巳右衛門へび史観 総合目次
◎織田信長平家説 (へび民族説) 2013.11.22

   1、はじめに
   2、織田信長ルーツの諸説
    ◎織田信長平氏説
    ◎織田信長藤原氏説
    ◎織田信長忌部氏説
    ◎織田信長八田説
   3、織田信長 おおよその系図 と母親八重
   4、本題 織田信長 と 蛇(へび)
    ◎安土城と弁天崖
    ◎安土城と天主
    ◎弁財天を祀る摠見寺
    ◎安土城の”蛇石(じゃいし)”
    ◎妙国寺 大蘇鉄 と 蛇
    ◎蛇池神社 『蛇かへ』
    ◎信長公の血縁
     南朝との繋がり
     浅井家と弁財天信仰
   5、まとめ
   6、信長様ファンとして一言。


1、はじめに


 織田信長は平家ではない。というのが現在の通説である。決定的とされているのが2011年11月1日に福井県越前町教育委員会が発表したは「親真(ちかざね)」を供養した石造物である。刻まれた没年と、系図から考えられる親真の生年には100年以上の開きがあることが判明したことによる。

墓石側面   喪親真阿聖霊  正應三年 庚刀(かのえとら)二  月十九日 未尅(ひつじのこく)
   裏面   孝子七月吉日
   意味   「親真は正応3年(1290)2月19日に死去。孝行な子どもが5か月後の7月に建造した―」

 しかし、この親真の墓石から言えることは、
 壇の浦の戦い(元暦2年=1185)で死んだ平資盛と実子と思われていた津田(平)親真との間に100年のひらきがあることにより、桓武帝を祖とする平清盛の流れから外れる。
 ということくらいである。

 そのようなことを言ったら神代の天皇家の系図には100歳以上の人物もいるし、徳川家をはじめ様々な系図に疑問符がつくものばかりで、系図というものが多方面から照合しなければ信ぴょう性にかけるものであることを多くの歴史研究家も理解していることでしょう。
 何故、系図というものからルーツをはかるのか?もっと本質的なものから探ろうというのが”へび調査隊”である。


2、織田信長ルーツの諸説

 ◎織田信長平氏説
  ○京都に居を置く一老僧が信長が平重盛の末裔と認識していたこと
  ○奈良興福寺多聞院英俊「多聞院日記」に「信長ハ平家」と記していること。
  ○元亀2年(1571)6月、信長が寄進した越前白山別山権現の鰐口の刻文「信心大施主平信長」。等
  ○家紋に平氏の「揚羽蝶」信長公が主に使用していた家紋
 ・木瓜(織田木瓜)・・・織田家を象徴する家紋でであり伝信長の甲冑や、秀吉に下賜した陣羽織には織田木瓜紋。尾張守護の斯波氏より拝領したと言われている。
 ・永楽通宝(永楽銭)・・・永楽通宝は中国の永楽帝の時代に作られ、日本に輸入されたもの。旗印に使われる。物流の基軸であるこの通貨を用い、楽市楽座の施行、物流拠点の堺、近江の大津・草津を押さえ、経済に重点を置いていたことによる。
 ・揚羽蝶(平氏の家紋)・・・信長公自身「平信長」と名乗っていた事もあり揚羽蝶紋を使用している。一説には「源平交代思想」による源氏の流れをくむ室町幕府の次は平氏がという説が世間で言われているが、信長公自身、平氏の末裔であることを誇りとしており、わたくしは平家であったことを疑いません。
 ○2013年11月22日 『カミングアウトバラエティ!! 秘密のケンミンSHOW』(日本テレビ系列)において滋賀県ゲストが赤コンニャクを紹介していた。滋賀県に調査に行った時に食べ、調べたのであったが井伊家の赤から思っていたものがどうやら織田信長公が赤コンニャクを作ったようである。赤という色からも平家であるといえる。
 
 ◎織田信長藤原氏説
  ○ 『尾張国遺存織田信長史料写真集』(加藤文書(加藤秀一氏旧蔵))。天文十八年(1549) 信長が家督を継ぐ直前に「尾張熱田八ケ村宛制札」(禁制)として熱田神宮に宛てた書簡に「藤原信長(花押)」と署名
  ○剣神社所在の織田庄前守護の斯波(しば)氏との関係や在京の守護代を継承圧倒していったこと。
  ○信長の弟である信行(信勝)が熱田神宮に寄進した菅原道真の画像の巻止めに「藤原織田勘十郎」
  ○熱田神宮の大宮司に1114年藤原季範(ふじわらのすえのり)が任命されて以降藤原氏による世襲となるが、それ以前は季範の母方である尾張氏であった。尾張氏はその後副官である権宮司になるが、織田家と熱田神宮の結び付きから。

 ◎織田信長忌部氏説
  ○(織田神社)剣神社の神官斎部(忌部)親澄の娘の子が津田(忌部)親真でありその流れから、神官出身とすれば、本姓は忌部氏である。

 ◎織田信長八田説
  ○八切氏がしばし記す。「近江八田別庄」出、本姓「八田氏」というものである。


 以上が織田信長公のルーツ諸説ではあります。これらからどのルーツを選択、可能性を信じるかという話になるわけですが、
 実はへび調査隊は2010年08月04日滋賀県 調査をした時に、たまたま八田庄と言われるあたりを通ったのですが、部落差別反対の立て看板を目撃した。日本のほとんどが平民(平家)であり同じ民族の流れを持つのに信長の出自を隠す為か?平民の捌け口とするため同族同士で部落差別を強いてきた体制側のためか?他県から来たわたくしも、このような看板を目にしなければ、そのような格差のことも知らないものを・・・、あえて掲げていることに疑問を持つのである。家康の出と言われる世良田でも同様にこのような看板があったようですが、こうやって格差をつけ真実を隠そうとする事実からも八田姓というのは案外正しいのかもしれない。
 ただ、系図からだけでなく、信長公の母親についても記しておきたいと思う。なぜなら、織田信長公は妹であるお市、そしてその子供達、茶々、初、江に対しても自分の息子(男)よりも別格な扱いであったように感じるからである。母系であるゆえに信長公とお市は同じ母親から生まれ同族意識があったのではと考えられるからなのです。
 


3、織田信長 おおよその系図 と母親八重

 ルーツの諸説の根拠となるおおよその系図を下記に記す。
 しかし、織田家の系図はどの資料をみてもバラバラなものが多い。どっちが親で子かもわからないものも多い。
 これは、(昔は)当然ながら娘を叔父(伯父)に嫁がせる事も当たり前であり、夫が死んだから弟にという再婚も当たり前だったことによるものと思われる。男が不足した第二次大戦時後も良くあったようで知り合いでも兄が死んでその嫁を弟がもらう等のケースを聞いたものです。
 逆に平資盛と実子 津田(平)親真との間の100年のひらきも妻の嫁ぎ替えで説明ができるのかもしれない。補足しておきますが、八切氏曰く女性の出産は非常に高リスクで親族に跡取りを産ませ自分達の子供として育てることもよくあったようである。

 さて、ここに掲載する系図は参考文献からと、一部八切氏の著書を参考にして記している。
 
 
 
 
 『織田信長受胎事件』他、八切氏によると父織田信秀は14人の正側室を持ち喧嘩にならぬように一人に1子をもうけていたようで、政略的に味方を増やし力をつけていったようである。通説では織田信長の母親は土田下総守政久の息女で「大方殿様」と呼ばれるが、実のところ平手政秀の娘「八重」であると記す。
 信長のうつけを戒めるため自害した平手政秀を弔ったのが「政秀寺」と言われるが、御本尊は十一面観世音菩薩坐像で女神を表したもので、八切氏は女体讃仰の薬師菩薩とし、信長が母八重の供養に建てた寺としている。また、同時に平手政秀は父信秀、信長と仕えた古参であるにもかかわらず、元亀三年(1572年)以降平手家はとりつぶされている事も母の非業の死に由来するとしている。
 仮に信長の母親が八重とすると(『受胎事件』では父が信秀というのも懐疑的)平手家の流れは”平手”の”平”から平氏の可能性を推測している。 そもそも織田家・・・ 妹於市にしてもその三人娘「茶々、初、江」にしても天下取りに於いても重要なポジションにいるように、女性の立場というのが非常に重要であった。北条政子しかり、この民族の象徴的存在弁財天に表されるように女系であったのでは?とも思えるのである。


4、本題 織田信長 と 蛇(へび)

 ここまでは信長公と平家との関わりを記してきましたが、以下に、信長と蛇(へび)にまつわる逸話や史跡をまとめる。

 ◎安土城と弁天崖 (弁財天=蛇)
 次に信長公の本拠地安土城から弁財天信仰を記してみたい。
 まず、地理であるが、周辺は弁天崖という場所、別名観音寺山の西に建てられる。安土城址西には弁天島遺跡(滋賀県教育委員会)があり、弁天神社の周辺から縄文時代早期(約10000年前~6500年前)、前期(約6500年前)を始めとする遺物が多く見つかっている。
 安土城のあった弁天崖は、それ以前は 巨石群の磐座(いわくら) のあった場所で、古代王朝があった場所の一つである。信長公はその場所に本拠地を置きへび民族の集結を計ったのである。 山に囲まれ、水にも恵まれ古くから、要衝の地であったこの地に特別な思いで、信長公の本拠地、安土城は建てられたのである。

 当HPを読めば弁天(弁財天)がへびと関わりがあることを充分理解できるはずである。


 ◎安土城と天主
 次ににその天主である。
写真は当HPブログで記した、巳美隊員が戦国鍋TVの懸賞で当てたプラモデル表紙でありますが、天主部分が朱塗りの赤に八角形という国内唯一の城なのである。朱塗りということで、まず平家の条件の1つ。そして、八角という形についてですが、江島神社の奉安殿(弁天堂)、上野公園不忍池の弁天堂、拝島大師の弁天堂、などが八角形である。弁天堂=八角形と決まっているものではないが、名古屋の市章である”丸八”とも関係があるのではと推測している。
 建物を故人の冥福を祈るため円系にし、円形に近づけるための多角形という説があり、この安土城の形状について、同様に当てはめようとする説があるが、円形に意味があるのなら柱を4本6本8本であったとしても、その周りを円形の壁で覆えば良いのだ。多角形にすることで故人の冥福を祈るという根拠がわからないのである。圧倒的に四角形が多い国内の建築物の中で円堂(多角形)にするということ、それは民族が好む数字に起因するとわたくしは推測している。弁財天像はしばしば八臂(はっぴ。八本の腕)で現されることも多く弁財天と”八”の関係を如実に物語っていると言える。
 安土城は城としてはありえない吹き抜け状であり、中央に宝塔があった様子から見ても信長公は安土城と弁財天堂を重ねたと推測できるのである。

 ◎安土城の”蛇石(じゃいし)”
 「信長公記」に記される蛇石の存在
大石を撰取(えらみと)り、小石を選退(えらみの)けられ、爰に津田坊、大石御山の麓迄寄せられ候といへども、蛇石(じゃいし)と云ふ名石(めいいし)にて(すぐれ)たる大石に候間、一切に御山へ上らず候。然る問、羽柴筑前・滝川左近・惟住(これすみ)五郎左衛門三人として助勢(すけぜい)一万余の人数(にんじゅ)を以て、夜日(よひ)三日に(のぼ)せられ候。信長公御(たくみ)を以て(たやす)く御天主へ上させられ、昼夜(もうや)山も谷も動くばかりに候キ。                     
『信長公記』奥野高広・岩沢愿彦校注
角川書店, 1969
 安土城を築くにあたり一万人を動員してようやく山に上げた名石”蛇石”。蛇紋岩か、それとも美しい模様のあった石であったか残念ながらその存在は昭和15年、平成10年の発掘調査でも見つかっていないが、 信長公が総指揮した巨石が”蛇石(じゃいし)”として、信長公記に残されているのもへび民族たる証と言える。

 ◎弁財天を祀る摠見寺
 墓所について、織田信長の菩提寺に大徳寺 総見院(京都府)があるが、これは本能寺の変で亡くなった信長公の菩提を弔うため豊臣秀吉が建立した寺である。
  この総見院の名前の由来は織田信長の戒名からつけられた。また、総見とは信長公が安土城の城内に建てた摠見寺からきている。摠見寺は弁財天を祀るために建てた寺で、信長公自身が弁財天となり日本全土の平和を願うためだったと言われている
 秀吉は1周忌の時に、安土城二の丸に廟所を作ったが もし、わたくしが信長公であったなら、竹生島か、安土城摠見寺内の、琵琶湖の眺めの良い場所に希望したであろう。
 また、信長公の墓所と言われる場所が信長研究所様が示すように信長の墓所[参考資料/考証織田信長事典(東京堂出版)] いくつか存在する。戦国の武将や著名人も墓所が点在することがあるが、信長公の遺骸を納めた墓所はない。 
 その理由は・・・信長公の遺骸は残念ながら本能寺の変で使用された多量の火薬による爆発でぶっ飛んでしまったため無いのだ。ドラマに表されるように自害したわけではない(八切説)。と補足しておく。

 ◎妙国寺 大蘇鉄 と 蛇 
境内の大蘇鉄(そてつ)は国指定の天然記念物(1924年12月9日指定)である。樹齢1100年余と云う。織田信長は、その権力を以って、天正7年、この蘇鉄を安土城に移植させた。しかし、毎夜「堺妙國寺に帰ろう」と怪しげな声に、信長は激怒し士卒に命じ蘇鉄を切りつけたところ、鮮血切口より流れ悶絶の様は恰も大蛇の如く、さしもの信長も怖れ即座に妙國寺に返したと言う。枯れ死寸前の蘇鉄を、哀れにおもわれた日珖上人は法華経一千部を誦したところ、夢枕に、人面蛇身神が現れ「報恩のため、女には産みの苦しみを和らげ、苦難には災厄を逃れ、乏しき者には福寿を授ける」と三つの誓願をした。御堂を建て、守護神宇賀徳正竜神として祀られています。
[WIKI:妙国寺 大蘇鉄最終更新 2012年11月10日 (土) 13:58]
 信長公が権力を以って移植し再び妙国寺に戻した逸話として今も大阪府堺市堺区材木町の妙国寺に大蘇鉄はのこり、2012年7月25日にへび調査隊もこの大蘇鉄のある妙国寺に訪れている。
さて、この蘇鉄が何故大蛇となったか。何故人面蛇身の宇賀徳正竜神として祀られるか。
いくつかの理由によって説明できる。

1つ目は、『蛇』著者である吉野裕子氏が述べる”見立てとしての蛇”である。吉野氏は、樹木を男根状(ちんちん)、蛇行状の形状、等から樹木と蛇とを関連付け神聖視している。
そのうち、蒲葵(びろう)、檳榔(びんろう)・棕櫚(しゅろ)を上げている。
 この蘇鉄もその中に含まれるという考え方。
 2つ目は、当HPアポロンの項に記したがギリシア神話の中の蛇神様とも大いに関係しているものとわたくしは推測するのである。ゼウスとレトとの間にデロス島にある棕櫚(しゅろ)の大樹の下でアルテミスの双子の兄妹としてアポロンは産まれたからである。
 アポロン像は「へび」と同時に造られることがあるが、その子アスクレーピオスは医術の神として「へびの紋章」でも有名なほどである。ギリシア神話が何故関係あるかと思われそうだが、当HPでは家紋がバビロニアの遺跡に残っていることを根拠に海洋から民族の移入があったと考えるからである。
 3つ目は、『朝日百科日本の歴史別冊 歴史を読みなおす 11 「木」の語る中世』P69~P72に『宝前(ほうぜん)の棕櫚』(瀬田勝哉)というコラムが載っている。中世の絵画資料の多くに棕櫚の木が描かれていることについてである。
 祇園社本殿、富士浅間神社、春日大社、尾張熱田社、若狭姫神社本殿、山城梅宮社、尾張一宮真澄田社、伊予一宮大山祇神社、越前神社、日吉山王社など、有力な大社の宝前(神仏の前)に描かれているというのである。
 この事実について記す資料が「宮之前須呂之木事」永正六年(1509年)に文献に拠った由来を記している。
旧記を見るに、大自在天(だいじざいてん)の居する所の宮殿に高樹有り、天正樹(てんしょうじゅ)と名づく、形須呂の如しと見えたり、春秋彼岸の時、花を開け菓を結ぶ、七色にして開落するも時正にあり、社前に殖るところこの謂れか、
 大自在天とはヒンドゥー教の最高神シバ神が、仏教に取り入れられてこのように呼ばれるが、コラム執筆者の瀬田氏は何故シュロか解らないとしている。
 が、ヒンドゥー教のシバ神も当HPに記しているようにペルシャあたりの中東から侵略を受け神々の支配構造が土着の神と入り混じっていることを記している。要はその時に信仰とともに民族も海洋からと、前述同様に考えられるわけですが、その時に棕櫚の木の腐りにくいという性質が重要なのである。
 棕櫚の木は、宝前にのみ植えられていたわけではない。柱は船の材料に、繊維も丈夫で腐りにくいので、海辺の漁師達の網の修理や力綱には欠かせないものだったのである。
 棕櫚とは種類が異なるが、実はへび調査隊記瀬戸神社(11.08.03)で蛇混柏(じゃびゃくしん)を調査してきました。樹種は正確には柏槙(びゃくしん)、延宝八年(1680)大風に転倒して330年。今も朽ちずに残っているというものです。こちらも同様に寺社に多く植えられ、吉野裕子氏が述べる男根状の樹木、梛(なぎ)・竹柏(なぎ)の種類と言えるのである。
 要は海洋民族が故に棕櫚や梛・竹柏が腐りにくいこと知り、船や神社の木材としても利用できたこと。そして蛇へと見立てられた。
 以上、3点が大蘇鉄(樹木の見立て)と蛇の関連性である。
 信長公は蘇鉄を切りつける話が残っているが、そもそもこの種は移植を嫌うのである。信長公は蛇の見立てである大蘇鉄を安土城に欲しがった。という事実が大事なのである。

 ◎蛇池神社 『蛇かへ』
 愛知県名古屋市西区の新川洗堰(洗堰緑地)にある蛇池(じゃいけ)を2012/08/23に調査してきました。
 信長公記に「蛇かへ」の話があるように大蛇があらわれた噂から信長公が探すという逸話が残っています。「蛇かへ」の話から大蛇を召し捕るとか仕留めると解釈する人もいるが、信長公は大の”へび好き”である。只々純粋に、大蛇が見たかったのである。
 さんざん探して大蛇が見つからなかったとなれば、風説の流布により、大蛇の噂話をした村人が逆に殺されていただろう。結局、信長公はがっくり肩を落として清洲城へと帰っていくほどなのである。

 さて、宮司さんのお話では拝殿の左隣りが弁天様(弁天社)で、柵の中に入って釣りをしている人のそばにある建物が奥の院とのことでした。社殿はながらく無かったわけで、おそらく一番小さな弁天様がもともと祀られていたものと思われる。ここでも弁天様と”へび”が結びつくのである。
 また、へび調査隊は2010/03/07桜ヶ池・池宮神社(御前崎市)にも行っている。その桜ヶ池にも龍伝説とお櫃流しの神事が行われるが、この名古屋市蛇池でもお櫃流しの神事が行われることも蛇補足として記しておく。

 ◎熱田神宮 と 織田家
 愛知県名古屋市熱田区の熱田神宮についても2012/08/23に調査してきましたが、熱田神宮と深く関係があったことは信長公ルーツに名前が残っていることからもわかりますが、たびたび信長公自身も訪れ戦勝祈願を行っている。桶狭間の合戦後、勝利した御礼として築いたとされる塀(信長塀)も残っている。
 また、熱田神宮の御神体は草薙神剣(草薙剣)であり、ヤマタノオロチの尾から出た三種の神器の一つが収められているといわれ、境内には御神木に住む蛇を「巳さま」として祀り、昔は白へびも出現したと言われるほど『へび』との関わりが深い神社なのである。

 ◎信長公の血縁
 信長公は勢力を拡大するために、まず伊勢地方の平家と結びつくことをしていった。
 ○織田信長嫡男 信忠(ノブタダ)・・・信忠の正室?側室?は塩川長満の娘(鈴)とも言われるがはっきりしていない。塩川家は源氏。ただ、信忠の嫡男信秀は公卿補任において本姓、平秀信(たいら の ひでのぶ)と記載
 ○織田信長次男 信雄(ノブカツ)・・・幼名は茶筅、通称三介。名ははじめ具豊,のち信雄。
 南朝(平家)勢力である伊勢国司家、北畠具教・具房父子を永禄12年(1569年)、信長勢が大河内城に攻めたときに講和が結ばれ、北畠具房の養子とし、かつ父親具教の娘・雪姫(千代御前)の婿となり本能寺の変まで北畠氏を称した。北畠家は織田氏に乗っ取られる。
 但し、北畠氏は笹竜胆紋の源氏を祖としているためか?天正4年(1576年)父具教他一門は殺害、具房は三年の幽閉後死去。
 ○織田信長三男 信孝(ノブタカ)・・・幼名は三七。母は伊勢の豪族坂氏。伊勢中部豪族神戸(カンベ)氏を継ぐ。
 永禄11年(1568年)に織田信長の侵攻を受けた当主である第7代神戸具盛(トモモリ友盛とも)は信長から提示された信長三男・三七丸(後の織田信孝)を養子に迎える条件を呑んで和睦する。元亀3年(1572年)信孝は元服し、神戸信孝を名乗り神戸氏当主となる。
 神戸氏は桓武平氏関氏流で、家紋も平家である揚羽蝶
 ○ 浅井三姉妹 浅井長政と織田信長の妹お市の方の子供。
 ・浅井 茶々(チャチャ)または浅井 菊子(キクコ)。豊臣秀吉(羽柴秀吉)の側室として淀殿(ヨドドノ)
  大坂城の東側に鴫野(しぎの)神社があり茶々は弁財天をあつく信仰しました。この神社はのちに「女性の守護神」として、淀姫神社ともよばれるようになりました。現在は生国魂神社に遷座。 
 ・浅井 初(ハツ)。若狭小浜藩の藩主京極高次の正室。高次死後出家して常高院。
  お初の祈願により建立され墓所もある常高寺[所在地 福井県小浜市小浜浅間]にはお初が大切にしてきた守り本尊弁財天像がある。
 ・浅井 江(ゴウ)または小督(オゴウ)、江与(エヨ)後に崇源院。三度目の婚姻が江戸幕府二代将軍徳川秀忠。
  鶴岡八幡宮の境内社で平家である北条政子が建立した旗上弁財天社をお江も篤く信仰した。 明治の神仏分離で安置されていた弁財天像の行方がわからなくなっていたが、鎌倉国宝館に寄託されている「裸弁財天」が旗上弁財天社に祀られていた像ではないかと言われている。
  鶴岡八幡宮の一の鳥居は、崇源院の夢の中に現れた弁財天のお告げによって建て替えられたものといわれ、四代将軍家綱の時代に寄進。
 ○淀殿創建養源院に弁財天の写しの小像
 小谷落城に際して、浅井長政は、妻お市に、浅井家が尊崇してきた竹生島写しの弁財天の古像を託し、「生き延びよ、そして浅井の血を、誇りを伝えてくれ。」と送り出したものと言われる。
 弁財天像はお市→長女茶々(淀殿)→三女お江→和子(まさこ)→養源院
 和子(まさこ)はお江の五女徳川和子で後水尾天皇女御として入内。第109代明正天皇(859年ぶりの女帝)の母。東福門院
 ○浅井家伝承 竹生島弁財天写しの小像の流れ図
 ○『口縄坂』 大阪市天王寺区夕陽ケ丘町
 口縄(くちなわ)とは蛇のことである。
 正直この蛇坂と織田信長公は繋がらないかもしれない。しかし、この口縄坂をこよなく愛した文人がいる。血族か否か?織田作之助氏である。作之助氏の家紋ももちろん織田木瓜紋で、この口縄坂の登ったところに「木の都」の一節を記した碑がある。~大阪では一番さきに頭に泛ぶ坂~と。
 動画にも記しているように坂の隣の称名寺(しょうみょうじ)(天王寺区下寺町2)には口縄坂の由来となった「海中出現口縄正観世音菩薩」があり、開祖・善得上人は、ある夜ゆめのなかで五色の縄を持ち、白蛇に乗り海中より出現する観世音菩薩を感得された。とある。

2012/07/26にへび調査隊として訪れたのであるが、まさしくこの街はへび民族(へび好き)の街と言えよう。 信長公が天下布武、天主閣、元号に天正と「天」をつけたように『天』を好んでいた。
 八切氏はしばしば、天(てん)をアマの民としアマという読み方をするが、この街も必然か偶然か王寺区であることを忘れてはならない。


5、まとめ
 八切氏が、織田信長公と蛇について注目していたかは知らないが、蛇を調査するにあたって、たどり着く先のいくつかに上記、織田信長公と蛇との関連性である。
 
 ○信長公だけでなく子息も平家姓を名乗る
 ○信長公本拠地に弁財天信仰・”へび”のエピソード
 ○信長公が勢力を拡大するうえで平家とゆかりのある氏族と関係を強化
 ○浅井三姉妹含む親族が竹生島弁財天を信仰
 ○キーワードは「赤」「平」「八」「天」 

 家系図からルーツを調べることも大切ではあるが、わたくしは信仰や土地なども重要な手がかりではないかと思っている。
  口縄坂の項は直接織田信長公のことではないが、言いたかったことは『天』ということである。 
 菊池山哉氏が「蝦夷と天の王朝」において淡海国天の王朝説とするを、八切氏は淡海、飛鳥、愛知静岡伊勢を中心に黒潮の流れ着く海岸にいくつかの集落を作った古代海人族が天(アマ)の民であり、天(アマ)一族が平一族としているのである。
 この「織田信長 平家」というワードだけでこのページを見た人には平氏(平家)とはなにか?わかりにくいかもしれませんが、へび民族(へび好き)の流れの一つとして平家があり弁財天信仰があるのだ。

 織田信長公と平家とへび民族との関連性が多くの「へび」絡みのエピソードや事実からも解き明かすことができたのではないかと考える。

 また、面白いのは文中にも記しているが、この民族は女系であるということである。竹生島弁財天像を浅井長政の母親小野殿(井口阿古)も篤く信仰しており(井口家は用を管理していた)その子、孫へと続き、弁財天を信仰していた小野殿の血脈が徳川和子へ
 そして後水尾天皇に嫁ぎ女帝明正天皇を生むに至ったことである。千年の開きをもって女帝誕生である。信長公の天下統一は成し遂げられたと言っても過言ではない。


6、信長様ファンとして一言。
 信長様が神となろうとした描写や、鬼・悪魔とした見方があります。比叡山焼き討ちなど 仏教に対する攻撃も、仏法を説かず、うつつを抜かし、女を抱き乱れていた事、寺が軍隊を増強させていたことが理由であり、本分を全うしているかを確かめるための宗論ともルイス・フロイスは記している。 (余談ではありますが、信長公の信任を得ていたルイス・フロイスはカトリック(へび民族(へび好き))である。しかし、女性を奴隷貿易していたことが発覚して逃げる。)
 浅井長政の母親小野殿とお市の長男に対しても残忍な逸話が残っておりますが、当時、女子供は殺さないという不文律があり他の女子供は逃しているのでよっぽどのことがあったのだと考えるのです。

 しかし、信長様は決して鬼のように攻め滅ぼすことを目的にしていたのではありません。信長公は全国制覇を目的としていなかった。というのは八切氏も述べるところで、権力に押さえつけられていたことからの開放が目的であるとしています。

 また、信長公は楽市楽座を定め、税金を取らず自由に商売をさせたことは教科書でもおなじみであり、自身の立てた摠見寺でも檀家をつくっても金品を集めることをしなかったことからも、信長公が天下を取り、どういった世の中にしようとしていたか、目的が見えて来るのではと思います。
 中国の周の武王にならった信長の印章「天下布武」も誤解してる人も多いと思うのですが・・・。「天下に武を布(し)く」いわゆる「武力を以て天下を取る」と世間では理解されてしまっていますが、全国制覇を目的としていなかった信長公です。その正しい意味として武とは武力の武でなく「七徳の武」であり、春秋三伝の一つ春秋左氏伝からきているのです。「暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする」の七つを意味であり、天皇の下こういった大義名分を持って天(アマ)の民の開放を行ってきたと考えます。天下というと語弊が生じますので、正しくは「天の下に武を布く」と訳すべきでしょう。

 そして、信長安土桃山時代以降、天守閣というものが増えていきます。安土城は天主閣と書きますが、本丸は京都御所の清涼殿の間取りと酷似しています。信長公は天皇を安土城に招きますが、なにか企みでもあるのでは、あるいは天皇の近衆としての旨みが無くなると怪しんだ側近によって、同時に本能寺の変となり、叶わなかったのですが、わたくしは信長公が天下布武、天主閣、元号に天正と天という漢字を好んでいたことからも、天皇をこの安土城に住まわせることがこの城の本当の目的でなかったか?とも推測しています。(信長は上洛し。) 

なぜなら、信長公は平家であり桓武天皇が平家の祖とすれば、同族なのだから。







参考文献

1、はじめに
*歴史~とはずがたり~様 http://sans-culotte.seesaa.net/article/233185903.html
*共同通信ニュース http://www.47news.jp/CN/201111/CN2011110101000817.html

2、織田信長ルーツの諸説
*『考証 織田信長事典』  2000年発行  著者:西ヶ谷恭弘  発行者:松林孝至  発行所:東京堂出版
*『織田信長総合事典』  1999発行  著者:岡田正人  編集者:岡田正人  出版社:雄山閣出版
*『歴史群像シリーズ 織田信長 天下統一の謎』  1991年発行   発行所:学習研究社
*『発掘調査15年の軌跡 図説安土城を掘る』 2004年発行
   編著:滋賀県安土城郭調香研究所  発行者:岩根順子  発行:サンライズ出版㈱
*『NHKスペシャルセレクション 信長の夢「安土城」発掘』 2001年発行
  著者:NHKスペシャル「安土城」プロジェクト  執筆:辻泰明  発行者:松尾武
*「扶桑家計研究所」様 http://www.kakeiken.com/ 「織田一族の系譜」 http://www.kakeiken.com/report003-2.html
*「播磨屋」様 http://www2.harimaya.com/  「織田氏」 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/oda_k.html
*「信長研究所」様 信長墓所 http://www.nobunaga-lab.com/labo/07_ibutu/07-03_iseki/bosyo.html

3、織田信長 おおよその系図 と母親八重
*『信長殺し、光秀ではない』 昭和42年発行  著者:八切止夫  発行者:野間省一  発行所:㈱講談社
*『謀殺 続 信長殺し、光秀ではない』 昭和43年発行  著者:八切止夫  発行者:野間省一  発行所:㈱講談社
*『織田信長受胎事件』  著者:八切止夫  発行者:山田孝  発行所:日本シェル出版
*『鬼女哄笑 北条政子』  著者:八切止夫  発行者:八留的  発行所:日本シェル出版
*『信長殺し 徳川家康』  著者:八切止夫  発行者:八留的  発行所:日本シェル出版
*『信長殺しは、秀吉か』  昭和42年発行  著者:八切止夫  発行者:矢貴東司  発行所:㈱桃源社
*105 『八切日本史③ 新平家意外史』 著書:八切止夫  発行者:遠藤左介 発行所:番町書房
*106 『天皇アラブ渡来説』 バビロニア学会・スメル学会 共著
*107 「八切史学 天の日本古代史研究」 著書:八切止夫  
  発行人:㈱日本シェル出版 発行出版:1987年3月23日
*『弁才天信仰と俗信』  平成3年6月5日発行  著者:笹間良彦  発行者:長坂一雄  発行所:雄山閣出版㈱
*『完全保存版 日本の神様がわかる本 あの神様の性格・あの神社のご利益が一目瞭然 2005年1月5日発行
  著者:戸部民生  発行者:江口克彦  発行所:PHP研究所
*『日本の神々』  1999年6月21日発行  著者:谷川健一  発行者:大塚信一  発行所:㈱岩波書店
*『動物信仰事典』 平成11年4月5日発行  著者:芦田正次郎  発行者:松島一二  
*12 『蛇 日本の蛇信仰』 著:吉野裕子 講談社 1995年

4、本題 織田信長 と 蛇(へび)
*『信長公記』  1969発行  著者:奥野高広・岩沢愿彦校注  発行所:角川書店
*『朝日百科日本の歴史別冊 歴史を読みなおす 11 「木」の語る中世』 コラム:瀬田勝哉
*37 「ギリシャ神話 (神々の世界)」 松島道也 河出書房新社
*70 「古代ギリシア遺跡辞典」2004年発行
  著者:周藤芳幸、澤田典子 発行者:今泉弘勝 発行所:㈱東京堂出版
*71 アポロドーロス「ギリシア神話」 1994年発行
  訳者:高津春繁 発行者:安江良介 発行所:㈱岩波書店
*72 「大日本百科事典 ジャポニカ」 発行者、編集者:相賀徹夫 発行所:㈱小学館
*74 「「知」のビジュアル百科18 古代ギリシア入門」
  著者:アン・ピアソン 訳監修者:豊田和二 協力:大英博物館 発行所:あすなろ書房

総合目次
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蛇の目って?
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