
 右側の茅葺建物は「産屋(うぶや)」で出産のための部屋。出産は不浄なものであるため家屋と別に小屋を設け生活する風習があり、明治時代まで使用されていたものを移設展示。

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所在地 〒431-1305
浜松市北区細江町気賀1015番地の1
TEL 053-523-1456
観覧料金 大人150円
高校生100円
開館時間

9:00~17:00

休館日 月曜日、休日の翌日
年始・年末(12月29日~翌年の1月3日)
駐車場 無料



展示物紹介
1階展示室
浜名湖の漁を伝える エビを寄せる”えびしだ” 養蚕業の紹介


2階展示室
10万年前
ナウマン象 臼歯と牙化石

 細江町中川祝田坂(ほうだざか)出土

 浜松博物館には浜松市西区佐浜町(浜名湖の東側)で出土したナウマン象の臼歯と全体骨格が展示してありましたが、ここでは牙の化石が見れますね。

 氷河期に大陸から渡ってきたといわれていますが、臼歯や牙のみ出土している理由はエナメル質で守られているからということです。
縄文時代
石鏃 石錘 石匙

 宿名遺跡
 縄文時代

宿名遺跡は中川の平野に面した丘の上にある縄文時代の遺跡
弥生時代
袈裟襷紋銅鐸
浜松市都田町前原出土
突線鈕2式 三遠式
実物
袈裟襷紋銅鐸
浜松市細江町中川船渡出土
突線鈕3式 三遠式
レプリカ(東大総合資料館像)
袈裟襷紋銅鐸
浜松市細江町中川・穴ノ谷
突線鈕式 近畿ⅡC
実物
袈裟襷紋銅鐸
引佐郡細江町中川・不動平 突線鈕3式 近畿ⅡA
実物

 さすが銅鐸の歴史資料館というだけあって レプリカだけでなく実物が上記以外にも数点展示してあり見ごたえある資料館となっています。時代はおおよそ弥生時代2世紀頃。
 
 銅鐸は弥生時代 1世紀頃流水文で高さ30cm前後だったものが1世紀末急に大型になり袈裟襷紋の近畿式・三遠式のものとなっていく。

 下記PDFファイルでは銅鐸の出土分布情報を知る事ができます。静岡県のこの辺りは銅鐸が多く出土するの東限に辺り興味深いですね。

『鳥取県埋蔵物文化情報』
http://www.pref.shimane.lg.jp/maizobunkazai/maizobunkazaijoho/baibuninfo.data/seido.pdf
古墳時代
彷製(国産)変形獣帯鏡

 陣座ヶ谷(じんざがや)古墳出土
 径8.4cm 厚0.2cm
 古墳時代中期(6世紀頃)
 陣座ヶ谷(じんざがや)古墳は静岡県指定史跡で、浜名湖北西 浜名湖に注ぐ都田川の河口南部に位置する墳丘で、引佐町屈指の前方後円墳です。

 前方部を西に向け全長約55m、後円部径約42m、前方部幅約20m
 古墳時代中期(6世紀頃)
 都田川流域を治めた豪族の墓と考えられています。


岡の原(おかのはら)遺跡

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 岡の平遺跡は、縄文時代晩期~弥生時代の集落で、縄文時代の土器、石器、歯牙垂飾。
 弥生時代前期~後期にかけての土器、水田用農機具が出土しています
石斧 と 壷

 岡の平遺跡(おかのひらいせき)
 縄文時代晩期 

壷は径4cmくらい、石斧は大きいもので12cmほどだったと思います。
石棒祭祀

 岡の平遺跡(おかのひらいせき)
 縄文時代晩期 
弥生土器  この模様好き!!

 弥生時代

 その他弥生時代のものに銅鏃、木製の舟形などが展示されていました。 舟形はその名のとおり全長30cmほどで木でできた舟の形をしています。模型のような感じです。祭りごとや、おまじないに使用してのでしょうか。
石整装飾品

 古墳時代

 
赤砂利古墳

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赤砂利古墳群は 細江町西気賀地の小引佐と呼ぶ宝渚山と稲荷山を結ぶ鞍部にあたる峠にあります。
全長4.9mの1号墳、下記玉類写真の出土した2号墳はみかん畑の造成でなくなっているが、稲荷山山頂部には現在4基以上が確認されている。
玉類
須恵器類

はそう 杯 平瓶 器台付土器などが出土しているようでうす。
神内平古墳群
すもう取りの埴輪 フンドシ(まわし)部分!! 
肩(上半身)・顔部(花から耳)の展示もあり

 形象(人物)埴輪
 神内平1号墳出土

 神内平古墳群は細江町桜ヶ丘の住宅地の山に現在は消滅しているものの6基前後の古墳からなっていたそうです。円筒埴輪の他、馬、にわとり、家型などさまざまな形象埴輪も出土しているようです。

 すもう取りの埴輪は展示標識には1号墳とありますが 説明書きには3号墳(5世紀末~6世紀始め)の前方後円墳からと書かれております。
数体の相撲取り埴輪が出土しているのでしょうか?



細江神社 その1
所在地 静岡県浜松市北区細江町気賀996
053-522-1857
式内社 遠江國濱名郡 角避比古神社 名神大
遠江國引佐郡 大神社
旧郷社
御祭神

建速素盞嗚尊 奇稻田姫尊
牛頭天王を祀る神社。通称”気賀のお天王さま”

創祀年代 不詳。 一説に永正七年(1510)の創建、また天正十二年(1584)十二月とも。
明治元年9月社名を細江神社と改める
駐車場 約15台
 
細江神社御由緒

一、御祭神
   素盞嗚尊 奇稲田姫尊

一、 例祭日
   七月第三土曜日

一、 御由緒
 名神大社 角避比古神社(元国幣中社)は浜名郡新居町 に御鎮座、第五十五代文徳天皇嘉祥三年(八五〇年)官社 に列せられた立派な神社で、浜名湖入口の守護神として氏 子の方々に厚く信仰されていたが、第百三代後土御門天皇 明応七年(一四九八年)八月二十五日、大地震、大海嘯が おこり、神殿、建造物がことごとく流没したが、奇跡的に ご神体は、村櫛をへて、伊目の十三本松に漂着、里人は隠 岐大明神の地に仮宮を建てて祀った。
 しかし十二年後再び地震による大津波のため、気賀の赤 池へと漂着された。気賀の里人はこの地に仮宮を建てて祀 り、翌月九月現今の地に社殿を建て、牛頭天王社と称え祀 ることとなった。以来気賀の総鎮守としてあがめられ、明 治六年三月、神社の社格が郷社となったが、戦後はこの制 度は廃止となった。
 赤池の里は当社より約三百米東南にあり、例祭日には神 輿の渡御が行われる。

一、 御神徳
 清く、正しく、睦まじく、強く、すべてのものを生かし 伸ばし育てる。これが神様の御教えであります。
 人間の罪穢れや、悲しみ、喜び、そして生死といった、 自然界、人間界のさけがたい運命を一身に負いながら、そ れを良い方向に導くために苦労された神様です。
 悩める人、苦しめる人は胸中を知り、その人々に起る災 厄、疫病を除くに喜んで救の手を差しのべられる神様です。
 そして人々の罪を償われようとする御神徳により、疫病 除けは勿論、豊作、大漁、招福、開運、万民守護、縁結び の神様として信仰されています。

一、 地震災難消除
 御由緒の中に書いてありますように、当社は明応七年の 大地震により御神璽が一番安全な所として、この気賀の里 に着御し、地元の人々が地震にも負けない尊い神様だと創 立した神社です。
 いつ発生するかわからない災難を最小限でありますよう に、又最小限ですむように祈祷する神社です。
 境内のパノラマ写真 (銅鐸の歴史民族資料館の帰りに)
細江神社社叢・楠
  昭和49年5月1日指定
明応7年(1498)の大地震による大津波で浜名湖の湖口を守る神として、荒井(新居)の里に祭られていた、角避比古神社の御神体の素盞嗚尊が、気賀上村の赤池の地に漂着したといわれる。
人々は初め赤池の北90m程のところに仮屋を建て祭っていたが、永正7年(1510)この地に社殿を建てて祀った。
社叢には、この時以来数百年の年輪を重ねた、根回り18mもある楠が林立し、歴史の変遷を静かに見守っている。また天台烏薬、亜熱帯性植物など多数の珍種植物が群生している。 
             昭和63年3月20日
             細江町教育委員会

感想
 
 浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館では実物の銅鐸とナウマン象の牙化石を見ることができとても満足です。 写真撮影も来館者が少なかったのでOKということでした。他の来館者の方に迷惑にならないようにということが条件のようです。
 展示物で面白いのは形象埴輪の人物に”すもうとり”があり”まわし(フンドシ)”をしている埴輪があったことですね。
 調べてみると、
 保渡田Ⅶ遺跡・八幡塚古墳(群馬県高崎市)
 芝宮古墳(群馬県富岡市)
 原山1号墳(福島県)
 高津天神山古墳・三昧塚古墳・舟塚古墳(茨城県)
 飯山登山古墳(神奈川県)・四条古墳(奈良県)
 井辺八幡山古墳 (和歌山県 同志社大学歴史資料館)
 など  多くの相撲形埴輪が出土しているようです。
 真の継体天皇陵とされる高槻市の今城塚古墳(いましろづかこふん)では 天皇を武人や巫女が取り巻き相撲を観戦していたような生活ぶりを観測できるようです。
 
 国内最古の歴史書である日本書記には、 野見宿禰(のみのすくね )当麻蹴速(たいまのけはや) による力自慢対決の話があり、相撲が国技である理由がこういったことを調べるうちにわかってくることがとても面白いです。

また
 古代メソポタミア初期王朝時代(起源前3000年頃)の遺跡テル・アグラブで 2人の男が右四つに取り組んでいる青銅製の「闘技像脚付双壺」が発掘されていたり、エジプト中王国時代(起源前2000~前1800)のバニハサンの壁画に、レスリングのような形をした裸体の男が、さまざまの姿態で描かれているようです。
 さまざまな国、時代で、同じようなスポーツがされていたといえばそれまでかもしれませんが、これまで見てきた中にも古墳時代の遺物にエジプトの玉杖のようなものが出土していたり、ペルシャの装飾品が出土している事、古墳の陶棺(吉備地方が主な出土)はユダヤ説、天照大御神を祀る伊勢神宮として毎年行われる神宮奉納がありますが、伊勢神宮の灯篭にダビデの紋があることは以前記して来ました。
 
 ”決着歴史ミステリー”と言う番組では相撲のルーツをアラブとし、 
 『ハッケ・ヨイ(HaKeH・YoHY)』・・・投げつけよ・やっつけよ
 『ノコッタ(NKIT)』・・・投げたぞ・やったぞ
  という意味があるそうです。

 そういったことなどからも 民族・文化が日本に入ってきたことを伺えますね。

 今回の細江町歴史民族資料館の調査で失敗した事は資料館に気をとられ細江神社の調査が足りなかった事です。
 細江神社境内の右手に藺草神社があります。その前の楠の木の根元に大きなムロがあり、大蛇と大蝙蝠が、決闘を行い決闘の血の跡が残っているということだったのです。
 う~~~ん 詰めが甘かったと反省です。

 でも細江神社の東隣りには浜松で有名な日本画家”野島青茲”先生の生家『吉野家』があるんです。

 私どもがお世話になっている同じく日本画家の竹内雅明先生も御懇意させていただいている御料理屋さんです。両親もまた伺わせて頂く事があると思いますのでそのときには細江神社の大楠の調査もお願いしたいと思います。 

 それでは
 4件目の  三ヶ日民族資料室 へ



相撲のルーツについて 参考サイト様
 ◎「日本社会における相撲の変容」 ―文化史としての日本相撲史―
 ◎豊田道場HP管理人様ブログ

 
 
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