蛇の目ってなんぞや?!
 
   蛇の目って?
「へび」を調べる 
- 蛇の遺物に見る民族の流れを探る -
 
第九章 蛇の目と呼ばれるもの
 第九章以降は『へびって?』のへびについて調べるステージから、蛇の目について調べていく『蛇の目って?』にステージが変わります。
 2010年に第十章までで一度まとめていますが 2011年以降に新に追記という形で 第11,12章としています。
 
 「蛇の目って?」に最初に来られた方も第八章へびの生態を一度ご覧いただけるとへびの奇特性を知っていただけるものと思っております。

 それでは 
 第九章で”蛇の目(じゃのめ)”の定義と蛇の目と名前が付くものを、
 第十章、第十一章では同心円のものを取り上げ、
 第十二章 以降で その起源や思想についてまとめていきます。
 ”蛇の目(じゃのめ)” という不思議な同心円について知っていただき、”へび””(へび)の目”という「怖~~~い。」「気持ちわる~~~い」。というイメージが払拭できたらうれしく思います。

一、蛇の目の意味
蛇の目 
 ① 大小2つの同心円からなる模様・家紋・弦巻(つるまき)にかたどったもの
 「水の面にほつつりと一つの落ちて-を描く/自然と人生(蘆花)(あしはな)
 ② 建築で用いる輪形の鉄の金具。肘壺(ひじつぼ)の間に、
 摩擦を少なくするために 差し込む輪など。

   スーパー大辞林 「sharp」 より

蛇の目
 ① へびの目。また、それに似た、意地悪く冷酷そうな目
 ② へびの目のように太い輪の形をした図形。また、その形の紋所の名。
 ③ 蛇の目傘の略
 ④ 蛇の目回しの略

   小学館 大辞泉 より

蛇の目
 ① 輪貫(わぬき)と呼ぶ輪の模様の俗称。またその形の紋所の名。
 蛇の目・三つ蛇の目・捩り蛇の目・九曜蛇の目などがある。
 ② [建築]肘壺(ひじつぼ)の間に摩擦を減らすために 挿入する輪。
 ③ 蛇の目のような鋭い目つき。
 ④ 蛇の目傘の略
 ⑤ 蛇の目回しの略
 
   岩波書店 広辞苑 より

 *とあり たびたび使用してきた 大日本百科事典には 
 蛇の目の項がありませんでした。 なんで?
 大辞泉には そのものずばり へびの目と書かれていますね~~。
 広辞苑でも だいたい同じですね。





二、蛇の目のつく言葉
① 蛇の目傘
Ⅰ・ 番傘に蛇の目模様
雨天用傘の一種で、
開くと太い輪の蛇の目模様が現れるため
この名が付きました。

もともと 貸し傘に番号をつけて貸し出していた「番傘」を改良して作られ 現在では番傘も含め 和傘一般を蛇の目ともいわれています。

◎こちら 野点傘・番傘・蛇の目傘を製作している 
 日吉屋さんのよくある質問に蛇の目傘のことが記されています。
http://www.wagasa.com/faq/index.html


◎和装履物現代屋さん より引用
http://www.gendaiya.co.jp/s_wagasa.htm

和傘は竹と紙で作った日本固有の雨具です。和傘発祥の地はビルマ、タイ、ベトナムでそこから、中国-日本と伝わったそうです。
唐傘が伝わるまで、日本の雨具は笠(雨・雪・日光などを防ぐために頭にかぶるものかぶりがさ)でした。今使われている傘の漢字は広げた中に人が入るという事でできた漢字だそうです。
◆唐傘の言われ
中国の唐からの伝来なので、カラカサと呼ばれるようになったという説と、初めてみた人は開けたり閉めたりとカラクリのついた傘という事でカラクリ傘と言われていたのがカラ傘に省略されたとの説もあります。
和傘は蛇の目と番傘に大別されます。

◎和傘の言われ  (WIKIより引用) 
東洋では、傘はまず、貴人に差しかける天蓋として古代中国で発明され、その後、飛鳥時代の552年に仏教の儀式用の道具として朝鮮半島(百済)を経由して日本に伝来され、「きぬがさ」(絹笠、衣笠)と呼ばれた。




Ⅱ・ 絵画に蛇の目傘
浮世絵に蛇の目傘

巨匠 葛飾北斎より
  小学館 「浮世絵ギャラリー2 北斎の美人」 小林 忠 著    より
葛飾北斎
雪中傘持ち美人
葛飾北斎
柳下傘持ち美人




日本画に蛇の目傘

 著作権に触れるかどうか解りませんが蛇の目傘の部分研究資料として
掲載させていただきました。(メールにて連絡済)
 
 下記は家にある 朝日グラフ 美術特集より 日本画
     上村松園 伊東深水 鏑木清方

鏑木清方 紅梅 鏑木清方 新富町 伊東深水 梅雨 伊東深水 春雨
上村松園 雪 上村松園 雪 上村松園 志ぐれ 上村松園 牡丹雪

  やっぱり 着物と 蛇の目傘は合いますね~~ 美しい!!
  ほんとに 太い輪が描かれていますね。
  番傘に この蛇の目をいれ そのデザイン性から急速に広がり 
  人気が出たということです。
  
  これぞ 蛇の目美人と させていただきました!!




Ⅲ・ 歌に蛇の目傘
      「アメフリ」
           北原白秋

  雨 雨 降れ 降れ
  母樣が蛇の目でお迎ひ嬉しいな
  ピツチピツチ チヤツプチヤツプ
  ランランラン
 
  かけましよ鞄を
  母樣の後からゆこゆこ鐘が鳴る
  ピツチピツチ チヤツプチヤツプ
  ランランラン
 
  あらあらあの子はづぶ濡れだ
  柳の根かたで泣いてゐる
  ピツチピツチ チヤツプチヤツプ
  ランランラン
 
  母樣僕のを貸しましよか
  君君この傘さし給ひ
  ピツチピツチ チヤツプチヤツプ
  ランランラン
 
  僕ならいゝんだ
  母樣の大きな蛇の目に入つてく
  ピツチピツチ チヤツプチヤツプ
  ランランラン

この歌詞は 著作権の切れた作品
  ということで 下記より 使用させていただきました
   http://www.d-score.com/ar/A03050601.html

 *あらためて 最後まで歌詞を詠んでみると いい歌ではありませんか!
  ・傘を持たない子に貸してあげ  
  ・さらに大きい蛇の目傘をアピール  心の広さを表しているようですね!





        「赤い傘」 
              ふきのとう

 赤い蛇の目の 傘をさして
 それは まるで 絵のように
 あの女(ひと)が 私にふりむく
 
 思い出すのは ひとつの傘で
  あの女の 髪のにおい
 雨宿り 恋の雨
    ・
    ・
    ・
 こんな夕暮れ 恋をした
 あなたの 傘の中
 こんな雨の日 恋をした
 あなたの 傘の中

 *正直 知りませんでしたが 今でも人気がある様です。 下記より試聴できます。
  http://www.neowing.co.jp/FM802/detailview.html?KEY=SRCL-4918   
 古都京都での思いを歌にしたのでしょうか  
 京都の町と蛇の目傘はよく合いますね
  




「恋蛇の目」 歌:高田ともえ

    作詞:松井由利夫  作曲:池多孝春

 現在も 歌謡舞踊として 人気があります。





「春蛇の目」 歌:小杉真貴子

  作詩:
たなかゆきを 作曲 藤本琇丈
               編曲 山田年秋

 民謡歌手として 活動なさっています 実力派ですね。
 こちらも 舞踊歌謡として人気があります。





蛇の目のかげで」 歌・日本橋きみ栄

    作詞:並木せんざ 作曲:阿部武雄
   
 昭和12年に大ヒットした名曲だそうです。
 残念ながら歌詞を探すことはできませんでした、
 意外と懐メロなどを探したら結構歌詞の中にも 
 蛇の目を探すことができるかもしれませんね





Ⅳ・ 蛇の目傘 時代
北原白秋(きたはら・はくしゅう) 明治18年1月25日~昭和17年11月2日
他の歌(蛇の目を含む)は昭和の歌

鏑木清方 明治~昭和期
上村松園 明治~昭和期
伊東深水 大正・昭和期
葛飾北斎 1760年宝暦生まれ 江戸時代の化政文化を代表する浮世絵師

手元にある少ない資料から探したので・・・。
蛇の目傘が広まったのが元禄時代(1688年)ということですので 葛飾北斎が描く間100年弱あります。
本当に元禄あたりなのか、残された絵画や作品から探ってみようと思ったのですが とてもとても資料不足。 今後に課題を残しました。


◎ 歌や絵画から元禄よりも以前に作られた事実は見つかりそうにもありませんが、下記サイト「洋がさタイムズ」さんにて、和傘のことが詳しく載っていました。以下引用
http://www.kasaya.com/times/011.htm

文化年間(1804~18)に出た『我衣』に、「貞享より地のもみ地傘。きゃしゃ也。天 井青紙、青どさにて、細工ヘリを取、絹糸装束柄と巻。元禄より、蛇の目傘出る云々 」とある。

なるほど 『我衣』という書物に 元禄より と記されていたのですね
よく元禄時代からというのは目にしていたのですが こういった書物等による事実を探していました 「洋がさタイムズ」さん ありがとうございます。





② 家紋 蛇の目紋 
Ⅰ・ 種類
 蛇の目に似ているので蛇の目紋と呼ばれていますが
 古くは弦巻(つるまき)紋と称し 腰につける弓の弦を巻きつける
 革や籐製の器具を図案化したもののようです。
     
蛇の目 陰蛇の目 丸に蛇の目 陰陽重蛇の目
三盛り蛇の目 三捻蛇の目 四捻蛇の目 五捻蛇の目
四蛇の目 四並蛇の目 七つ蛇の目
(蛇の目七曜)
蛇の目九曜
三つ剣蛇の目 五つ剣蛇の目 糸輪三割蛇目 糸輪蛇目崩し

2つ重ね蛇目一 蛇目輪に三鱗 糸輪覗蔭蛇目 糸輪覗き蛇目 比翼蛇の目

六角井筒に
蛇の目


参考資料
*59 梧桐書院 本田 総一郎・監修 「新集 家紋大全」<特装版>
*60 「家紋の文化史」 大枝史郎 著 講談社
(いずれも ウェブデザイナーで自作しました。)
Ⅱ・ 使用していた人物(有名人・歴史上人物) 
◎ 加藤清正
蛇の目
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名、肥後熊本藩初代藩主である。
豊臣秀吉の家臣として仕え、各地を転戦し武功を挙げ肥後北部を与えられた。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後熊本藩主となった。「賤ヶ岳七本槍」の一人である。主君秀吉の死後も豊臣家に忠義を尽くしたことが有名。
(WIKIより)
 清正が秀吉の命により肥後に赴くにあたり 前藩主・尾藤知定(びとうともさだ)
 武具・調度一切を 清正に与えました 
 清正もそのまま 尾藤家の家紋「桔梗紋」をつかい 尾藤家の家臣300人も
 そのまま引継ぎ 誇りを傷つけることなく 働らかす事ができたとのことです。
 戦には「蛇の目」、慶事には「桔梗」、文化的な事には「折墨」 と、
 3つの家紋をつかいわけていたそうです。(このように家紋を使い分ける事を替紋という。)

 熊本城 公式ホームページより 
 http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?id=449


 ついでに 加藤清正のルーツを調べようしましたがわからず。
 以前 矢切止夫の本で読んだ記憶があるのですが 時間ができたら
 調べようと思います。

 ◎熊本 浄土宗護念寺 も寺慶長6年熊本城築城のとき、
 清正が鬼門除けのため築城の材木を分け与え、元和2(1616)年建立した。
 そのさい本堂の天井梁に朱で蛇の目を入れている。
◎ 雨森(三左衛門)良高
蛇の目
 室町時代(1300年代)北近江に生まれる。3歳にして言葉をいえなかった良高は、父高良の実子で無いと(そし)られ、母親と共にの実家越前に帰されることに。途中、近江国富永庄で雨雪が降りしきり、森で雨雪をしのぐことに。そのとき、良高がはじめて「アメモル」と言葉を発し喜んだことから、そのあたりを「雨森村」とし、成長した良高は姓を「雨森」と名乗る。
 23歳を過ぎた頃、良高の夢に龍神が出て、橘の花を渡し目玉を書き置けば子孫に水難を除くと言われたことに由来し、「橘」を本紋に、「蛇の目」を幕紋に用いるようになった。( 雨森氏の発祥伝説『出雲雨森氏系図』による。 )
 藤原高藤の末裔、藤原高良の三男で、雨森氏の祖。良高の末裔には、「雨森芳州家」、「出雲雨森氏」、「土佐雨森氏」、「雨森良意家」などがある。
◎ 飯富(兵部少輔)虎昌
蛇の目
 永正元年(1504年)に生まれる。戦国時代の武将で甲斐武田氏の重臣。武田二十四将の一人。信濃佐久郡内山城を領した。
 河内源氏(あるいは甲斐源氏)の一族で、源義家の四男・源義忠の子・飯富忠宗の末裔と言う説。古代の多氏の末裔説がある。
虎昌は武田信虎の時代から武田家の譜代家老衆。、
 『甲斐国誌』より蛇の目紋由来
◎ 佐久間信盛
蛇の目九曜
 安土桃山時代の武将で佐久間氏の当主。尾張国に生まれ、早くから織田信秀(信長の父)に仕え、その後織田信長の家臣として仕える。
 六角氏との戦い、一向宗との戦い、比叡山焼き討ちで武功を上げ、家臣最大規模の軍団を率いるまでと成るが、信長から19ヶ条の折檻状(功績を挙げてない怒り)を突きつけられ、信盛は嫡男・佐久間信栄と共に高野山に追放された。
 佐久間氏の武功を記録した佐久間軍記がある。
◎ 加藤友三郎
蛇の目
 第21代内閣総理大臣、在位1922年(大正11年)6月12日
広島藩士、加藤七郎兵衛の三男として広島市大手町に生まれる。
父・七郎兵衛は家禄13石の下級藩士だった。
ワシントン会議には日本首席全権委員として出席。
総理時代にはシベリア撤兵・軍縮の実施などの重要な課題を遂行。
没:1923年(大正12年)8月24日
 加藤清正、加藤高明首相とは血縁関係が無いようです。
 また、加藤高明首相(岩崎弥太郎の娘婿)は大阪出身で家紋は”六つ唐団扇(むつとううちわ)
◎ 神崎(与五郎)則休
蛇の目
 寛文6年(1666年)今の岡山県津山市に津山藩森家家臣の神崎又市光則の長男として生まれる。
 赤穂浪士四十七士の一人。通称は与五郎(よごろう)。大高源五・萱野三平と並んで浅野家中きっての俳人として知られた。

没:元禄16年2月4日(1703年3月20日)・37歳
◎ 加藤光泰
蛇の目
 天文6年(1537年)美濃国多芸郡橋爪に生まれる。安土桃山時代の日本の武将。
 美濃の斎藤龍興に仕えてた後、美濃衆として、豊臣秀吉に仕え家臣となる。
 加藤景泰の子。正室は一柳可遊(右近)の娘。子に伊予国大洲藩初代藩主加藤貞泰、養子に可遊の子で甥にあたる加藤光吉。
 
没:文禄2年8月29日(1593年9月24日)
◎ 飯沼長継
蛇の目
 戦国・安土桃山時代の美濃国の武将。飯沼(土岐)長就の息子。加藤光泰同様斎藤龍興滅亡後、織田信長に仕えた。美濃「大垣城」城主にまでなるが、信長死後、秀吉につくが跡目争いの信孝との内密を疑われ暗殺される。
 身長が高く目が大きかったため、信長の命で蛇の目を紋にしたと伝わる。

没:天正11年(1583年)
 息子の飯沼長実は織田秀信に仕えた。
◎ 石川忠総(ただふさ)
蛇の目
 1582年(天正10年)、大久保忠隣の次男として生まれる。母は石川家成の娘で、関が原の戦いの後、祖父石川家成の養子となる。 家成の子康通が死に祖父家成も死に、嗣子である忠義が幼少であった為、家督を継ぐ。
 忠隣の子ということもあるが、彼自身才能に優れ、功績も多かったため、家康や徳川秀忠から大いに信任を受けた。家康は病床にあるとき、秀忠に忠総を大切に扱えと遺したとまで言われている。
 江戸時代前期の大名。美濃大垣藩第3代藩主、豊後国日田藩主、下総国佐倉藩主、近江国膳所藩初代藩主。伊勢亀山藩石川家3代。
没: 1651年2月14日(慶安3年12月24日)69歳

芹沢美術館蔵 「諸将旌旗図屏風」の安土桃山時代の軍旗では「浅葱地に蛇の目」が描かれている。
ただし、石川数正の家紋は丸に笹竜胆。松本城に残る家紋も笹竜胆。
◎ 吉川広家
蛇の目九曜
 永禄4年(1561年)11月1日、吉川元春の三男として生まれる。
 毛利家家臣で岩国領初代当主。正式な大名でなく、あくまで毛利家の家老という陪臣であり、岩国藩主との表記は誤りである。
 
 関が原の合戦時、西軍についていたものの、独断で黒田長政を通じ家康と密約を交わし毛利家が東軍に攻めないように働いた。
 吉川家御当主 吉川重幹氏を名誉顧問に岩国藩鉄砲隊保存会が発足。 
石田流砲術の伝承と歴史都市岩国のイメージアップを目指し吉川家の家紋・蛇の目九曜を掲げ活動している。 (岩国藩鉄砲隊HP
◎ 川島義之
蛇の目
 1878年5月25日、愛媛県生まれ。陸軍士官学校、陸軍大学、陸軍省を経て岡田内閣では陸軍大臣に就任。統制派と皇道派の対立する中、中立的な立場だった。二二六事件のでは黒幕とも親しかったが巧く修理できなかった。
 教育総監部本部長、朝鮮軍司令官、軍事参議官を歴任。
 夏目漱石の教え子だった。

没:1945年9月8日
◎ 加藤楸邨(かとうしゅうそん)
蛇の目
 1905年5月26日、東京市北千束に生まれの俳人、国文学者。(出生届は山梨県大月市。)
水原秋桜子の主宰する『馬酔木』に投句し秋桜子氏に師事。
『まぼろしの鹿』で第二回蛇笏賞を受賞。
俳誌『寒雷』を主宰創刊。金子兜太、森澄雄、古沢太穂、田川飛旅子らなど「楸邨山脈」と呼ばれるほど、多様な俳人が育つ。
松尾芭蕉の研究などの功績により紫綬褒章、勲三等瑞宝章を叙勲した。

本名:加藤健雄
没:1993年7月3日


◎ 堀江七郎
八つ蛇の目紋
『越前朝倉氏の家臣 父・景恒経がひとりの美女と契り、七郎をもうけた。女は蛇身であると告げ、景経に蛇の目の旗を渡してその身を消した。 この堀江氏は「八つ蛇の目紋」を使用している。』 
といった伝説があるようですが、八つ蛇の目紋・伝説の出典が分かりませんでした。
◎ 安芸 渡辺氏
三盛り蛇の目
 戦国大名毛利元就氏に仕えた安芸渡辺氏が「三つ盛蛇の目紋」を用いたという記述を見るが、渡辺氏の家紋は”三つ星に一文字(渡辺星)”であり、はっきりしなかった。

 渡辺氏の祖 渡辺綱を描いた江戸時代の歌川国芳の画には、”三つ星に一文字(渡辺星)”が描かれる。
 その末裔である尾張藩家老渡辺守綱は同じく”三つ星に一文字(渡辺星)”で、真宗大谷派 渡邉山 守綱寺に残る掛け軸画にも家紋が記されている。
元就の時代、同じく渡辺綱を祖とし、勝 --- 通 --- 長 と続くが検索するも この三氏ではないようで。
また、通は天文十二年(1543)五月、出雲敗走中に尼子軍の追撃を受け元就が危なくなると、元就の甲胄を着用し踏みとどまり、元就に代わって討死する。この忠節に感じた元就は、毛利家の続く限り、渡辺の家を見捨てぬことを誓ったと伝えられ、以後、毛利家歳首甲胄の賀儀において通の子孫が先ずそのことに預かった。ということですが、長州藩の甲冑開き も調べきれず・・・。

 三つ星、重ね三つ星、丸に三つ星、渡辺扇、柏、蛇の目、笹竜胆、月に夕顔などを使用する渡辺氏もいるということですが、蛇の目紋を使用していた方がわかりませんでした。
◎ 戸田家 宇都宮城主、戸田日向守忠友
蛇の目
戊辰(1868年)戊辰戦争時、宇都宮城主であった戸田日向(越前)守が戦わずして館林に落ちのびたことによる流行歌 紋所が蛇の目であったことから、
 『戸田の蛇の目と蛇の目が違う 大垣蛇の目は逃げはせぬ』
 『戸田の蛇の目は一度は逃げた 二度と三度は逃げはせぬ』
による。 (會東照大権現 戊辰物語参照)
ただし、名誉の為付記するが、佐幕派として第15代将軍・徳川慶喜の助命嘆願を行なうべく上洛しようとした道中であった為、陣頭指揮ができなかったとも・・。
 その後、戸田忠友は新政府より隠居命令を出されるが藩内の強い反対から謹慎を解かれ版籍奉還で宇都宮藩知事となっている。
 家系は田原戸田家の嫡流
 なんとすばらしく世渡り上手だ・・・。しかし、家紋は六星紋のようだ。
 宇都宮藩戸田家4代目、忠真が建てた英巌寺のお墓写真にも家紋らしきものは見当たらないようです。(ネットにて) 
◎ 戸田家 大垣城主、戸田氏共(うじたか)
蛇の目
上記 流行歌による 美濃大垣城主は戸田氏共であるが、家紋は九曜紋のようである。
 家系は三河国人の戸田氏と同族で戸田氏輝を祖とする

 この大垣戸田家、田原戸田家とも三河戸田氏、戸田 宗光(むねみつ)を祖とする。戸田 宗光は室町中期の武将。

 大垣戸田家菩提寺の円通寺の墓写真には家紋らしきものは見当たらず。(ネットにて)
 紋所として使用といいますが加藤清正のように替紋として、使用していたのかもしれません。
◎ その他
以下 蛇の目紋と関係がある武将等いるようですが、出典や確証が取れませんでしたので保留します。

 ◎熊本藩 細川忠興の実弟 興元(常陸筑波郡谷田部藩主)
 ◎
京極の諸大名も使用している。
 ◎飯富、堀江、松平氏 も蛇の目紋

 ◎家紋が蛇の目ではないが・・・、
 九州の豪族緒方氏は大和の豪族大神氏の分かれで、
 九州の地方官として下向した大神良臣が任を終えて帰京するとき、
 かれの善政を慕った領民の声に応えて子 「庶幾」を残した。
 その庶幾の母が蛇神であったというのである。
  緒方氏の家紋は三本杉であり、杉紋は大和の大神神社の神紋である。
 大神神社の神官は大神氏であって、緒方氏は先祖の縁りを家紋として
 伝えたのである。余談ながら大神神社の神使は蛇

 ◎蛇にまつわる姓、巳下、巳南、巳川さん。
 蛇の字のつく、蛇喰(じゃばみ)、蛇穴(さらぎ)さんも
 「蛇の目紋」を用いているという。


◎ 佐受(さず)神社 (佐受(さうけ)神社)
蛇の目九曜
神紋として
所在地 兵庫県美方郡香美町香住区米地字宮脇417-2
式内社 但馬國美含郡 佐受神社
旧村社
御祭神 佐受主命 佐受姫命
創祀年代 社伝として、欽明天皇三十二年三月、佐須知公の創立とする。
大同元年(806)佐自努公民をもって美含郡大領に任じ、従八位上を授く。
大同二年、始めて高蔭祭を行い、延長五年(927)十二月、官社に列す。
祭神 『平成祭データ』には、佐受主命・佐受姫命。
『但馬神社鑑』には、佐自努命(佐須氏の祖神)・佐須姫命(妃)。
『但馬神社名目抄』には、佐自努命・綺?姫命。
『神名帳考證』には、豊城入彦命。
ただし明治三年には保食神として申請したらしく、保食神とする資料もある。

『兵庫県神社誌』によると稲荷神社らしい。(境内の右手に境内社の祠が一つ)
本殿の屋根に、普通の九曜紋ではなく真ん中に穴がある”蛇の目九曜紋に見える神紋があるということです。

 玄松子の記憶』様 「神紋調査」 「弦巻・蛇の目紋」 「佐受神社」より



 

参考文献
 *家紋Wordさん  http://www.harimaya.com/kamon/column/zyanome.html 
 *エーゴパンチ・ドットコムさん  http://www.a5punch.com/ComeOnYellowCD.pdf
 *WIKI
 *岩国藩鉄砲隊HP



Ⅲ・ 蛇の目紋 と時代関係

◎家紋の事は家紋専門のサイトさんに聞いてみるのが一番では・・・と。
「風雲戦国史 戦国武将の家紋」さんより引用
http://www2.harimaya.com/sengoku/index.html(トップページ)
http://www2.harimaya.com/sengoku/buke1.html
平安末期に登場した武士。最初は赤、白といった色で敵味方の識別をしていた。しかし合戦が重なり、もっと武士の所在(功名)をはっきりするためには、色だけでは役立たなくなった。そこで登場したのが武家の紋章だったという。

◎「家紋の湊 家紋辞典とデータサービス」さんより 
http://www.otomiya.com/kamon/history.htm
文様の原型は大陸から伝来してきた文化・仏教の影響を色濃く受け、飛鳥時代にはすでに用いられており、平安時代にはすでに広く普及していたようです。家紋は文様の意匠を取り入れながら、身近な器物や花鳥風月といった写実的なものからスタートして、室町時代にはよりシンボル化された紋章へと変化していきました。

◎WIKIにも大体同じような事がかかれていますね。
◎「大宮家紋研究所」さんより
http://www.omiya-kamon.com/index.html(トップページ)
http://www.omiya-kamon.com/history/history 01.html
古く縄文・弥生時代の土器などに見られる「爪型・縄型・波型」などの文様に家紋の原型を見ることができます。これらの幾何学的にパターン化された文様は、現在の家紋に通じるものがあります。

うんうん だんだん時代をさかのぼってきました!
大宮家紋研究所さんは 当ホームページ装飾古墳の模様にある蛇の目模様のような紋を同じように家紋の原型と見ていらっしゃるのでしょうか?
武家の家紋が 武家登場と同時くらいに平安時代からあらわあれ
蛇の目紋のような形の家紋の原型も縄文・弥生時代に見ることができるという事がいえると思います。
蛇の目傘(元禄時代)より かなり古い時代から 蛇の目という言葉があった可能性がでてきました。




③ 蛇の目砂  相撲の土俵
蛇の目砂
  享保年間に一重土俵ができ二重土俵の時代に、土俵と土俵の間に判定を容易にするために入れた砂が 蛇の目の模様になっていることから 蛇の目砂と呼ぶようになり 
 幅25cmの砂がまかれています。昭和6年以降一重になった現在も蛇の目砂と呼び 
 二重土俵のことを蛇の目土俵と呼んでいましす
Ⅰ・ 相撲の土俵について
土俵の始まり
  現在の土俵の原型とおぼしき境界線が現れはじめるのは近世初期頃のことで、
 734年に宮廷行事として開始されたときからそれまで土俵は存在しませんでした

土俵の種類
  南部相撲には三重八角土俵,二重丸土俵,一重丸土俵,二重四角土俵,
 一重四角土俵が存在し
 強く儀礼性を伴って相撲が行われる際には八角土俵あるいは丸土俵が,
 鑑賞を主目的として相撲が行われる際には四角土俵が用いられていたとされる。

土俵の思想 
 ◎ 三重八角土俵・・・八角は八卦を基とし 55個の俵を用い「河図の全数」とされる
 中国神話において語られる黄河から出現した馬の背に現れていた図を「河図」といい、
 易の卦の基となったとされている。
 
◎ 「四本柱土俵五行配当の因縁」・・・『相撲伝秘書』(1776)には、
 四本柱に囲まれた土俵が陰陽五行説になぞらえ、土俵を巡る四方を結界し,
 中央である土俵を清らかなものにするといった思想が込められている。

◎ 徳俵・・・土俵のうち,東西南北の中央に俵を1つ外にずらし、
 屋根が無かった時代の水はけをよくするために用意されたものとされるが,
 四方の守り神の通い道だとする説がある。
 
◎ 初日前日の「土俵祭」・・・ ・祝詞奏上(後述する相撲の守り神に対し安泰を願う)
   清祓(いわゆるお祓い)  ・配幣と献酒(幣を然るべき位置に配置する)
                   ・方屋開口(相撲の由来を述べる)
                   ・鎮物の儀(勝栗・昆布・するめ・洗米・塩・かやの実を半紙で
                    包んで神への捧げ物を5cm四方にし土俵に埋める)
                   ・直会(列席者に神酒を注ぐ)
                   ・太鼓三周(二組の触れ太鼓が土俵を三周する)

吊り屋根
◎ 吊り屋根 
昭和27年秋から 屋根を支えていた色のついた布を巻いて季節を示しながら神を祀っていた「四本柱(しほんばしら)」を、観客に見えやすい様になくし、刺繍糸の塊(房)で代用しました。
 四房(しふさ)の色は、正面から時計廻りに青・赤・白・黒となり。この順で春夏秋冬を意味していて、それぞれ青龍・朱雀・白虎・玄武と四神獣(しじんじゅう)を表わし五穀豊穰(ごこくほうじょう)を祈念(きねん)しています。
方角も黒が北になります。

◎ 「水引幕」・・・  吊り屋根の下に張られ北から巻いて北に終わる、
冬に始まって季節をめぐって冬に終わるように巻きます。
陰陽道で水は陰なので、これで陽である相撲を鎮める意味を持ちます。



Ⅱ・ 蛇の目土俵 と時代関係
 相撲の土俵が 蛇の目といわれていることをご存知の方も多いと思いますが、
相撲のことを調べているうちに 蛇の目砂の項が随分長くなってしまいました。
 理由は 土俵や、吊り屋根自体が 「陰陽道」、「易経」などをもちいって
かなり考えられた形式であることがわかるからです。
神聖な土俵に蛇の目と名前が付くこと 
 これは 二重の輪だからという簡単な理由からつけられているのではない
ということがいえると思います。

海外で 同じように相撲と似た種目がある国 モンゴル・韓国、また沖縄
で 土俵(俵)があるのは日本だけです。
また 屋根の形は昭和6年の天覧相撲より神明造りといい、
伊勢神宮の神殿のつくりを模したものです。
 個人的な推測ですが 
 今日までに 土俵の形が 「なし→ 一重 → 二重 → 一重」と三度変わっています。
足が外にでたら負けの 相撲という競技の土俵を 二重にした理由はなんでしょうか
 砂が外に落ちないように?それとも 外側の土俵を出たら負け?
案外 土俵を蛇の目と呼びたいがために 一時二重にした。  というのは 
考えすぎでしょうか?
いづれにいたししましても 蛇の目という模様がいかに神聖なものかということが
いえると思います。



「相撲評論家之頁10周年記念連載」  7:「土俵」のはなし
大相撲東風西雅 http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/t_f_s_g/tfsg07.html


保健体育ジャーナル(教科の研究)No.58(2001年2月発行)
土俵から相撲を考える
筑波大学大学院修士課程体育研究科研究生 藤本 章  氏
http://www.gakken.co.jp/kyokatosho/hj581.html(リンク切れ)


を参考にさせていただきました


◎「大相撲支援委員会」
http://www.h2.dion.ne.jp/~adex/sumou.htm
俵を半分 土に埋めた丸土俵が登場したのは江戸中期(享保年間1716-35年)の頃で直径は3.94m(13尺)だったようです。明治になると 13尺 と 15尺 の二重土俵が採用され、1931年(昭和6年)には二重土俵の内側を廃止し、直径4.55m(15尺)の土俵になります。
1946年(昭和21年)に一度 直径4.85m(16尺)に拡大されましたが、これは当時の力士達の反発が強かったために1場所限りで4.70mに、その翌場所には4.55m(15尺)に戻されたそうです。

上の項のHPと重複しますが 二重土俵の採用を明治と記していますので
「大相撲支援委員会」さんの文を引用させていただきましたが。
蛇の目土俵=明治から呼ぶようになったとさせていただきます。




Ⅲ・蛇の目土俵 資料
相撲史跡研究会 杉浦氏所有 
 下記資料は 磐田市中央図書館にて、 杉浦氏の所有する貴重な資料の展示の際
写真撮影およびネットでの掲載の許可を頂いた物です。
 (まだ「へび調査隊」が結成される前でした。)
剣山谷右エ門錦絵(版木) 明治時代
剣山谷右衛門(つるぎさんたにうえもん)  富山市出身の幕内力士
享和3年(1803年)生まれ 
入幕 天保5年(1834年)1月 ~ 最終場所 嘉永5年(1852年)2月 
およそ 江戸後期に活躍した力士でありますが  
絵師 蜂須賀国明 (筆)が明治二十一年五十四歳で亡くなっています。
 他の二代目作品としては 
 大相撲取組之図 明治10年(1877年) 徳川美術館
 横綱土俵入之図 境川浪右衛門 相撲博物館
 江川隼太永修脱走兵を鎮撫するの図 明治13年(1880年)東京大学資料
など いづれも明治時代に活躍しています。

同じように 二重土俵 蛇の目土俵を書いた絵師 に
 一曜斎国輝(二代) 1830-1874年(明治7年) 享年45歳 
 菱川春宣筆      1890年(明治23年)  西ノ海嘉次郎  江戸東京博物館
 玉波          常陸山谷右衛門 太刀山峰右衛門などを書き明治時代に活躍しました

歌川国輝 1830-1874 
http://www.city.toyama.toyama.jp/shisetu/bunka/html/tayori/tayori42/tayori42.htm

江戸勧進相撲 元禄頃より観覧料をとって庶民にみせる勧進相撲が上方で盛んになる。
絵は二代目(歌川)一寿斎国貞(1823年~1880年)筆
 師 初代国貞の長女に入婿し、二代と名乗る。
力士は 左が横綱 雲龍(久吉) 右 黒岩森ノ助と思う。
雲龍は土俵入りの型 雲龍型・不知火型の雲龍に由来する。 
雲龍1822年(文政5年) - 1890年(明治23年)

ここでも蛇の目土俵がいつからなのか正確な年代がわからない・・・。
現時点では幕末としておいたほうが無難である。




④ 蛇の目高台
Ⅰ・ 高台とは
◎高台とは
お茶碗や、湯飲み、器の底に取り付けられた
通常みかける丸い輪の台のことを言います。

 
左のイラストは一般的な高台で、 一重高台(輪高台) といい最も多い普通の形状です。
 同心円の輪状になっていることから蛇の目高台ともいいます。
右のイラストは 高台の一箇所を切り込んだもので 切高台といいます。

Ⅱ・ 蕎麦猪口の高台
次に 私の好きな書籍の中から1つ 

*61「古伊万里 蕎麦猪口・酒器 1000」   講談社   責任編集 中島由美さん

 向付とも呼ばれ料理を盛る・薬味を入れるなどして使われたこの小鉢は
江戸時代には、猪口(ちょこ)と呼ばれていました。
 江戸初期には、かけ蕎麦が主流だったものが 後期ごろから盛り蕎麦となり
蕎麦猪口として使われるようになったようです。

色絵桐紋(蛇の目高台) 蛸唐草紋(蛇の目高台)
 
よくみる お茶碗等の高台は先にも述べた様に 輪高台(わこうだい)と呼ぶことが
多いと思います。  でも、蕎麦猪口に限っては 蛇の目高台が多いです。
時代が下るにつれ 高台が低くなり蛇の目高台が増えたようなのです。

 蕎麦猪口
(そばちょこ)の 蛇の目高台との バランスの美しさを感じるのは
私だけではないと思います。
 また、左写真のように色絵のもの、染付け(右写真のような呉須(青い色の模様)や、
色絵(赤や緑で描かれたもの) ・見込み(内側にかかれた絵)・等 見所が多いのも 
蕎麦猪口の魅力といっていいと思います。
 釉薬を塗っていないため高台に汚れを吸い易く歴史を物語るものもあります。
ちょっと長くなりましたが 蕎麦猪口の高台 まさしく蛇の目模様でした。
  
そして 現在でも高値で取引されているため 本を眺めるだけのわたくしです・・・。



◎「インターネット陶芸祭り うまか陶」さん 
http://www.umakato.jp/index.html
(トップページ)
「ザ・コレクション 生活の中のやきものたち」 
小さな名品「そば猪口」
http://www.umakato.jp/archive/coll/08_03.html  
こちらでも そば猪口の紹介を見ることができます。
また ここでも18世紀中頃(1750~1780年)とでています。

どうも 蛇の目傘といい 蛇の目高台といい
江戸時代中期 に好んで 
蛇の目模様を使用し 広く普及していったような気がします。




Ⅲ・ 蛇の目高台 と時代関係
そば猪口に使用される高台は幅が広い同心円で、いかにも蛇の目高台といえ、江戸時代元禄の頃に普及した事がわかりますがゴク一般的な高台も蛇の目高台と呼んだりするようで・・・。
さぁいつ頃から蛇の目高台と呼ばれていたのでしょうか?


◎「九世紀中葉・聖住寺と新羅王京人の西海岸進出」という題で
近藤 浩一(東京大学大学院博士課程)氏の論文がHP上 PDF形式でございましたので
引用させていただきたく存じます。
http://www.junreikoki.jp/pdf/kondou.pdf
韓国西海岸 新羅国 聖住寺に残る『朗慧和尚碑』『聖住寺碑』『崇厳山聖住寺事蹟』などの詳細な記録や、遺物が残っているようで
 発掘調査により、聖住寺創建期の伽藍跡から唐代後期の陶磁器の特徴である、底部を削りだす形式の中のひとつである‘蛇の目高台’の青磁・白磁?など高級器皿が数多く確認されている
 とありますが書物や碑に蛇の目高台と記述があるのか近藤 浩一氏が形状を見て「蛇の目高台」といっているのか定かでなくお伺いしようにもすべが無く確信はできません。
 
◎『中国陶磁の八千年』 矢部良明著  平凡社 より
高台は畳付が幅広い、低い立ちあがりの、日本で蛇の目高台とよぶ晩唐・五代特有の特色をもつ碗であり、内外総体に乳白色の潤いのある白磁釉がかかり、畳付だけを釉剥ぎするという~見慣れた白磁碗」(P185)
にもあるように蛇の目高台とは日本独自の呼び方のようですね 

ただいつからか調べてみるものの 解らない・・・。
推測するに 蕎麦猪口のこの幅広の高台は猪口以外には
ずんぐりむっくりの花瓶や壷だったら「あう」かもしれませんがご飯茶碗や茶道具・お皿にはバランスが悪いのではないかと思ってしまう。
 後からデザイン化された蛇の目傘が番傘や和傘の総称になってしまったように
そば猪口の蛇の目高台がそれ以前の同心円状の高台を蛇の目高台と呼ぶようになったとまではいいませんが
蛇の目傘や、他の蛇の目と付く物がそう呼ばれるように同心円状ということで後付けな気がします。
また時間を見て書物も調べてみようと思いますが解る方いらっしゃいましたらご指導お願いいたします。

ひとまず 蛇の目高台=江戸元禄時代とさせていただきたいと思います。





⑤ 蛇の目猪口
「利き猪口」ともいわれる 日本酒の色を鑑定するためのものです。
白い磁器のおちょこの底が二重の蛇の目になってますね。

第一回全国新酒鑑評会(明治44年)から採用され古くから神事に深く関わりのある魔除けとして蛇の目を日本酒を清めるなどの意味も込めて使用されるようになりました。

 外側の青い線が底より横の方に盛り上がって描かれ、澄み・色・テリをみるのに大変適しているそうです。また、鑑定に使用されるものは1つ1つ手作りで、縁から徐々に薄くし唇にあたった時の自然さを大切にしているそうで 1つ 180mlで、2000円前後する。




⑥ 蛇の目(肘壷にみる)
蛇の目を広辞苑で調べると 『建築で使う金具』とでてきます。

いったい どんなものなんだろう? 肘壷自体わからない・・・。

あったあった!! webの中ですが・・・。

「日本城巡り」トップページより
 城巡り→広島→城巡りのページ下方 
「備中松山城」中の写真 参照肘壷の写真
http://www18.ocn.ne.jp/~shiro728/index.html

蝶番(ちょうつがい)のこと?
門扉について張り出している金具の
開き戸に付ける壷状の金具と、扉の枠に付ける肘金の間の金具
と言うことですね!!





掛川城 大手門の肘壷
 掛川城 掛川花鳥園 調査記(21.4.29) より
上記サイト「日本城巡り」様の松山城の肘壷はもっと門と蛇の目との間が伸びており いかにも”肘 ヒジ”という感じが出ているのですが 探してもなかなか見当たらないので、この写真でご勘弁を・・・。

以下 イラストにあるような”輪”を蛇の目といいます。
大手門にある蝶番

 肘壷にみる 蛇の目





⑦ 蛇の目回し
広辞苑 や辞書などでも、たびたび出てくる  蛇の目回し
   辞書に載っているほど耳にしたことがありませんでした。

劇場で、同心円をなす大小2つの回り舞台。またこの舞台で、中央の部分を動かさず、
外周の部分だけを動かすこと。   (広辞苑)
 
  探しましたが なかなか これといった 説明のできる書籍等を
  見つけることができませんでした。

  おおよそ ドリフターズの場面 かわりにやっていた  
   ♪ ちゃちゃら ちゃっちゃか・ちゃちゃ  
                 ちゃちゃら・ちゃちゃ  ぱらぱっぱぱ~~~♪
  といった音楽と一緒に舞台が回転し 場面が変わるような設備なのではと
  思うのですが  「8時だよ!全員集合~~」を知ってる人も 
  私たち世代まででは・・・・・。   頑張って資料を探したいと思います。





⑧ 蛇の目(寛永通宝)・蛇の目半両(半両銭)
~ 貨幣にみる 『蛇の目』 ~
       (20年1/15) 
 2008年北京オリンピック のメダルの裏に見られる”玉壁”の形に蛇の目をみることができ、玉壁を調べるうちに中国の貨幣の原型にあたるものでは。  ということに往きつくことができました。 (第8章四節北京オリンピック 玉壁参照)
 その際画像の引用をさせていただいたサイト『初心者の為の古文銭』様のご好意で、日本の江戸期の貨幣「寛永通宝」と、中国 西漢(前漢)時代の物で、四銖半両銭 『蛇の目』と呼ばれるものがあるとご指導いただき、画像を提供いただくことができました

寛永通宝にみる 蛇の目
寛永通宝 とは?
 日本の江戸時代を通じて広く流通した銭貨。
銅の生産が増大した寛永13年(1636年)より生産されるようになり幕末まで鋳造されました。 それまでは中国からの渡来銭も普通に流通していたようで、「寛永通宝」生産から数年後に中世から使用されていた渡来銭は市場から姿を消します。 逆に清の時代には中国へ輸出された記録が残っているから面白いですね。

 そういったいきさつを両親に話すと「昔のお金が少しあるなぁ」ということで改めて見せてもらいました。
 2枚でしたが寛永通宝がありました。思ったより薄いです。拾ったと言っていましたので踏まれて”ペシャンコ”になったのか穴まで開いています・・・。 

側面
 たまたま2枚あった寛永通宝ですが文字がそれぞれ違います『永』の字なんかは「フ」と「>」と違いがはっきりわかります。
 自分なりに調べてみましたが右側は字体から新寛永の「藤沢異永」のようです。MSNオークションで『100円』でした 「ぷっぷっ(笑)買い手も付いていないようで・・・。」
 左側は特徴が少ないので判りかねました・・・。が珍しいものじゃなさそうです。
でもそういった 字の違い・刻印の有無種類の違い・裏の文字などの違いで数十円~極希少もの数十万円と価値が変わってくるから面白いですね。
 上記銭貨は一文銭になりますが、四文銭は裏に波の模様が描かれています。また、万治2年(1659年)までに製造されたものを「古寛永」と呼び、それ以後とで新寛永と区別されています。 


 前置きが長くなりましたが 「寛永通宝」の中でも希少種 
元文期(1736~1740)、伏見銭の「背大濶縁」 通称 
『蛇の目』です。
                       (『初心者の為の古文銭』様提供)




 はっきりと裏側の縁が広くなっており『蛇の目』紋を見ることができます。
 

 いつごろから呼ばれるようになったかわかりませんが これまで『蛇の目』を調べてきたところ
 蛇の目傘 (元禄1688~1703年)
 蛇の目土俵 (享保1716~1735年)等 
 通称『蛇の目』の寛永通宝が製作される前に広く「蛇の目」という呼び方が一般化しているようですので発行当初また早い段階で蛇の目と呼ばれていた可能性があるのではないでしょうか。



参考サイト様
 『新寛永通寶分類譜』 「分類目次Index」「6・不旧手の類」より
  http://www.justmystage.com/home/kosenmaru/index.html
  (数万円で取引されているようなので希少種と思ったのですが、そこそこ出回っているものの『蛇の目』という俗称から人気化しているようです。『蛇の目』ってすごいですね。)
 『大和文庫』「日本銭」 
  http://www.yamatobunko.co.jp/nihonsen/nihontop.htm
  (父の古銭はここで見分けることができました。)




半両銭にみる 蛇の目
寛永通宝につづき、おなじく『初心者の為の古文銭』様 提供の貨幣に半両銭があります。

 半両銭とは?
 前336年、秦は銅銭の鋳造を国家で行うことを定め、円形方孔の半両銭を正式な貨幣と定め鋳造技術の未熟さから大きさに差があるものの広く流通しました。
 この半両銭も、秦代(前778~前206年)に作られたものを『秦半両銭』と呼び初期の半両銭を一般に「戦国半分銭」と呼び、西漢(前漢(前206~8年))時代に作られたものを『漢半両銭』と区別されます。 
 前漢の時代 武帝元狩4年(BC119)まで、半両銭は鋳造されました。

 通常のフラットな古文銭に対して同心円状に蛇の目模様を形成しています


(大篆という書体で「半兩(はんりょう)」と記されている)
  左 半両銭  :   右 「蛇の目半両」

 今回蛇の目情報をくださり、画像を提供していただいた『初心者の為の古文銭』様に心からお礼申し上げます。




⑨ 蛇の目ミシン工業 
蛇の目傘と並び 「じゃのめ」といえばこちらでしょう

国産ミシンとして 「蛇の目」を世界に広げ 
 家庭用ミシン1位。日本、タイ、台湾に生産拠点を持ち。卓上ロボット、ダイカスト等産業機器も進出(2010年3月現在)

 これからも 一層のご発展を願わずには居れません。


ちなみに 母が現在も現役で使用しているミシンも蛇の目です。
S39年 高校生だった時に買ってもらったそうです。
当時 ジグザグ縫いなど初めてできるようになった機種でお友達も使用しに来たとの事です。
当時 75000円位したそうですが、 良いものは長持ちするものですね。


社名の由来
社名の由来をそっくりそのまま コピーさせていただきました。
http://www.janome.co.jp/index.htm (トップページより社名の由来へどうぞ)

内容を損なわないようにするため (メールにて連絡済み2007.12.28)
大正10年10月に、ミシン製造の技術者だった亀松茂と飛松謹一、これに資金を提供し、営業と経営を一手に引き受けた小瀬與作の3人によって東京滝野川に「パイン裁縫機械製作所」として創設されました。「パイン」という名前は亀松、飛松の「松(英語でパイン)」から採っています。
その後、昭和10年には、社名を「帝国ミシン株式会社」と改めました。そして、この年、自社ブランドに「蛇の目傘」などと同様に、「蛇の目」の名を冠した「蛇の目ミシン」として製造・販売を開始しました。
これは、ミシンの通称カマ部と呼ばれる部分におさめられたボビンの形が、「蛇の目」に似た丸い形状だったことから、ボビンの形が「蛇の目」に見える新しいミシンは「蛇の目式」と呼ばれたことによります。
「蛇の目式」の家庭用本縫いミシンは、昭和4年に弊社が初めて開発しました。それ以前の一般的ミシンは下糸部機構が舟の形をしていたことから「長舟式」と呼ばれていましたが、「長舟式」は縫い調子や糸締りが悪いという問題を抱えていました。そこで、「蛇の目式」が開発されることとなったわけですが、その後、「蛇の目ミシン」は新型の高級ミシン方式の代名詞として用いられるまでになりました。
実は、昭和10年に自社ブランドに「蛇の目」の名を冠したとき、業界の一部からは非難の声が上がりました。しかし、小瀬與作は非難には動じませんでした。「舶来ミシン全盛の当時は、国産品に外国名を付けてごまかすものが多かったが、私はこれこそ正真正銘の国産ミシンだという誇りをもって、あえて「蛇の目」という日本名にこだわった。」と後に語っています。機敏で逞しい商魂のあらわれとも受けとれますが、それ以上に商品に対する自信と事業への強い思い入れからくる決断だったようです。
昭和24年1月には、ブランド名をとって「蛇の目ミシン株式会社」に変更、その後、昭和29年4月、メーカー色をより強く打ち出そうと、社名を「蛇の目ミシン工業株式会社」に変更し、現在に至っています。


本来なら蛇の目傘・蛇の目紋と同じくらい早めに掲載したかったのですが社名ですので・・・。



⑩ 蛇の目寿司 
Yahooの電話検索でも 蛇の目寿司と検索すると
251件(2007年10月現在)あります。 すし屋以外も検索に引っかかりましたので少なく見積もっても200件以上の蛇の目 寿司・鮨さんがあるでしょうか?

なぜこれほど 蛇の目を冠した寿司屋があるのか?そのルーツも探っていきたいと思います。

鮨処蛇の目 埼玉県川口市中青木 巣鴨蛇の目鮨 暖簾わけ
蛇の目寿司 静岡県浜松市立野町 愛知県豊橋市蛇の目寿司 暖簾わけ

浜松 蛇の目寿司 大将に伺った所
「東京都中央区新富の 蛇の目寿司さんが ルーツではないか」

との事です。この辺も探っていこうと思います。



寿司の元祖
*63『面白い 「サカナの雑学辞典」』 篠崎晃雄 著   新人物往来者 
◎ 
「讃岐国(一説に淡路国)に住む老夫婦が巣作りをしている鶚(ミサゴ)の巣の中に残飯を入れてやった所 残飯を食べずに魚を捕ってきては残飯の上に置いて行くご飯のお礼に魚を捕ってくれるのだろうと、魚を持ち帰り食べた所独特の風味と美味しさから真似をして作った

のが寿司の起源とあります。(*63 p54)
が ・・・。
◎大化三年(647)に制定された賦役令に、鮑鮓など多数の鮓の
名が掲載されているのが最古の文献で、それから約三百年後の延長五年
(927)に完成した廷喜式(宮中の儀式や制度を定めた律令の施行細則)に
は各地から種々の鮓が貢納されたということが記録されている

熟鮓(馴鮓(なれずし))を作るには数日を要するので短気な江戸ッ子には不向きであ ったが、延宝年間(1673~81)に京都から来た松本善甫なる医者は、飯に 酢を加えて一夜で鮓になる早鮓(一夜鮓・生成ともよんだ)の手法を伝え たので百石の禄を賜ったという。  早鮓を売った寿司屋の元祖は、
貞享年間(1684~88)に四谷舟町横丁で 開業した近江崖と駿河屋であろうという。これが繁昌したから各地に寿司 屋が続々と開店した。

まだ 引用したい書物が手元にありますが
先を急ぎます。のでまた時間のあるときに。





蛇の目寿司 と時代関係
◎浜松の蛇の目寿司さん の証言を基に
新富1丁目の 蛇の目さんを調べてみました。
創業慶応元年とでています。


◎面白い 「サカナの雑学辞典」 篠崎晃雄 著   新人物往来社
には、蛇の目寿司の事も少しでていまして 
東両国の蛇の目鮨が、加藤清正の家紋の蛇の目を屋号にしたこと
開店に蛇の目傘をかけた事・美味しい肥後米を使った事から
繁盛したとあります。

ただ 墨田区に現在東両国は無く 現在の両国3・4丁目辺りになるのでしょうか?
それでも 蛇の目鮨さんは無い様です。

別ページ 「寿司の元祖」に 今の江戸前の寿司が貞享年間(1684~88)
に始まり急速に広まったようですので 東両国の蛇の目鮨さんも貞享年間
から 慶応元年(1865年)の間と かなりあいまいではありますが

時代的に 1684~1865年の間 とさせていただきたいと思います。





⑪ 弦巻(つるまき) 

蛇の目とつきませんが・・・。
「蛇の目って?」冒頭で蛇の目という言葉を辞書で調べた時に「弦巻のこと」と出てきました。
弦巻も 今では蛇の目なのです。


弓を張る予備の弦(糸)を巻きつけていたものです。
そして鎧の腰につけていたということですね。
 
こちらのイラストは[ビジュアルガイド] 甲冑のすべて
 笹間良彦 著 のイラストの中から 参考に手書きいたしました。 
 ◎釣道具の釣り糸をプラスチックのケースに巻いてある状態のもの
 ◎ミシンボビン(糸巻き)
 

箙 下のほうに弦巻が。
「日本の歴史1」 4-23
「平治物語絵詞」静嘉堂蔵
-- 週間朝日百科「日本の歴史1」 4-7 --
  確かに 蛇の目模様になっていることが はっきりわかります。

 WIKIで弦巻と検索すると ”世田谷地区の弦巻(地名)”として表示され、糸を巻く道具としては書かれていません。(2007年当時もありませんでしたが、2010年3月現在も変わらず) 
 すでに、道具としての弦巻は死後となり、”蛇の目”といったほうが一般的のようです。




弦巻 と 蛇の目 の時代関係

一般的に といっても弦巻自体を知っている人が限られていると思いますが・・・。
いつ頃から 「弦巻」→「蛇の目」
と呼ぶようになったのかわかりません。
上記 武家の道具として掲載されている図を見てみても 蛇の目と書かれているものは無く ほとんどが、 弦巻と掲載されているのです。
これも 高台などと同じように 後付けであると考えられます。

 時代的にも、上記”蛇の目ミシン工業”さんの社名の由来にあるように、蛇の目ミシン工業さんの小瀬與作氏が会社名を、ボビンの形を”蛇の目”とした事の影響が大きいのではとも推測します。

 もし、小瀬與作氏が、ボビンの形を”弦巻”としていたら ”弦巻ミシン工業”となって、”蛇の目”という言葉が死語になっていたかもしれません。
 本来なら、糸を巻く道具ですから弦巻と呼ぶ方が可能性が高かったのでは?小瀬與作氏の国産にかける情熱と”蛇の目”にこだわった功績に感謝です。

二重の同心円から そう呼ばれるようになったのではと思いますが
いつごろからそう呼ばれるようになったのかわかりませんが
別年表から江戸時代以降に急に蛇の目と云う呼び方をされるように思いますのでそれ以降だと思いますが保留させていただきます。





⑫ 商品名に 
熊本製粉 薄力小麦粉『じゃのめ』

『じゃのめ』 を そのまんま商品名にしてしまった薄力粉を見つけました。
なんと 裏には最高級薄力粉とも!!
 詳細はブログ参照 (2012.03.27)


名称 小麦粉
内容量 1kg
製造者 熊本製粉株式会社
熊本市花園1丁目2-1

Q1.小麦粉しろくま(中力粉)の名前の由来は?
A1. 創業当時より「しろくま」のブランドで展開していたため詳しい理由は正確にはわからないのですが、
「白い粉」のイメージと当社熊本製粉の「熊」から「しろくま」がシンボルマークとなりました。
 また、鹿児島のアイス「シロクマ」とは無関係です。

Q2. 小麦粉じゃのめ(薄力粉)の名前の由来は?
A2.加藤清正の家紋「蛇の目紋」からです。
(やっぱりね。)


Q3.小麦粉にじ(中力粉)の名前の由来は?
(わたくしは勝手に、世界的にも虹と蛇とを同一視する地域があるので蛇の目紋の「へび」と「にじ」 との関連を想像していたのです・・・が。)
A3.「雨上がりの虹のように明るい食卓にしたい」との思いからです。

なるほど 熊本製粉株式会社 さんの理念
   ”暮らしにすてきをとどけたい”

 コーポレートメッセージにかなったブランド名になっていたのである。 
          

 パッケージ裏には最高級薄力粉と記されているように最高品質の薄力粉を加藤清正蛇の目紋のイメージに重ねたこの商品。
 安土桃山から江戸初期の戦国の世を駆け抜けた、忠義に厚く城造りだけでなく治水(農業)にも力を入れた清正公のイメージと熊本製粉さんのコーポレートメッセージにぴたりと合っている。
 薄力粉『じゃのめ』 ・・・ 惚れ惚れするような誇らしiい名前である。



三、ジャノメとつく動物
① ジャノメアメフラシ 
ジャノメアメフラシ
和名 ジャノメアメフラシ
学名 Aplysia dactylomela Rang, 1828
分類 動物界 軟体動物門 腹足綱 異鰓上目 後鰓目 無楯(アメフラシ)亜目 アメフラシ上科 アメフラシ科 アメフラシ属
分布 房総半島以南・西太平洋~インド洋
特徴 色は黄緑色で黒い紋があり、それが網目もようになっている。 潮間帯から少し深い所の海藻の生えている岩場に住んでいます。
全長 20cm
『 「足のゆび」(足の先端)を意味する連結語dactyloと「黒い」を意味するギリシャ語melasが組み合わされていると考えてみたが、もしかすると命名者は、体表面の黒色眼紋に注目してdactylio-mela「黒い指輪」のつもりだったかもしれない。 』日本海のウミウシ様より




① ジャノメイシガメ 
ジャノメイシガメ
和名 ジャノメイシガメ
学名 Sacalia bealei
英名 Chinese Four-Eyed Turtles , Beal's Eyed Turtle
分類 動物界 脊索動物門 脊椎動物亜門 爬虫綱 カメ目 潜頸亜目 イシガメ科 ニセイシガメ属
分布 中国南部からベトナム北部に分布し、森林の中の渓流や小川のような場所に生息。
外部形態 後頭部の前方の1対が不明瞭で後方の1対がはっきりとした眼状斑が特徴(同属のヨツメイシガメは明瞭な眼状斑が2対4個ある)
背甲の色は褐色で、特にオスはより色が濃く、各甲板に放射状から虫食い状の黒く細かい斑紋があります。写真の個体は特に色が薄い個体のようです。腹甲は黄色で暗褐色の大きめの斑紋がある場合が多く、頭部や四肢は黄褐色からオリーブ色で、後頭部に黒く縁取られた大きな眼状斑が2対4個あります。またオスは頚部から四肢が鮮やかなピンク色に染まり、目も赤くなります。
甲長 16cm
特徴 食性は雑食。繁殖形態は卵生で飼育下では1回に2~6個の卵を生む。
食用 可 (でも、食べないで!!) 生息地では食用にされるが、生息地の破壊、乱獲などにより激減、ワシントン条約に掲載される。
ネット翻訳にて
[学名:Sacalia bealei]のSacaliaはイシガメ。  bealeiはビール(お酒?)
[英名:Chinese Four-Eyed Turtles]中国四つ目亀 , [Beal's Eyed Turtle]ビール目の亀?





② ジャノメガザミ 


ジャノメガザミ *83
和名 ジャノメガザミ
学名 Portunus pelagicus / Portunus sanguinolentus
英名 Red spotted swimming crab
分類 動物界 節足動物門 甲殻綱 エビ目 エビ亜目 カニ下目 ワタリガニ科 ガザミ属
分布 秋田県以南。台湾、オーストラリア、西大西洋、インド洋に分布。湾内の砂底、砂泥底に生息する。
外部形態 甲に白で縁取られた赤褐色の円紋が3つある。
甲幅15cmほど。「蛇の目ガザミ」の名のとおり、甲羅に白で縁取られた3つの黒い点がある。
外部形態も斑紋を除き本家のガザミに準じる。他の種類に比べて全体のとげは短い方であるが、前縁にギザギザのとげが並び、左右に大きなとげが突き出している。
体長 12~15cm
特徴 鋏脚は頑丈で、たくさんのとげがあり、はさむ力も強いので、生体の扱いには注意を要する。第2脚から第4脚までは普通のカニと同じ脚をしているが、第5脚は脚の先が平たく変形した「遊泳脚」となっており、これを使って海中をすばやく泳ぐことができる。
食用 可 (美味)  ( 「煮るよりも蒸す方が良い。私は味噌汁の出汁として身も食べるが汁の方を楽しんだ。子供の頃食べた記憶あり。」 )
Google翻訳による
[学名:Portunus pelagicus]のPortunusはガザミ。pelagicusは海洋。Sanguinolentusは血まみれの
[英名:Red spotted swimming crab] 赤い斑点のワタリガニというとこでしょうか。





③ ジャノメチョウ 
ジャノメチョウ科
ジャノメチョウ (メス) いっぱい・・・。
和名 ジャノメチョウ(蛇の目蝶)
学名 科(Satyridae)
分類 動物界 節足動物門 昆虫綱 チョウ目(鱗翅目) アゲハチョウ上科 タテハチョウ科 ジャノメチョウ亜科
分布 ジャノメチョウ科は世界各地に数多くの種類が分布し、6族・243属・約1750種類が分類されており、名前のついていないものを含めると2000種類を超える
外部形態 (はね)に蛇の目模様があることから この名前があります。
タテハチョウ科に共通して前脚が退化し短くなっている。
卵   形は球状が多く ラグビーボール形のもの、表面に浅い筋のある種もある。 
幼虫 形は、長い紡錘形かナメクジ形。色は、普通淡黄緑色~淡茶褐色。
      葉上に生活するもの、昼に小石や落ち葉に潜み夜活動するものなどがいる。
食草  主にイネやカヤツリグサ科を食べる。また竹や笹を食べるものもある。
   普通は垂蛹(すいよう) 尾の部分にある、カギ状器官だけで逆さ吊りになる
      色は緑か褐色 。
成虫  一般に樹林の中など薄暗いところを好み、曇天や夕方に活動するものが多い。
      受益・動物の糞・腐果によく集まる。 花を訪れ吸密するものは少ない。  
  *62保育社  「日本の蝶Ⅰ」  高橋 昭・田中 蕃・若林 守男 共著 より

 
   こちら 卵・幼虫の写真方は 小学館大百科事典より



◎「昆虫館」 で、ジャノメチョウのいろいろな種類を見ることができます。
http://insects.life.coocan.jp/index.html(トップページ)
ページ下の方 ジャノメチョウ科 へお進みください。

http://insects.life.coocan.jp/Specimens/Janomechou.htm(分からない時はこちらから)

   世界各国にいっぱいいるようですね。
  一見地味に見えますが綺麗なものも多いです、だんだん愛着が湧いてきました。
       
  それにしても 見事な蛇の目模様が入っています。 自然の不思議ですね。

   なんで、蛇の目の模様をしているか  調べていたのですが 、 
  やはり  蛇の目模様の大きいものは天敵を脅かすものであるらしいです。
  蝶の敵、鳥は特に目玉模様を怖がる性質のあることが実験によって
  確かめられている。ということです。
  蛇の目模様の小さいものは動物が獲物を襲うときは必ず頭のほう、
  すなわち目玉のあるほうを狙う。
  鳥は小さな目玉模様を見ると蝶の頭だと思って嘴で突付いてくる。
  蝶は多少傷ついても、鳥に小さな眼状紋のある後翅を突付かれている間に
  逃げ出すチャンスがあるというわけのようです。

  大きい蛇の目と小さい蛇の目の両方を持っている ジャノメチョウってスゴイ!!
  でも 近年ジャノメチョウの好む環境が自然破壊で減少し、絶滅に拍車を掛けて
  いるようです。森も自然も守っていきたいですね。



  
追記 ◎愛知県のジャノメチョウ (20..10/9)
「へび調査隊記」 豊橋総合動植物公園内 豊橋市自然史博物館  より
 愛知県には120種ほどの蝶が生息しており、日本全土の蝶の分布数 約230種のうち約半数が生息しています。

 その中から 蛇の目紋のある蝶を掲載させていただきます。
下記蝶の標本が展示されていましたが すべてチョウ目ジャノメチョウ科です。
ジャノメチョウ科の蝶って案外多いですね。


◎ジャノメチョウ
◎コジャノメ
◎ヒメジャノメ
◎ウラナミジャノメ
◎ヒメウラナミジャノメ

◎ヒカゲチョウ
◎オオヒカゲ
◎ヒメヒカゲ
◎クロヒカゲモドキ

◎キマダラモドキ
ヒメヒカゲ
 




追記 ◎ヒメジャノメ (21.6/15)
『蛇の目ブログより』

キャホ~~!!
庭の枝を切った後始末・掃除をしていたら ジャノメチョウを発見!!

早速動画に撮りました。



いくつか動画を撮り、飛んでいる姿を収めたかったのですが
結構 飛ぶスピードも 早くてカメラが追いついていませんね。
 コマ送りでも 羽を開いている姿はわかりませんでした・・・・。

地味ではありますが 実に ”けなげ”

「カラー自然ガイド 日本の蝶Ⅰ」保育社 をみると
『ヒメジャノメ』であることが解りました。   たぶん♂


和名 ヒメジャノメ(姫蛇目)
学名 Mycalesis gotama Moore, 1858
分類 動物界 節足動物門 昆虫綱 チョウ目 タテハチョウ科 ジャノメチョウ亜科 コジャノメ属
分布 東アジア・東南アジア(日本、朝鮮半島、台湾、中国中南部、ベトナム、タイ、ミャンマー)
国内では北海道・本州・四国・九州・南西諸島。
発生 本州南岸地方では5~10月に3~4回出現。
特徴 疎林・平地の草地・田畑・路傍などにもっとも普通。ほとんど花を訪れす、多くは落果や腐果の汁を吸う。夕方に活動。3~4齢幼虫で越冬
食草 イネ科(イネ・ススキなど) 、 カヤツリグサ科(カサスゲなど) 、 タケ科(ハチクなど)。





追記 ◎スカシジャノメ (10.07.13)
「へび調査隊記」 竜洋昆虫自然観察公園 より

 こちらも 標本なんですけどね・・・。
 じゃ~~ん スカシジャノメちゃんです。
 ちょっと透明なケースに入っていてピンが甘いのですが、写真よりも動画の方が斜めや真上から見れて薄~~い羽の様子が良くわかるかな~と思いまして。
【ムラサキスカシジャノメ】 Cithaerias andromeda andromeda (Fabricius, 1775) 【ルリモンスカシジャノメ】 Cithaerias andromeda esmeralda (Doubleday, 1845) 【スカシジャノメモドキ】 Pseudohaetera hypaesia (Hewitson, 1854)
アマゾン川流域に生息し、ブラジル、ペルーあたりに分布するようです。
ガラスのような透明の羽も薄暗いジャングルの中では色鮮やかに見えるようです。




④ ジャノメドリ 
ジャノメドリ
*84 P6-188
和名 ジャノメドリ(蛇ノ目鳥)
学名 Eurypyga helias
英名 Sunbittern
分類 動物界 脊索動物門 脊椎動物亜門 鳥綱 ツル目  ジャノメドリ科 ジャノメドリ属
(ジャノメドリ科は1属1種3亜種に分かれる)
分布 南米アマゾン川流域の特有種。標高1800mの高地にも稀にいるが、多くは1000m以下の深いジャングルに生息している。
外部形態 体色は地味だが、翼を広げると黒、白、灰、栗色などの鮮やかな模様が現れ、尾には横縞模様がある。 
体長 全長43~48cm
特徴 ゆっくりとした足取りで暗い川岸や浅瀬を歩き、サギに似た動作で昆虫、甲殻類、カエル、小魚などを捕る。
ディスプレイ(求愛や威嚇によって自らを誇示する事)の時は横縞模様のある尾も広げて前傾姿勢をとる。求愛にも用いられるが、むしろ威嚇に使うことが多い。
巣は地上につくる事もあるが、腐食した枝や小枝、泥等で樹上に直径30cmほどのお椀形の巣をかける。
ジャノメドリが翼を広げた様子
      (*84 P6-162)
 幼鳥が巣で威嚇している時の写真のようです。

[英名:Sunbittern] のSunは太陽 Bitternはヨシゴイ(サギ科の鳥)という意味でで、
[学名:Eurypyga helias] のHeliasはギリシャ語のHelios(ヘリオス=太陽の神)という意味です。

Wiki「ジャノメドリ」にも翼を開いた写真がありますが、黒い斑紋のところがもう少し赤みがあります。 それにしても学名、英名とも斑紋を太陽ととらえていますが、和名になると”蛇の目”に変わる素晴らしさ。






⑤ ジャノメナマコ 
上記写真は名古屋港水族館に張ってあった写真
ジャノメナマコ
和名 ジャノメナマコ
学名 Bohadschia Jaeger
英名 Spotted Sea Cucumber
分類 動物界 棘皮動物門 海鼠綱 楯手目 クロナマコ科
分布 沖縄や奄美大島以南の西部太平洋、インド洋に分布し珊瑚礁域、砂底を好む
体長 25~40cm
外部形態  体は円筒形で太くわずかに扁平、背と腹の区別がある。背面の地は灰白色で、薄茶褐色で中央に黒点が入り、黒色に縁取られた蛇の目紋が入る。 腹側には足(管足)が無数にあり先が吸盤状になっており移動に使われる。
 両端は丸く、口部と肛門に分かれる。口部には管足の変形した20本の触手があり、口に引っ込めることができる。主に餌の採取に使用される。
特徴  外部形態に記載のように薄茶褐色の輪の中心と周りが黒い、いわゆる蛇の目紋があることが特徴で あまり伸びたり縮んだりはしない。
 他のナマコにも見られるように肛門から”キュビエ器官”と呼ばれるネバネバした白色のヒモ状の物質を吐き出し威嚇する。洋服や手につくとなかなか取れない。
食用 可 (非常に美味)   「わお~~! 食べてみたい!!」 


下写真は巳右衛門が撮影
ガラスにくっついている。
足(管足)が良くわかります。
横から 毛の様な物は棘皮?
棘皮動物に分類され、ウニ、ヒトデの仲間になり、 形状は似ているが貝類のウミウシ、アメフラシとは別種になる。

ネット翻訳にて
 [学名:Bohadschia Jaeger] Bohadschiaは(黒)ナマコ。 Jaegerはトウゾクカモメ?猟師?
 [英名:Spotted Sea Cucumber] のSpottedは斑点。Seaは海。Cucumberはキュウリ。
    Sea Cucumberでナマコです。



ジャノメナマコ ココまで 『へび調査隊記』  名古屋港水族館 (21.5.6) より





参考文献
*83 ジャノメガザミ図
 「小学館の学習百科図鑑3 魚貝の図鑑」 編集発行人:相賀徹夫 
 印刷所:大日本印刷㈱ 発行所:㈱小学館 発行:1972
*84 「週間朝日百科 動物たちの地球18」 鳥類Ⅰ⑥ タンチョウ・ヤンバルクイナ・バンほか
  編集人:野上毅 発行所:朝日新聞社 発行:1991 (写真2枚ともM.fogden(O)氏)
*85 「原色細密生態図鑑 世界の動物(5) 鳥(Ⅰ) 監修:吉井正
  発行者:三木章 発行所:㈱講談社 発行:昭和57年
*90 ニューワイド 学研の図鑑 「ニューワイド水の生き物」 発行人:伊藤年一
  編集人:鈴木進吾  株式会社学習研究社 2000年

参考サイトさま
takayanの雑記帳




四、ジャノメとつく植物
① ジャノメエリカ 
和名 ジャノメエリカ(蛇の目エリカ) / エイジュ(永寿)
別名 クロシぺエリカ
学名 Erica canaliculata / Erica melanthera
英名 channelled heath
分類 植物界 被子植物門 双子葉植物綱 ビワモドキ亜綱 ツツジ目 ツツジ科 エリカ属
分布 沖縄や奄美大島以南の西部太平洋、インド洋に分布し珊瑚礁域、砂底を好む
特徴 南アフリカ原産の40~50cmになる常緑低木で、暖地では樹高が2mにもなる。
初冬から春まで紫を帯びた小さなピンクの花を枝いっぱいに咲かせる。
花は壺形で中央に黒紫色の葯があり、「蛇の目」のように見えることからこの和名がついた。
花期 12月~4月
花言葉 博愛・幸運・孤独・裏切り
ネット翻訳にて
[学名:Erica melanthera] Ericaceaeは「ツツジ科」。  Channnelled は「溝のある」。Melantheraは「黒い葯」。 
[英名:channelled heath] Heathは「荒野」。
 Ericaは、ギリシャ語で「裂ける」を意味する(Ereiko)に由来し枝が裂けやすい種があったため。





② ジャノメギク(寒咲きジャノメギク) 
和名 ジャノメギク(蛇の目菊)
別名 ベニジューム(ヴェニディウム)
学名 Venidium fastuosum
英名 Monarch of the veldt
分類 植物界 被子植物門 双子葉植物綱 キク目 キク科 ヴェニディウム属
分布 南アフリカ原産
特徴 半耐寒性で主に花壇や鉢植え切花にされる一年草。草丈 50cm~70cm で茎、葉には白い棉毛が密生する。頭花は径約7cmで舌状花の基部に漆黒色の蛇の目模様があるのが特徴です。
 種を秋まき(9月~10月中旬)し、3月霜が降りなくなった頃水はけがよく日当たりのよい場所に定植します。4月中ごろには橙色、白、黄色 など鮮やかな花が咲き始めます。また、摘心をして出来るだけ側枝を多く出させるとよいです。
 花は曇りや雨の日、夕暮れになると閉じてきます。
ベニジューム()
花期 4月~6月
花言葉 美は常に新しい

 属名からもヴェニディウムと呼んだほうが正式と思われますがベニジューム、ベニジュウムと呼ぶのが一般的なようです。

ネット翻訳にて
[学名:Venidium fastuosum] Venidiumは「すじ」の意味。 fastuosum は「誇り高き」。
[英名:Monarch of the veldt] Monarchは「君主」。 veldtは「(アフリカ南部)の草原」





③ ジャノメキンバイ 
和名 ジャノメキンバイ(蛇ノ目金梅)
別名 ポテンティラ
学名 Potentilla ? 
英名
分類 植物界 被子植物門 双子葉植物綱 バラ目 バラ科 バラ亜科 キジムシロ属
分布 キジムシロの園芸品種と思われる。日本国内でも数種分布しているようです。
特徴 寒さに強い多年草。草丈20cm~60cmになり、排水、日当たりの良い場所を好むます。他の植物と込み合うところを好まずあまり手をかけなくても殖えやすい。
花の色はピンクがかった白色、淡いピンク、淡い橙色などで径2.5~3cmの花をつける。花弁の基部が濃い暗赤色をし、花が蛇の目に見えることからこのように呼ばれるようです。
花期 5月~6月
花言葉 思いがけない出会い というのもあるみたい。
アルプス、ヒマラヤ原産で「ベニバナロウゲ」を別名にするキジムシロ属でポテンティラをネットで見かけましたが バラ科ポテンティラ属があり 混同しているのかな? 




④ ジャノメソウ 
和名 ジャノメギク(蛇の目草)
別名 ジャノメギク(蛇の目菊)、ハルシャギク(春車菊、波斯菊)、クジャクソウ(孔雀草)
学名 Coreopsis tinctoria / 
英名 Plains coreopsis
分類 植物界 被子植物門 双子葉植物綱 ビワモドキ亜綱 ツツジ目 ツツジ科 エリカ属
分布 北アメリカ西部原産。河川敷や空き地などで見られる一年草。
特徴 明治時代初頭に日本に来たとされる帰化植物。
高さ60 - 80cm。葉は2回羽状複葉で細く、コスモスに似ている。花の色は、中心が濃紅で、周辺は黄の蛇の目模様であり、別名のジャノメソウ(蛇目草)の由来となっている。
開いたばかりの花は花弁が平開しているが、次第に花弁が下がり傘を開いたような形になる。花弁が下がった状態は、まさに蛇の目傘。
別名ハルシャはペルシャのなまったものとされるが無いことです。
花期 6月~9月
花言葉 切なる喜び 変わらぬ熱愛
クジャクソウというとマリーゴールドや、アスターの別名にもなるので注意

ネット翻訳にて
[学名:Coreopsis tinctoria] Coreopsisは「ハルシャギク属」。 Tinctoria は「染色用の、染料の」。      [英名:Plains coreopsis] Plains は「平野」 Coreopsisは「ハルシャギク属」
Coreopsis(コレオプシス)は、ギリシャ語の 「coris(南京虫)+ opsis(似ている)」が語源で、
実の形が南京虫に似ているという意味。 (南京虫=床虱(とこじらみ)


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⑤ ジャノメマツ 
和名 ジャノメマツ(蛇の目松)
別名
学名 Pinus  「マツ(松)の学名」
英名 pine   「マツ(松)の英名」
分類 植物界 裸子植物門 マツ綱 マツ目 マツ科 マツ属
分布 原産国:日本
特徴 葉の部分が緑と黄色のまだら(蛇の目)になった松。 マツの園芸種
庭樹として植えられるが、盆栽、活花として主に利用される。枝分かれがよく大ぶりなため生けこみではよく映え正月など御目出度いときに使用される。 渋さが持ち味。ただ他のマツに比べ盆栽として育てるのは難しいようです。





⑥ ジャノメアカマツ 
和名 ジャノメアカマツ(蛇の目アカ松)
別名
学名 Pinus densiflora f. oculus-draconis
英名 Dragon's Eye Pine
分類 植物界 裸子植物門 マツ綱 マツ目 マツ科 マツ属
分布 原産国:日本
特徴 葉の部分が緑と黄色のまだら(蛇の目)になった松。 マツの園芸種
庭樹として植えられるが、盆栽、活花として主に利用される。枝分かれがよく大ぶりなため生けこみではよく映え正月など御目出度いときに使用される。 渋さが持ち味。ただ他のマツに比べ盆栽として育てるのは難しいようです。
ネット翻訳などから
[学名:Pinus densiflora f. oculus-draconis] Pinus は属名で「突き出たものとか、山という意」から「松の木」。 densifloraが種小名で形容詞です。(意味は密に花のあると言う意味です。)
 Oculusはラテン語で「目」を意味し、draconisは「ドラゴン、竜」





参考文献
*86 「花屋さんの花図鑑」 発行人:白澤照司 発行所:㈱(草土出版) 発行元:㈱星雲社
  編集:宮崎裕子、滝澤佐英子 発行:平成6年
植物 翻訳参考サイト
日だまり仔猫-園芸専科-様 種小名(種形容語)索引
天井(あまい)鍼灸院様 植物の学名
熱帯地域の花と樹様 外国の樹木について質問とお答え
 
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