蛇の目ってなんぞや?!
 
   蛇の目って?
「へび」を調べる 
- 蛇の遺物に見る民族の流れを探る -
 
第12章 蛇の目模様の起源 追記(2011.4.1)
 へびをこよなく愛するローマ帝国の紋章には”鷲と羽とウロボロス”が描かれていました。
なるほど、ウロボロスの起源を調べていけば 蛇の目模様の起源に近いものといえるのではないだろうか?
 また、そのウロボロスが誕生するに至った思想に近づくことで、蛇の目模様が出来上がった思想に近づけるのではないだろうか?
 第11章で、これも同心円だ!! と喜んでみてきましたが、同様にその意味するものは何なんだろうか?
ココ 第12章では 同心円にする事 環状にする事の思想について調べてみようと思う。

 
一、輪の思想
①天使の輪の思想
天使
 先の第11章でデザインについて 調べているうちに どうもその形状はローマの思想の中にあることがわかってきました。
 そこで天使の輪が いつ頃から表現されるようになったのかについて、柳宗玄・中森義宗編『キリスト教美術図典』(吉川弘文館、1990)には以下のように書かれています。

 『有翼の天使 : 有翼の天使像が描かれるようになったのは5世紀末頃から。その原型は古代近東、ことに北メソポタミア地方における神の座を支え聖園を守護する有翼の怪獣が、ユダヤ教美術のケルビムを経て、キリスト教美術に入った。』*68


この頃の天使と思われる有翼の怪獣
『有翼鷲面の神』浮き彫り
石膏、コルサバードのサルゴン2世王宮より出土
ルーブル美術館蔵
*69-p124
『神木を浄める有翼鷲面の神』
浮き彫り、バビロン、
ニムルードのアッシュルナシルパル2世王宮サルゴン2世王宮より出土、ルーブル美術館蔵
*69-p125
『地獄の札』と呼ばれる悪魔祓いの札裏面
前750頃
ルーブル美術館蔵
*69-p125

 左と中央の「有翼の神」は”善き霊”として表されているといわれ、右の「地獄の札」を持つ有翼の獣は”悪魔”として表されています。また、悪魔の体は獣ですが、同じ頃 前750年頃の悪魔”パズズ”の姿は有翼であり、体は人間のような姿で現されています。
 コレが天使のルーツというような資料はわかりませんでしたが、想像上の神や悪魔は有翼で表され、これらが天使の原型・思想へとつながっていったといえるのではと思います。 やはり この頃には頭上に天使の輪(ニンブス)としては表されていないようです。


 更に宗教史から天使をみると、文字による最古の資料から数百にも及ぶ神々に序列があり、天使のように神々に仕える存在(下位)にも「ヒエラルキー(ギリシャ語で「聖なる秩序」の意)」があったと考えられ上記のようにデーモンのような悪魔や、好意的で善良な存在も天使の原型と考えられているようである。*96

 同時に「天使の文化図鑑」*96では神と人間の仲介的役割を持ち翼を持つ天子の原型を、アフラマズダに仕える「フラワシ」(右写真)、古代インドの「ガンダルヴァ」、などの妖精にもとめ、それらは中国やキリスト教が伝わる以前のアメリカにも、そしてエイジプト文明の翼を持つ姿で描かれる「イシス」も”中間的存在”として存在していたと記している。
*96 P11
 WIKI 天使像の変遷(最終更新 2011年6月7日 (火) 19:44) でも 
『初期のキリスト教では、(現在の一般的な天使イメージとは異なり)天使は男子青年の姿であり、しかも翼を持たなかった。なお天使が有翼の姿で考えられるようになるのは、オリエント・ペルシアの天使・精霊のイメージなどが混合されて来たためである。』と書かれているように どうも目に見えない存在だけに夢で見た天使像、想像による天使像としてのイメージができていったようで、WIKIに記されるように初期キリスト教時代では翼(羽)を持たず、さらに梯子で天に登る壁画も残っている。(*96)


 ちなみに『天使の世界』*98においても「 天使についての詳細はキリスト教の聖書に見い出すことが出来ず、聖書外典であり、偽典とも言われた『エノク書』(前2世紀)に天使の生活、名前、性格など詳細な描写が見出せるようになる。」 といったようにやはり初期の天使像は漠然としていたようである。 

天使の輪(ニンブス)
 『天使の輪 : ニンブス(Nimbus ラテン語で雲のこと、英語 Halo)。光輪、頭光のこと。栄光、栄誉の標識。天の栄光、聖性をあらわす。インドに起源をもち、ヘレニズム(ギリシャ)美術で光の神や太陽神の頭上を飾る(放射光の形をとる)、ニンブスはローマの皇帝にもつけられるようになる。キリスト教では4世紀末頃からキリスト、神の子羊、不死鳥に、5世紀に入ると天使や使徒、聖人に、5世紀末にはマリア、旧約の予言者にも見られるようになる。円いニンブスは中世初期以降、規則的に使用されるようになる。』 Yahoo知恵袋より(回答日時:2008/3/4 22:12:14)
 また ヨハネ行伝76の天使の描写では「美しい若者を見たが、彼の顔からは光が筋のように流れ出ていた」と記され、現代でもTVなどでオーラが見える人の話に聞くイメージと同じようです。 こういったオーラや後光といったものが 天使の輪となっていったといえるようです。
 
ココからは わたくしの考えですが、

 
 天使の貢で記したように天使像が定まってないように天使の輪も描かれたり書かれ無かったりと定まっていないのは第11章で記したとおりです。
 メソポタミアの天使やペルシャの天使(*96 P11の写真)にも天使の輪(ニンブス)は描かれていない。
 しかしそのペルシャの天使の頭上に描かれるのは有翼日輪でありアフラマズダーと同時に描かれる日輪(太陽)のような光の存在であったともいえる。

 
 一つ目の考えは 一般の人間には見えない天使のオーラのような物を第四章の三、ペルシャ帝国のヘビ でも記した有翼日輪と重ねたということ。
①ビストゥーン磨崖碑の浮彫り
    「ペルシャ帝国」p6 *20

 二つ目は、下記に表すようにローマ時代からの彫刻や絵画に描かれる天使の頭上に オリーブ?月桂樹? で描かれることがあります。 またアテーナーの随神である翼を持った”ニケ”はしばしばリースを勝者の頭上に掲げるモチーフで表されます。このように”リース”のようなものが光の輪、後光・オーラといったものへと変化していったのではないででしょうか。

パルテノン東面破風(復元模型)
前438~432年頃
アクロポリス美術館
アテナの誕生を表す
2つ折祭壇画右の木彫6世紀前半
ロンドン大英博物館
大天使ミカエル
ヴィーナスの誕生
ベックリン
1872年
ベルリン個人蔵
ホメロス礼賛
アングル
1827年
パリ、ルーブル美術館
 左から二番目の写真は、大天使ミカエルで翼を持つ最古(5世紀とも)の芸術作品であるミラノ聖アムブロージオ教会の木製の扉。*96のP20では光輪の無い天使とわざわざ注釈が付いていますがリースが掲げられているようです。
 
 以上のように天使の輪という一般人には目には見えないオーラ、後光を 有翼日輪やリースの思想と重ねてきたのではと推測します。 


参考文献
*68 『キリスト教美術図典』 柳宗玄・中森義宗編 (吉川弘文館、1990)
*69「知の再発見」双書62『バビロニア』 1996年 著者:ジャン・ボッテロ 監修者:松本健
  訳者:南條郁子 発行者:矢部文治 発行所:㈱創元社
*96 「天使の文化図鑑」 発行所:㈱東洋書林 発行者:成瀬雅人 発行:2006年
  著者:ヘルベルト・フォアグリムラー ウルズラ・ベルナウアー トーマス・シュテルンベルク
  訳者:上田浩二 渡辺真理
*98 『天使の世界』 (新装版) 著者:マルコム・ゴドウィン 訳者:大瀧啓裕 
  発行者:清水一人 発行所:青木社 2005年第二刷発行




②ウロボロス
◎・ウロボロスとは
WIKI をそのまま 引用させていただけば 

『ウロボロス(ouroboros, uroboros)は、古代の象徴の1つで、己の尾を噛んで環となったヘビもしくは竜を図案化したもの。

語源は、「尾を飲み込む(蛇)」の意の「古典ギリシア語: (δρακων)ουροβoρο?」(〈ドラコーン・〉ウーロボロス)。その後は、同じく「尾を飲み込む蛇」の意の「ギリシア語: ουροβ?ρο? ?φι?」(ウロヴォロス・オフィス)と表現する。』

また、象徴的意味として『ヘビは、脱皮して大きく成長するさまや、長期の飢餓状態にも耐える強い生命力などから、「死と再生」「不老不死」などの象徴とされる。そのヘビがみずからの尾を食べることで、始まりも終わりも無い完全なものとしての象徴的意味が備わった。 ~~中略~~
循環性(悪循環・永劫回帰)、永続性(永遠・円運動・死と再生・破壊と創造)、始原性(宇宙の根源)、無限性(不老不死)、完全性(全知全能)など、意味するものは広く、多くの文化・宗教において用いられてきた。』
写真とも『 WIKIウロボロス[最終更新 2011年3月5日 (土) 19:37] 』
Ⅰ・ウロボロス 起源エジプトに
 WIKI中に見られる起源は古代エジプト文明(前1600年頃)までさかのぼり、『エジプト神話で、太陽神ラー(レー)の夜の航海を守護する神、メヘンがこれに当たり、ラーの航海を妨害するアペプからラーを守るため、ウロボロス様にラーを取り囲んでいる。これがフェニキアを経て古代ギリシアに伝わり、哲学者らによって「ウロボロス」の名を与えられた。』
 と記されてあります。

アペプとは闇と混沌を象徴する大蛇であり、アピペ 、アポペなどとも呼ばれます。 でもその大蛇からラー(太陽神)を守る為、ウロボロスが取りり囲むということはどういうことでしょう。

 先に鏡はへびを現しているということで三角縁神獣鏡とウラエウスの写真を比較しましたがそのウラエウス自体が このウロボロスと重ねられてきたのではと推測するのです。

しかし 現時点で私の持っている書籍やネットで エジプト文明中へびが自らの尻尾を
(くわ)える図は見つけることができませんでした。
左記は
四、エジプト文明 のへびより
「アポピを退治するアトゥム神」
ラメセス一世(前1295-1294年)王墓

ここでもアポピは退治される立場
左記も同じく四、エジプト文明 のへびより
ラメセス6世(前1141年 - 前1133年)の墓

四、エジプト文明 のへびにおいても記しましたが、時代的にも同じくらいであるものの同じようにへびの壁画ですが、左の写真はへびが太陽神ラーを守るように描かれています。

 へびが自らの尻尾に噛み付いていないものの太陽神ラーを守る描かれ方はWIKIで記されるウロボロスのようです。
ただ、現時点でへびが自らの尻尾を噛んでいる図は見つけることができませんでしたが
 
 日輪とへび との絵と捉えてきたウラエウス、その思想の根底にあるものがウロボロスの思想と推測します
『WIKIウロボロス[最終更新 2011年3月5日 (土) 19:37] 』
Ⅱ・ウロボロス 起源中国文明 猪竜・玉猪竜に
ちなみにWIKIの ウロボロスの歴史で
「ウロボロスのイメージは、アステカ、古代中国、ネイティブ・アメリカンなどの文化にも見受けられる。
中国では、新石器時代の北方紅山(ホンシャン)文明(紀元前4700年 - 紀元前2900年)の遺構から、青色蛇紋石で作られた「猪竜(ズーロン)」または「玉猪竜(ユーズーロン)」と呼ばれる人工遺物が発掘されている。」とある。『 WIKIウロボロス[最終更新 2011年3月5日 (土) 19:37] 』

獣形玉飾(じゅうけいぎょくしょく)

新石器時代 紅山文化(BC4000~BC3000)。
高さ15.4、幅10.5、厚4.2cm
権力者が所有していたと思われる垂飾である。

『故宮博物院 第13巻 玉器』
監修:樋口隆康 編者:日本放送出版協会
発行者:安藤龍男』 P11
玉龍形器

新石器時代
紅山文化(BC4000~BC3000)。

《黄虎洞中國文物ギャラリー》様より
龍形玉器

新石器時代
紅山文化(BC4000~BC3000)。

《黄虎洞中國文物ギャラリー》様より

 上記資料は いづれも”龍の形をした玉器”と作品名が記されていますが、
 ”ブタの頭とヘビの胴体が合体した形になっており、大きな頭と耳、丸く見開いた怒ったような瞳、目の周りのしわ、突出しわずかに開かれた口元、むき出しの牙、輪のように丸くなった背中”といった玉猪竜の特徴をもっており 「猪竜(ズーロン)」または「玉猪竜(ユーズーロン)」といえる。
 玉猪竜は、出土した時に埋葬者の胸の上に置かれている点にも注目したいところです。


ウロボロスの起源でもある中国の玉猪竜の性質から
玉猪竜 ・・・ 埋葬者の胸に置く
玉璧 ・・・ 埋葬者の胸に置く
リース(花輪) ・・・ 埋葬者の胸に置く

 確かに これらは 

  ウロボロスのイメージに つながっている!!

Ⅲ・日本国内の環状遺物
 中国紅山文化の「猪竜(ズーロン)」または「玉猪竜(ユーズーロン)」が起源といえるのならば へびの形状はしていないものの、猪竜から発展していったであろう玉璧や それに似た環状遺物も関連があるというのが私の考えです。
 あまりメジャーではないようですが、国内の環状遺物には縄文早期出土の環状遺物や環状石斧が出土しており ウロボロスの起源といえるのではないだろうか?
 世界と比較して如何に”へび”好きな民族であったか!! 次項で環状遺物と”へび”との関連性を記したいと思いますが
 これら環状遺物もウロボロスの形状であり蛇の目の形状とというのが私の結論である。

  素材が蛇紋岩、軟玉、硬玉とは違うこと、出土数がかなり出ていることなどから あまり注目を浴びる事もない環状石製品などの環状遺物。 しかし、これら輪にする事、孔(あな)が開いている事に意味があるのではと言う観点から まずはどのような物があるか 見ていただきたい。いかに人類が 環状遺物(穴の開いたもの)を大切にし、好んでいるかということを。
玉璧
  「北京オリンピック 玉」 でも玉璧は 蛇の目模様に見えるのではないか?としてきましたが、猪竜(ズーロン)」または「玉猪竜(ユーズーロン)」がウロボロスの起源とするならば この玉璧もその思想から派生したものといえる。
玉璧
中国 玉製
新石器時代・前3千年紀
龍文璧
中国 玉製
戦国~前漢時代・前4~前2世紀
環状玉器
中国 玉製
商時代・前13~前11世紀
これらは へび調査隊記東京国立博物館より (09.8.27)

中国
北京 良渚文化
(死者を覆うようにおかれた)
外形27.9、孔径4.4、厚保1.0cm 新石器時代
(著書には新石器と書かれていますが良渚文化は前3500~2200年)

『故宮博物院 第13巻 玉器』
監修:樋口隆康
編者:日本放送出版協会
発行者:安藤龍男』
日本国内
三雲南小路遺跡 1号棺
福岡県前原市大字三雲
ガラス璧 弥生時代後期
AD100
写真
弥生ミュージアム
朝鮮半島からは玉璧と呼ばれる物は出土していない。
大珠(蛇の目状)
 大珠(だいしゅ)とは翡翠製のもので 主にその形から鰹節形大珠と呼ばれる物をさします。(左写真) 翡翠は比重が重い物であり、ここに穴を通してぶら下げていたか?ということに関しては疑問であるとされています。
 鰹節状にする事も非常に大変な技術でありその形自体に、孔に関しても意味があるものとわたくしは思っています。
硬玉製大珠
(国内最大)*56
*56硬玉製大珠 富山県氷見市朝日貝塚出土 縄文時代中期 長16.5、重470g
個人所有
 右写真は国内最大のものですが、世界でもっとも古い翡翠文化は日本で、オルメカ・マヤ・アステカの翡翠文化よりも古い。ちなみに山梨県北巨摩郡大泉村の天神遺跡から出土した長さ5.5cmの大珠は縄文時代前期末葉(前3,000年)。

 ココではその中でも蛇の目状の大珠をみていきたいと思います。

浜町A遺跡
北海道函館市浜町
糸魚川産翡翠 縄文中期
BC3000~2000年)
写真
函館市戸井川支所
三内丸山遺跡
青森県青森市三内丸山
糸魚川産翡翠
約4cm(中央下)
縄文中期
BC3000~2000年)
三内丸山遺跡
冊子PDF
洞内遺跡
十和田市大字洞内?
硬玉製
約7cm
  *57
荒谷遺跡(あらや)
青森県八戸市南郷区島守
硬玉製
約6.5cm
  *57
宇鉄遺跡
青森県東津軽郡外ヶ浜町
硬玉製
約5cm
縄文中期以降
(前3500~)
*57
高田(1)遺跡
青森県平川市唐竹
硬玉製
約7cm
縄文後期
(前2500~前1300年)
*57
笹ノ沢遺跡
青森県八戸市尻内地区
軟玉製
約4.3cm
縄文中期
(前3500~前2500年)

*57
蛇補足  特に青森県の大珠は厚みがあり独特の形状であるといわれています。 しかも三内丸山遺跡からは糸魚川の翡翠をはじめ日本各地から黒曜石、岩手県の琥珀、秋田県からアスファルトと縄文時代 紀元前3000年)の一大拠点となっており、船による交易が行われていた。ちなみに青森県六ヶ所村でも縄文創期(前10,000年)~晩期(前1.000年)までの遺跡や遺物があり、青森は縄文王国であった事が伺える。 残念な事は発掘が不十分のまま原発核燃料再処理施設の建設がすすめられたことである。



環状石製品 有孔円板
 ココに掲載する物は 有孔石製品・有孔円盤・環状石製品などと表示されている遺物で、特に縄文時代出土の物を掲載。小ぶりな物は割愛。あまり注目されないため展示も少ないと思われる。(小物も多数、弥生時代以降も多数あると思われる)。
櫛引遺跡
(縄文時代草創期の集落跡)
青森県八戸市
櫛引(くしびき)
約4cm 縄文後期
(前2500~前1300年)

但し遺跡としては
(前8000~前700年)
*58
槻ノ木遺跡
(縄文前中葉からの複合遺跡)
青森県平内町
約10cm 縄文後期
(前2500~前1300年)
*58
笹ノ沢遺跡
青森県八戸市尻内地区
約6.8cm 縄文中期
(前3500~前2500年)

*57
笹ノ沢遺跡
青森県八戸市尻内地区
約7.3cm 縄文中期
(前3500~前2500年)

*58
笹ノ沢遺跡
青森県八戸市尻内地区
約10cm(左)
約6cm(右)
縄文中期
(前3500~前2500年)
*57
三内遺跡
青森県青森市三内丸山
約5cm(左)
約6cm(右)
縄文中期
(前3500~前2500年)
*58
三内沢部(3)遺跡
青森県青森市三内丸山
約5cm 縄文中期
(前3500~前2500年)
*58
三内丸山遺跡
青森県青森市三内丸山
約7cm 縄文中期
(前3500~前2500年)
*58
泉山遺跡
青森県三戸郡三戸町
約5cm 晩期(前1300~前800年) *58
富ノ沢遺跡
青森県上北郡六ヶ所村
(三内丸山に匹敵する大規模集落)
上3点
約5~6cm
縄文中期
(前3500~前2500年)
*58
尾上山遺跡
青森県西津軽郡深浦町

(オートランド建設により遺跡破壊?)
約4cm 奈良時代?
縄文前期
(前3500年頃)
*58
大船C遺跡
北海道茅部郡南茅部町
石製円盤 邪馬台国大研究
大船C遺跡
大日向Ⅱ遺跡
岩手県九戸郡軽米町
縄文晩期
(前1300~前800年)
邪馬台国大研究
岩手県立博物館
是川中居遺跡
青森県八戸市是川
縄文晩期
(前1300~前800年)
邪馬台国大研究
新潟県立博物館
メソポタミア
カリム・シャヒル、ムレファート遺跡 石器と骨器 無土器新石器時代 セム系部族社会の形成様
 1970年代のイラク国立考古学博物館展示物
ビシュリ山北麓ケルン墓群 青銅器時代 セム系部族社会の形成様
環状石製品 参考文献 
*57 青森県埋蔵文化財調査センター 
第11号青森県における装身具の集成 弥生時代~平安時代編 (付縄文時代追加編)
*58 青森県埋蔵文化財調査センター 
第12号青森県における装身具の集成 弥生時代~平安時代編 (付縄文時代追加編)

環状石斧
 ココには はっきりと環状石斧と書かれているものを掲載。
 環状石斧・・・中央に大孔を有する磨製品(打製品)。中央の孔に棒を差して使うとも考えられ、縄文時代早期に出現し、後晩期に関東以北に発達し、弥生時代には全国に広がる。 出土国、時代にかかわらず掲載。

目垣遺跡
大阪府茨木市目垣
(茨木市立文化財資料館蔵)
環状石斧 弥生時代 邪馬台国大研究
茨木市立文化財資料館
牟礼遺跡
大阪府茨木市
環状石斧 縄文時代晩期
(前800年)
邪馬台国大研究
茨木市立文化財資料館
殿畑遺跡
浜松市北区三ヶ日町三ヶ日殿畑
環状石斧
直径約15cm
厚0.8cm
縄文時代晩期
(前800年)
「へび調査隊」
三ヶ日民族資料室
より
伝韓国慶尚北道慶州市川北面神堂里出土 環状石斧 青銅器時代
前900~前300
邪馬台国大研究
東京国立博物館東洋館
田和山遺跡
島根県松山市
(環濠から出土、戦闘用指揮棒とも言われる)
環状石斧
(石器類)
弥生前期末
(前2世紀頃)
松山市HP
田和山遺跡説明会資料
唐古・鍵遺跡
(縄文時代晩期
の中部高地や飛騨地域から影響)
奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵
環状石斧
(円孔周辺に漆痕 祭祀用の儀仗か?)
弥生時代前期 唐古鍵遺跡
HP pdf
櫨原神向遺跡
岐阜県揖斐郡揖斐川町櫨原
環状石斧
押型文土器(おしがたもんどき)
長13.9、幅6.9cm、厚2.9cm、孔2.2cm
縄文時代早期 岐阜県HP

全埋文報告会.txtでは二点報告
八日市地方遺跡
石川県小松市
弥生時代中頃 (財)石川県埋蔵文化財センター
宮崎県小林市
環状石斧
柄(え)は推定
縄文早期 宮崎県埋蔵文化財センター
常陸太田市幡町台出土 環状石斧(推定)破損品 弥生時代(推定) ホーム不明
神戸市内 環状石斧 弥生時代 神戸市埋蔵文化財センター
地蔵田遺跡
秋田県秋田市御所野地蔵田
環状石斧 弥生前 国史跡地蔵田遺跡に行こう
宮ケ原遺跡 環状石斧
径12㎝、厚約2.7㎝、孔径3㎝
鹿児島県立埋蔵文化財センター
埋文だより46
桜谷遺跡
鹿児島県南さつま市金峰町
環状石斧 縄文時代早期 鹿児島県立埋蔵文化財センター
  桐木耳取遺跡に破片4点 上野原遺跡破片6点 県立埋文センター しらべるネット   
上野原遺跡
環状石斧(環石)
縁が尖っておらず用途不明
他にも縁の尖る環状石斧出土
縄文時代早期後葉(前5000) 鹿児島県立埋蔵文化財センター
上野原遺跡
鹿児島県教育委員会蔵
環石 縄文時代早期後葉(前5000) 国立科学博物館
写真は無いが他の環状石斧出土情報
山元遺跡
新潟県村上市
環状石斧 弥生時代?
墓域と思われるところから出土
新潟県史跡めぐり
  尾花(おばな)A遺跡
宮崎県児湯郡川南町大字川南字尾花西平
環状石斧 縄文時代早期 宮崎県埋文センター
  新宮宮内遺跡
兵庫県揖保郡新宮町
環状石斧 弥生? 神戸大学参考資料
  松尾遺跡
雲仙市国見町多比良字松尾
環状石斧
(県内で珍しい)
縄文時代早期 長崎遺跡大辞典
  有吉遺跡
千葉県
環状石斧   房総発掘ものがたり20
  三宅島 環状石斧 弥生初期(前400年) 伊豆諸島三宅島における初期農耕の成立と環境適応
  座禅寺遺跡
福岡県朝倉郡朝倉町
環状石斧   九州国立博物館
  中野B遺跡
北海道函館市中野町
環状石斧 縄文時代 遺跡ウォーカーβ

 環状石斧もほぼ日本全土から出土していることがわかる。使用用途も、棒を差し斧として使用する。戦闘用の指揮棒に、また 土を耕すための鍬として等 さまざまな議論がされているようです。
 斧としてしようするには 薄く華奢に感じる石斧もあり、戦闘する指揮棒にしては目立たない大きさであるとも思います。
 残念ながら明確に副葬品としているかという点についてはわかりませんでしたが、非常に精巧な形で出土している石斧も多く欠けや割れもなく出土しているものもあり、その形に重きを置いていたのではというのがわたくしの見方です。

有孔土製品 有孔土製円盤 
 有孔土製品と検索するも メジャーでないためか あまり引き出せませんでした。その中でも時代の古い物を特に掲載いたしました。
 三内丸山をはじめ、調査隊が調査した縄文草期(前8000~前7000年)には驚きです。

三内丸山遺跡
青森県青森市三内丸山
縄文中期
(前3500~前2500年)
邪馬台国大研究
三内丸山遺跡
富ノ沢(2)遺跡
青森県上北郡六ヶ所村
(三内丸山に匹敵する大規模集落)
上3点
約5~6cm
縄文中期
(前3500~前2500年)
*58
富ノ沢遺跡は縄文中期(前2700~前2000)では日本最大級の集落で、丘陵の南東斜面の標高63~73mに位置し、竪穴住居址約500軒・土壙約900基のほか配石遺構・屋外炉・掘立柱建物址などが環状に配置された状態で発見されている。
野場(5)遺跡
青森県三戸郡階上町
縄文中期
(前3500~前2500年)
*58
十腰内(2)遺跡(とこしないいせき) 約10cm 縄文後期
(前2500~前1300年)
*2
元屋敷遺跡
新潟県朝日村
(奥三面遺跡群)
赤色漆塗り環状土製品 縄文晩期
(前1300~前800年)
邪馬台国大研究
奥三面歴史交流館
出張遺跡
三重県多気郡大台町
(大台町教育委員会)
旧石器時代 (財)かながわ考古学財団
第3回 縄文時代の装身具
旧石器時代遺跡?
徳島県吉野川流域
紡錘車 縄文前~後
前3000~1300)
邪馬台国大研究
徳島県立埋蔵文化財総合センター
嵩山 蛇穴遺跡
愛知県豊橋市嵩山
有孔土製円盤(径約5cm) 縄文草期
(前8000~前7000年)
「へび調査隊記」豊橋市美術博物館
有孔土製品 参考文献 
*58 青森県埋蔵文化財調査センター 
第12号青森県における装身具の集成 弥生時代~平安時代編 (付縄文時代追加編)
貝玉貝製平玉 貝輪 
貝玉・・・ネックレスの玉のようにビーズ状に加工した貝殻製品
貝製平玉・・・ 二枚貝を平たく加工し紐などを通すように穴を開けた物
貝輪・・・腕輪。サルボウなど大型二枚貝におおきく穴を開けたものでブレスレットとして使用したと考えられている。

船泊遺跡出土
北海道礼文郡礼文町
(礼文町教育委員会蔵)
貝製平玉
イモガイ製
(イモガイは南方産)
縄文後期
(前1500)
北海道HP

副葬品の貝製平玉
広田遺跡
鹿児島県熊毛郡南種子町
(兵庫県立考古博物館蔵)
埋葬品
貝玉・貝製平玉など
ゴホウラ、オニニシ、イモガイ、オオツタノハ等製
弥生時代後期~古墳前
(AD300~600)
邪馬台国大研究
兵庫県立考古博物館
 埋葬品としてのこの使われ方は リースのような意味合いもあったのではないか?

貝輪
貝輪 *59
千葉県市川市向台貝塚
縄文時代中期
(4アカニシ、5サルボウガイ、6イタボガイ)
◎縄文時代前~後期にかけての貝塚、曾谷貝塚(そやかいづか)(千葉県市川市曽谷)では、貯蔵穴から貝輪の材料であるイタボガキの貝殻が大量に発掘され、貝輪が集落のみならず外部との交易に用いられていた可能性が指摘される
◎縄文時代後期の古作貝塚(こさくかいづか)(千葉県船橋市)からは貝輪入りの蓋付き土器が見つかり、2つの土器の中に貝輪が合計51個も入っていた。装飾品としてではなく広く交易品として貯蔵されていた可能性が高い。


蜆塚遺跡 *60
静岡県浜松市中区蜆塚
貝輪をはめた老年の男性。体を折り曲げた屈葬という形で埋葬。

腕にはめるというよりは上に乗せるといった使われ方に見える
*59P16
姥山貝塚 
千葉県市川市姥山貝塚 縄文時代中期
遺骨は腕に貝輪を装着し屈葬された成人女性
(左拡大)
 貝輪(ブレスレット、ネックレスも含めて)の副葬品としての出土例はもちろん多い。 
そして 普段日常的にアクセサリーとして使用していたことも事実であろう。江見水蔭氏が記す
『貝輪を民俗例などから漁業用の錘」と考え、可児弘明氏による「おどし漁法」の駆具』*61 という使用例もある。
  そういったことからも貝輪(貝玉含む)=腕輪(アクセサリー) とすべてを片付けることはできないと考えている。
 そして、ここでは輪であること、いくつかをつなげて輪にする事も含め副葬品としてお守り、あるいは呪術的使用の仕方に共通点があるように思っている。

参考文献

貝輪について
比較文化史 比較文化史の試み 319
東海地域縄文時代後晩期のベンケイガイ製貝輪
東京大学総合研究博物館研究報告 第43号 2007年
*61考古家江見水蔭のアマチュア精神-『地底探検記』の復刻に寄せて-

*59 『― 縄文時代の暮らし ―  山の民と海の民 展示図録』
    編集・発行 山梨県考古博物館 ◎写真P16/P18
*60 図説 浜松の歴史 浜松市博物館 P7
碧玉(へきぎょく)製腕飾 
 碧玉製(英語:jasper)の腕輪。 主に鍬形石(くわがたいし)、石釧、車輪石と、その形状により呼び方が異なるが、その用途と副葬品としての意味合いは同じ物と考えられる。
鍬形石 (左写真上部) *62
古墳前期
奈良県奈良市北和城南古墳出土
(奈良県国立博物館蔵)
左写真上部の一番大きな鍬形石は全長19.3cm

 
ちなみに左横写真は銅釧(どうくしろ) 
福井県鯖江市西山公園出土(1~3世紀)
「へび調査隊」東京国立博物館にて撮影
 その形から謎とされてきた鍬形石。鍬形(くわがた)とあるがゴボウラガイの貝輪と副葬品として一緒に出土した事により模して作製されたものということがわかった。 ちなみに掲載した銅釧も巻貝の断面によって作られた貝輪を模した物といえる。

*62日本歴史展望 第1巻 原始ー古墳時代
 「埋もれた邪馬台国の謎」 責任編集:上田正昭 田辺昭三  旺文社 P220
石釧(いしくしろ) Ritual Bracelet 
石釧
群馬県太田市 矢場薬師塚古墳出土
古墳時代4世紀

「へび調査隊」東京国立博物館にて撮影
 古墳時代の石製の腕輪。主に碧玉(へきぎょく)製で、内径5~6センチ、外径7~8センチの環状に作られる。実用のものと、宝器としたものとがあり政治的なまとまりを通じて配られたものだったために、単なるアクセサリーではなく、持っていること自体に意味があったと考えられる。イモガイ製の腕輪がもともとのモデルで、石製品に形が写されたものです。

ウロボロスのルーツとしてではなく ウロボロスの思想から派生したものと推測する。
車輪石(しゃりんせき) 
車輪石
愛知県安城市柿崎町出土
古墳時代前紀
『弥生時代には貝でつくられていた腕輪だったものが、古墳時代になると、その形を習いながら、材質を石にかえてつくられました。それらを碧玉製品と呼び、車輪石もその中の一つです。』
「へび調査隊」安城市歴史博物館にて撮影
 古墳時代の石製の腕輪。主に碧玉(へきぎょく)製で、内径5~6センチ、外径7~8センチの環状に作られる。実用のものと、宝器としたものとがあり政治的なまとまりを通じて配られたものだったために、単なるアクセサリーではなく、持っていること自体に意味があったと考えられる。イモガイ製の腕輪がもともとのモデルで、石製品に形が写されたものです。

ウロボロスのルーツとしてではなく ウロボロスの思想から派生したものと推測する。
註: 時代区分の掲載があるものはそのまま、あるいは西暦に直して引用させていただきました。

おおよその時代区分は
AMS法、
縄文草創期(前13,000~前10000年)、早期(前10000~5000年)、前期(前5000~前3500年)、中期(前3500~前2500年)、後期(前2500~前1300年)、晩期(前1300~前800年)
として このHPでは統一しているつもりです。


Ⅳ・ウロボロス まとめ
 
 WIKI[最終更新 2011年3月5日 (土) 19:37] 「ウロボロス」の歴史について
「ウロボロスのイメージは、アステカ、古代中国、ネイティブ・アメリカンなどの文化にも見受けられる。
中国では、新石器時代の北方紅山(ホンシャン)文明(紀元前4700年 - 紀元前2900年)の遺構から、青色蛇紋石で作られた「猪竜(ズーロン)」または「玉猪竜(ユーズーロン)」と呼ばれる人工遺物が発掘されている。」とある。
 このことから 「猪竜(ズーロン)」または「玉猪竜(ユーズーロン)」の起源になりうる国内の環状遺物を見てきました。
 
 まず、ウロボロスの思想について。
 ヒスイという素材と共に形状に関心を寄せられている大珠について 小林達雄氏は 大珠がどのような意味を持っていたか という事に対し以下のように記述しています。
 
『一般に、ヒスイの大珠は胸元を飾っていると思われますが、じつはそうではなくて、このように顔の上に置かれたり、手の間に置かれたり、おなかの上に置かれたり、さまざまな事例がある。』(*63 P52 3~5行目) とし、呪術者のみでなく老若男女を問わずリーダーでなくとも持っているとしています。
 また、イギリスのマリノフスキーという文化人類学者の著書中トロブリアンド諸島のヴァイグア(財宝)(*注)型品物を例に出し、
『霊に与えられる最も効果的な供物であって、それを供えることによって霊の気持ちを愉快にさせてしまえる』ものと紹介しています。ヴァイグア(財宝)(*注)を死んだ人の額の上や胸の上に置き、それでろっ骨やおなかを何時間もこすって新しい生命を吹き込みたいと願いを込めるものとマリノフスキー氏は報告しているようです。

 大珠だけでなく幅広く硬玉という視点からも見てみたいと思います。 硬玉の出土場所は土壙、配石、人骨、住居跡であり墓地や人骨といった特定の場所では無いようです。そして「日本玉作大観」縄文時代硬玉研究の現況*81-P334で鈴木克彦氏は
「穿孔する意味を原石に対する付加価値の所産とし ~~中略~~ 孔の意味は佩用にあるが、孔を開けるのは巧玉専業集団の強い意志の表現、専業集団の特許や商標の意味を持つプレンディングであろう。」[*81-P334下段6行目~8行目]と述べています。特許や商標という意味を持たせてしまうと日本を含め東アジア広域の硬玉類は同じ集団であったかということにもなり、また違う意匠も出現する可能性を秘めてしまいます。が、硬度的にも硬いヒスイに穴を開ける必要性についてはまったく同じ意見であります。穴を開ける事に意味を持っていたと考えウロボロスの思想のような再生を願うものがあったのではとおもうのです。

 石製、土製などの環状遺物については残念ながらネットでは注目されていないので縄文時代早期のものを見つけることができませんでした。しかし嵩山 蛇穴遺跡の有孔土製円盤は縄文草期(前8000~前7000年)であり、上記著書 装飾品p41で藤田富士夫氏は縄文時代草創期に有孔円盤と呼ばれるものがあらわれる。と記しています。環状石斧についても副葬品として、「死と再生」を願ったものか分かりませんでした。ただココに掲載する環状遺物は本当に一部であり装飾品の多くが環状であるということはお分かりいただけると思います。
 翡翠の大珠の多くには孔(穴)がありますが、穴には紐を通して磨耗した形跡が無く、首からさげるには重いものといわれています。これは呪術的な再生を願ったものであり、その意図する思想が後の貝輪、碧玉製腕輪、玉璧、石釧、車輪石に受け継がれていたのであれば その前身である石製や土製のこれら環状遺物も 着飾るという意味だけでなく 再生を願ったりおまじないの意味を込めていた事は否定できないでしょう。現在においてもブレスレット、ネックレスなどはお守りやおまじない、願いを込めた利用の仕方もされてきています

 古代の人たちが 環状の装飾品を身につけていたことは確かであり、装飾品を含めた多くの遺物に孔を空け、環状を好んだ。 このことは縄文人の「死生観」の思想にもあてはまるものであり、ウロボロスの思想とリンクしていたのではと推測するのです。
 また 穴を開ける思想について次の”目の思想”とも絡めて見ていただけたらと思います。


 次にウロボロスの起源についてですが、
 上記各項目のように翡翠大珠の起源、石製、土製の有孔円板などの起源を調べてきました。が石製、土製有孔円板の起源は素人には調べようも無く注目もあまりされていないようで調査不足は否めません。 そこで縄文時代早期末葉から出現し北海道から鹿児島県の各地から出土し早くから研究されてきた?状耳飾について見てみました。
 「日本玉作大観」*81などには殷との関連性を。 ?状耳飾系統・起源論概観 では中国大陸の主な遺跡から?状耳飾が出土していることがわかりました。時代的流れ起源についての論議があることが分かりました。そのなかで東アジア全体に広がっていることが明白になってきいるようです。わたくしもの感覚でもどこが起源というよりも国や国境という概念を取り払い各遺跡を広範囲に同じような文化があったのではと思ってしまうのです。
 鉱物たちの庭様のHPで玉璧の起源について
「国際交流展 玉と王権」[2009宮崎県立西都原考古博物館 図録]から感想と壁の起源を記している。「現時点における中国最古の玉璧となると、黒龍江省松花江流域の新開流文化(BC5000-4000年頃)の玉璧を挙げるべきであろう」、「東アジアにおける璧形玉器の最古の例はシベリアの旧石器時代(約2万年前)のもので、バイカル湖のほとりにあるブレチ遺跡とマリタ遺跡出土の軟玉や蛇紋石製の璧形飾である」
 玉璧の思想とウロボロスの思想が重なるものシベリアの旧石器時代、紀元前20000年にさかのぼるようです。

 バイカル湖北西のマリタ遺跡を調べてみると、すでにこの時代に蛇の思想、環状の思想が出来上がっていたことがわかりました。 ブナ林と古代史様のHP 面白いですよ~。マリタ村の女性達・・・日本人とそっくりです。 (TOPページはココ(ブナ林と古代史)リンク切れが起きていている) 
 
 ところでマリタ遺跡からは
 大きな板石で囲んだ合葬で、3~4歳と10~14ヶ月の幼児2人の遺体の一部。
 副葬品は頭飾り、胸飾り、腕輪、マンモスの牙製の槍先、石器。そして遺体の下から白鳥の小像が出土しているそうです。
 白鳥によって天国に運ばれる事を願い、天国でも食べる事に不自由しないように槍先も納め。またネックレス、頭飾りなどの装飾品は再生と復活を祈ったものと推測する。


 左写真は『考古遺跡から探る「最初の訪問者」 「マリタ遺跡」は旧石器時代(先史モンゴロイド)札幌大学 木村 英明』 より
 イラスト(右)は『日本人はるかなる旅展』より作製
 イラストの脊髄の横に「環状遺物?」と記した黄色い丸っぽいものがありますが、国立科学博物館に電話でお伺いしたところ、「丸っぽい装飾品であるが、材質、詳細は不明。」とのこと。(2011.5.27)腰の辺りにあることからも同じ装飾品でも先の大珠のような使われた可能性もあるのではと推測します。参考文献*88でも遺物についての詳細な記述はありませんでした。
また、
同じくマリタ遺跡から女性や鳥の小像などマンモス牙製の彫刻品などが多数出土しています。それらがマンモスの牙から掘り出しているためか、白鳥も翼を広げた形ではなく首をピンと伸ばした状態の遺物、女性の小僧も日本の石棒とも思えるような長い形状をしたものも多いのです。マリタの人たちは長いものが好きだったのでしょうか?あるいは地母神と蛇を重ねたとも考えられるのではないでしょうか。
 その他の遺物でも注目なのが”表裏に蛇と螺旋状点刻のあるプレート(護符あるいは胸飾り)”です。出土状況が分かりませんが”護符あるいは胸飾り”と書かれていますので、遺体の上に副葬品として出土したのかもしれません。
 はっきりと模様が分かりませんがこの時代、すでに蛇と螺旋模様が何かしら宗教的役目、思想を持っていたことは確かなようです。


『日本人はるかなる旅展』より
表裏に蛇と螺旋状点刻のあるプレート
(護符あるいは胸飾り)
2万3000年前
マリタ遺跡出土
エルミタージュ美術館蔵



 現時点で 模様を比較する事ができないかもしれませんが、こういった思想が
埴輪に見るへび で見てきた ブルー・ナ・ボーニャ遺跡群のノース[Knowth]の墳墓に描かれる蛇と螺旋状の模様にも影響を与えたかもしれません。

Saint and Stones様より
巨石イラスト(自作)
 西ヨーロッパの新石器時代(前8000年以降)のケルトシンボルの基調といわれていますが
 マリタ遺跡のプレートも巨石群の蛇と螺旋状の模様も”再生と復活”を祈ったものと推測できるのではないでしょうか。

 このHPで「国際交流展 玉と王権」図録に記されるマリタ遺跡の軟玉や蛇紋石製の環状遺物はコレだと写真として紹介はできませんでしたが
 マリタ遺跡から 死者にリースのように頭飾り、首飾りを手向ける習慣、そして護符として蛇や螺旋を使用してきた思想から 紀元前20000年には すでに東アジア、日本、またヨーロッパのウロボロスの思想が出来上がっていた事を確認できたのではないかと 結論付けたいと思います。




*注 ヴァイグア・・・著書中ヴァイグアは()で”財宝”としていますが、WIKI「クラ(交易)」では交易に使用される品物とされ 『赤い貝から作るソクラヴァという首飾りと、白い貝から作るムワリという腕輪である。いずれも大規模な儀式的舞踊や祝祭などの重要行事で身につけられ、日常の装飾には使われない。』[最終更新 2010年10月13日 (水) 13:34 ] 
 いずれにしても装飾という意味合いよりも宗教的役割を感じさせるものであったことが推測できる。

「ウロボロス」
参考文献
*63『古代翡翠文化の謎を探る』
編者:小林 達雄 発行者:鶴岡 一郎 発行所:㈱学生社
*79 「日本古玉器雑攷」 著:梅原末治 内藤乾署 発行:吉川弘文館 1971年
*80 「世界の考古学〈9〉 東北アジアの考古学」
 著:大貫 静夫 発行所:同成社  発行:1998/10/20
*81 「日本玉作大観」 編者:寺村光晴 発行者:林 英男 発行所:吉川弘文館 2004年
*88 「モンゴロイドの道 朝日選書523」 編者:『科学朝日』 発行者:天羽直之
  発行所:朝日新聞社 発行1995年

*国立科学博物館 日本人はるかなる旅展
*バイカルシベリア地域における2010 年日露共同調査報告
*中国北方新石器文化研究の新展開
など
③環状列石 ストーンサークルの思想
Ⅰ・リンガ とは
 リンガ 言ってみれば それは「ちんちん(男性器)」である。
古来より ”へび”と”ちんちん”は同一視されてきた面がある。 子供でも楽しめるHPを!解り易いHP!をとの思いからあまり触れたくないなぁと思っていたが、第12章は
蛇の目(じゃのめ)に関する研究のまとめであるため避けて通ることはできない。(逆にちんちんって子供にウケたりして・・・。)

”へび”に関してその意味する『死と再生』、ウロボロス、リース、玉璧などからみる『死と再生』 どちらも共通的なものがあり どちらかといえば『死』に対しての儀礼的要素を強く含んでいた。しかしこの リンガの思想これも『死と再生』の要素も考えられるがどちらかといえば『
(せい)』(再生)の要素が強いのではと考えている。

リンガ [*76]
「リンガ」

リンガとは男性器を表す石柱(半貴石あるいは黒い石)で信者はリンガの頂部に花びらを添える。
鳩(左写真)の止まっている下部は女性器を表すヨーニ(普通の石製)で水や牛乳で満たすようになっている。 また左写真のヨーニでは周囲に"へびの浮き彫り”が施されている。


左写真:*76 週間朝日百科「世界の歴史21」 A-148 朝日新聞社 写真大村次郷氏

 二、古代インドのへび において シヴァ神と”へび”の関連について記してきましたが、”リンガ”の語源と生殖器崇拝からオーストロ・アジア語族の文化が後から入ってきたシヴァ神と結びつき一般化したもののようです。
  
 リンガの形状はヒンドゥー教シヴァの寺院で崇拝されるシヴァ神が性交している(女性器を内側から見た状態)を石で表しているものである。
 ヨーニは四角形であったり六角形であったりし、リンガは、おおむねヨーニの中央にそびえるように据えられている。(イラストは上から見た図)

 シヴァ神は性交によってこの世界を作り出したのである。




Ⅱ・環状列石
環状列石 秋田県大湯遺跡
(日時計と推定される)
[*5 P.209]
 環状列石は東日本に見られる遺構で、時計の針のように3・6・9・12時の方角に丸い石などが置かれる為、日時計であるとする説、
 また墓であるとする説がある。事実左写真の大湯遺跡の環状列石の石組みの下は埋葬土壙を持つ。

わたくしはこういった石組みの形状もリンガとヨーニであり、再生を祈った思想によるものと考えている。
大湯ストーンサークル

大きな地図で見る
市街地から北東へ約6Km行った大湯の環状列石は日本で一番有名な環状列石といえる。
秋田県秋田県鹿角(かづの)市十和田大湯
縄文時代後期前葉~中葉
 万座・野中堂のふたつの環状列石群からなる
 野中堂環状列石の規模は径42m、万座環状列石は径46m


 補足:大湯環状列石の西南5kmのところに縄文後期前葉の高屋館遺跡があり径35mほどの配石跡が見られる。内部空間に土壙、埋甕あり。

 (メモ・・・時代は不明ですが大湯遺跡副葬品には隼人の蛇行剣も出土)

日本国内の環状列石
北海道
神居古潭環状列石
参考サイト:北海道庁HP
神居古潭遺跡の環境
北海道旭川市神居町神居古潭
 古神居山中腹の標高213mの平坦面。
縄文時代後期中頃
10基の環状列石
音江環状列石
参考サイト:北海道庁HP
北海道深川市稲見山
直径2~5mの大きさで、円形に大小の石を並べた遺構
縄文時代後期
地鎮山環状列石
北海道小樽市忍路
(直径10m、短径8m)
 前1500年(縄文時代後期)
忍路環状列石の三笠山を西に約1kmの地鎮山(標高50m)の山頂
[左写真*72]
忍路(三笠山)環状列石
参考サイト:北海道庁HP
北海道小樽市忍路(おしょろ)
(南北径10m、東西径22m)
 前1500年(縄文時代後期)
国指定史跡最大
西崎山環状列石
参考サイト:北海道庁HP
北海道小樽市と余市町の境
(直径1~2mの環状列石)
縄文時代後期中頃
東西11m、南北17mの楕円形の範囲内に遺構が7つ
鷲ノ木遺跡環状列石
北海道茅部郡森町
外帯・内帯・中央帯の3重。外側の長軸約37m、短軸約34m
縄文時代後期前半(前2000~1500年)
国指定史跡

「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」として国の世界文化遺産暫定リストにはいる環状列石の真下に道縦貫自動車道のトンネルを通されている。 まるで道路の上にヘリポートが設置されているような光景は不思議だ。
参考サイト: 写真:森町HP
函館航空遺跡 ストーンサークル
参考サイト:東北縄文文化研究会
北海道函館市函館航空遺跡
竪穴住居跡、土器石器50万点なども発掘されている
が、他のサイトなどで確認が取れませんでした
縄文時代前期(前5000年)
石倉貝塚
参考サイト:太陽と山と縄文人
北海道函館市の後期の環状列石。
 中央と南東の立石を結ぶ線の延長線上から冬至に日の出。
 また、中央と南西の配石群を結ぶ線の延長線上に冬至の日没。
(北海タイムズ1996/1/7)
補足・・・現在北海タイムズは無く詳細は判らない。上記函館航空遺跡とも時代からも違うようです。
朱円環状土籬遺跡
参考サイト:
ブナ林と古代史朱円環状土籬
リサイクルパソコンビーグル 代表ブログ
北海道斜里郡斜里町朱円地区
 径約30m、径28mの2基。
 土籬の中にいくつかの積石塚墓があり、「ベンガラ」を敷きつめた墓穴の底から土器など貴重な遺物と人骨が出土。
曽我北栄環状列石
参考サイト:北海道でっかいどう
ブナ林と古代史様環状列石墓の社会
ニセコ町北栄遺跡
 北海道虻田郡ニセコ町字曽我
 アイヌ人と異なる人骨
 縄文時代後期(前1000年)
ニセコ町滝台遺跡
 後期中葉.環状列石墓
青森県
小牧野遺跡
参考サイト:青森市HP
巨石巡礼小牧野遺跡
こまきのいせきものがたり
青森県青森市野沢字小牧野
縄文時代後期前半
径2.5mの中央の組石を中心に、やや角張った二重の環状をなし、外帯の径約35m、内帯の径約29m。
配石の中に大型甕棺
(小牧野形という環状ではない特殊な石の組み方あり)

現在馬頭観音となっている配石と中央とを結ぶ線が夏至の日の出線と一致。
大森勝山環状列石
参考サイト:こまきのいせきものがたり
遺跡現地説明会情報
小牧野遺跡発掘調査報告書PDF p257
青森県弘前市大森字勝山
縄文時代晩期
東西49m×39mの環状列石

(勝山ヤブシ長根にも列石?)
三内丸山遺跡
青森県青森市
 大型木柱遺構の方向と夏至の日の出・冬至の日の入線がほぼ一致
環状配石墓(第11号配石)
参考サイト: 写真:青森県庁HPより
尻屋札地遺跡
参考サイト:小牧野遺跡発掘調査報告書PDF p257
青森県下北郡東通村大字尻屋字札地
50m 余の不規則な半環状をなす石群と、その円周の内外に点在する一種の石群
十腰内Ⅰ群土器期
土壙のような遺構なし
在家平遺跡
参考サイト:小牧野遺跡発掘調査報告書PDF p257
青森県三戸郡田子町大字関字在家平
径約25.Om を有した一重の列石
縄文時代後期の十腰内Ⅰ群土器期
泉山遺跡
参考サイト:小牧野遺跡発掘調査報告書PDF p257
青森県三戸郡三戸町大字泉山字田ノ上
縄文時代晩期前半期(大洞B ~ Cl 式土器期)
太師森環状列石
青森県南津軽郡平賀町大字新屋字遠手沢
縄文時代後期前半(前2000)に構築その後再構築された形跡。
中心部分から埋設土器棺(甕棺)
参考サイト:こまきのいせきものがたり
写真:青森県教育庁HP
玉清水環状列石
参考サイト:小牧野遺跡報告書 p260
青森県青森市大字平新田字玉清水
縄文時代晩期
田辺酪農5号
参考サイト:遺構図P23
小牧野遺跡報告書 p260
青森県むつ市大字田名部字内田
縄文時代後期
大石平遺跡
参考サイト:小牧野遺跡報告書 p260
青森県上北郡六ヶ所村大字尾駮字野附
縄文時代後期
岩手県
湯舟沢環状列石
参考サイト:滝沢村役場HP
岩手県岩手郡滝沢村
縄文時代後期前葉(2,000年前)
西田遺跡
参考サイト:
岩手県紫波町
直径100 メートルの環状集落の中央に墓壙群。土壙墓上に円形組み石あり。
一戸町御所野遺跡
参考サイト: 御所野縄文公園HP
Mutsu Nakanishi Home Page
岩手県二戸郡一戸町岩舘字御所野
 円環配石と土壙墓群同伴
 縄文時代中期後半(前2500~前2000年)
樺山遺跡
参考サイト:埼玉古墳群
昔に出会う旅

東北縄文文化研究会
北東北三県観光立県推進協議会
岩手県北上市稲瀬町大字大谷地
縄文時代後期
日時計型の配石墓群。30基すべて墓と推定されている。国史跡
春分・秋分の日、前塚見山に日が沈む。
釜石環状列石
参考サイト:日本隅々の旅
小牧野遺跡報告書 p260
岩手県岩手郡松尾村大字寄木字畑第2地割
縄文時代晩期
田屋遺跡
参考サイト:岩手大学 紀要論文No.4
岩手県稗貫郡石鳥谷町大字大瀬川
縄文時代後期
立石遺跡
参考サイト:大迫町教育委員会説明会資料
岩手県稗貫郡大迫町大字内川目字立石
縄文時代後期
秋田県
大館市池内遺跡
参考サイト:民俗学伝承ひろいあげ辞典
「蝦夷と倭人 シリーズ日本史のなかの考古学」  出版年月 1999.2
著:阿部 義平
出版者 青木書店
秋田県大館市池内
配石伴う土壙墓。土壙墓

縄文時代前期(前4000年)
伊勢堂岱遺跡 ストーンサークル
参考サイト:北秋田市HP
北秋田市HP
秋田県埋蔵文化財発掘調査報告会PDF
秋田県北秋田市脇神
縄文時代後期前半(前2000年)
現在までにA、B、C、Dの4基。
日時計型組石も数個あり、環状列石Aの中心との線上に夏至の日の入りと重なる。
環状列石中央の石の下に死者が埋葬されている。
小坂環状列石 (杉沢遺跡)
参考サイト:小牧野遺跡発掘調査報告書PDF
秋田県鹿角郡小坂町
環状列石は中央帯・内帯・外帯の3 重構
新潟県
奥三面遺跡群アチヤ平遺跡
参考サイト:新潟県HP
邪馬台国大研究
新潟県岩船郡朝日村大字三面
 縄文時代後期(前2000年)
 径約6m。長さ40~60cmくらいの大きな石を使用。


夏至の日、朝日岳から日が昇る。(Landscape Archaeology)
栃木県
寺野東遺跡
栃木県小山市大字梁
長軸22m、短軸17mの楕円形高まりに石を敷いた石敷台状遺構。円形盛土と中央の石敷台状遺構とを結ぶ線上に冬至の日の入を望む。
縄文時代後期
他に環状盛土遺構や水場遺構
石敷台状遺構からの出土は少ないが石剣も4個出土。
参考サイト:小山市HP(写真)

麦星の部屋
群馬県
野村遺跡
群馬県安中市
縄文時代中期後葉
長軸35m、短軸30mの隅丸方形の列石を中心に、北側に2列の列石を持って構成されている。
この場所から見ると冬至に妙義山に日が沈む。
参考サイト 写真:Archaeological-Laboratory
天神原遺跡
参考サイト:Archaeological-Laboratory
群馬県安中市
縄文時代晩期
 中央から3本の立石を結ぶ線の延長線に妙義山(三峰)を望み、春分・秋分には妙義山に日が沈む。
 また、冬至には大桁山に日が沈む。
砂押遺跡
参考サイト:Archaeological-Laboratory
太陽と山と縄文人
群馬県安中市
縄文時代中期(勝坂式期~加曽利E式期)
集落は直径約150mにおよぶ環状を呈しているもの推定される。
中野谷天神原遺跡-大桁山を結ぶ線上に位置し、冬至には中野谷天神原遺跡同様、大桁山に日が沈む
(全埋協議会報告書には配石1基)
東京都
田端遺跡
東京都町田市小山町
東西に長径9m、南北に短径7mの楕円形
後期中葉冬至には、丹沢の主峰蛭が岳に日が沈む。
周囲及び下から、縄文後期前葉の土壙墓や周石墓の存在
参考サイト:旅アラカルト
NPO法人国際縄文学協会
写真:町田市
山梨県
牛石遺跡
参考サイト:都留市図書館資料1 資料2
山梨県都留市厚原字牛石
縄文晩期
東西南北に配された直径4~5mの小サークルと、連結する20~30mの河原石 (現在遺構は田畑と道)


 春分の日没が三つ峠山に落ちる。(Landscape Archaeologyのゲストブックへの今福氏の投稿)
大柴遺跡
参考サイト:UTYHP
太陽と山と縄文人
山梨県須玉町小尾字東小尾大柴
縄文時代中期~後期の環状列石。
 夏至には金峰山から日が昇る。(読売新聞山梨版96/11/5)
配石遺構には水晶を供えた跡があるらしい。
宮久保遺跡
参考サイト:文化財発掘出土情報97年11月号 [74]
山梨県北巨摩郡長坂町
縄文中期~後期の敷石住居、環状列石検出
 冬至の日没の方向への配石?。(読売新聞山梨版97/9/14)
長野県
上原(わっぱら)遺跡環状石籬
長野県諏訪郡原村
◎南北径3.6m、東西径2.2mの12個の石柱(河原石)を楕円径に、中心に1個の石柱を立てたもの。
◎直径1.8mの円周上に6個の石柱、中心に1個の石柱
その周辺に、円形に石を積み上げた集石遺跡が十数ケ所あり、集落の共同墓地の可能性もあるとみられています。
縄文時代前期(前4500年)
参考サイト 写真:大町市HP
阿久遺跡
参考サイト:ブナ林と古代史
長野県諏訪郡原村
縄文前期後半
推定直径90m~120m。列石幅30m。
環状列石は立石を伴う集石遺構を単位として、それらが集合して大規模な環状を呈する。このような遺構を「阿久型環状集石群」と呼んでいる。
富山県
極楽寺遺跡
参考サイト:太陽と山と縄文人
富山県上市町の早期~前期の攻玉遺跡。
 冬至には大日山(立山連峰の1峰)から日が昇る。(藤田富士夫  1998 『縄文再発見-日本海文化の原像』大朽社)
不動堂遺跡
参考サイト:太陽と山と縄文人
富山県朝日町の中期の集落。国史跡。
 冬至には朝日岳と前朝日の間(鞍部)から日が昇る。(藤田富士夫  1998 『縄文再発見-日本海文化の原像』大朽社)
チカモリ遺跡 環状木柱列
参考サイト:WIKI「チカモリ遺跡」
太陽と山と縄文人
石川県金沢市の後期の遺跡。国史跡。
環状木柱列(ウッドサークル)
 ウッドサークルの入口?が、冬至の日の出の方向を向いている。
静岡県
上白岩遺跡
参考サイト:伊豆市HP
天体写真と畑のホームページ
伊豆市上白岩字外畑
縄文中期~後期(前2000~1000)
約3万平方メートルにもおよぶ規模の遺跡。日時計型配石と下部から土こうや埋甕が発見されている。
千居(せんご)遺跡
参考サイト:ときめきの郷
文化財オンラインHP
静岡県富士宮市上条
縄文時代成熟期(前期末から中期・後期前半)
長さ約40メートルの直線状および弧状の帯状組石があり、この内外に環状配石、主体配石等が配置され、一部に石棒使用
愛知県
今朝平遺跡
参考サイト:自然が好き ”自然”を活かしたい
愛知県豊田市足助町久井戸86-1・久井度
直径7.6mの環状配石で、長径は40~50㎝、短径20~25㎝,厚さ15~20㎝の楕円形の河原石が並べられてある。
縄文時代後期中頃の男根形と思われる石棒(長さ35㎝)・石剣・注口土器が100個程出土した。男性を表すという注口土器、女性の土偶などが出土。

旭町大砂遺跡にも同様な環状配石と認められるものがある。
 径はおよそ16m。環を描く帯の幅は50~80㎝、時代は、縄文時代中期のもので、円の中央部には径30~50の礫(れき)が積み上げられており、その下には甕棺が、
 
岐阜県
垣内(かいとう)遺跡三ツ岩
参考サイト:高山市HP
岩石祭祀学提唱地
岐阜県高山市上野町字垣内(上野町公民館のすぐ南の田んぼの中)  (三つほどのみ現存)
縄文時代中期後半~後期後半
(上野平面ピラミッドとも呼ばれる)
奈良県
宮の平(みやのたいら)遺跡
参考サイト:ブナ林と古代史
奈良県立橿原考古学研究所HP
奈良県吉野郡川上村大字迫字宮の平
縄紋時代中期末~後期
外周で直径30m
和歌山県
溝の口遺跡
参考サイト:和歌山文化財センター
WIKIストーンサークル[最終更新 2011年3月6日 (日) 08:55]
和歌山県海南市溝ノ口
縄紋時代後期~晩期
岡山県
真宮神社の環状列石
参考サイト:岩石祭祀学提唱地
Celesteのあちこち巡り歩き
岡山県倉敷市西尾 
時代等不明 神社を囲むように1m内外の石によって作られ、一部神社の石段を作るため撤去。
吉備津彦神社の環状列石
参考サイト:Celesteのあちこち巡り歩き
岡山県岡山市北区一宮1043
吉備津彦神社参道脇に池があり、鶴島、亀島の神社がある。
環状列石は亀島神社の背後にある

吉備津彦神社公式ホームページ
広島県
弥山 山頂
参考サイト:地球観光サイトH3
広島県廿日市市宮島町
宮島(厳島)の中心にそびえる山
中央には太陽の光を反射する太陽石(鏡石)が存在していた痕跡らしきものも見受けられる。太古の昔には、巨石には神が降りてくると云われ、磐倉(いわくら)と呼ばれ古代祭祀を行っていたという。
時代?
高知県
足摺巨石群 唐人駄場ストーンサークル
参考サイト:アセンション
高知県土佐清水市松尾
縄文時代 詳細は?
ストーンサークルと思われる石の配列、高さ6~7mもある巨石が林立する
紀元前5000年頃の縄文時代早期から弥生時代にかけての石器や土器片が数多く出土されている。
大分県
猪群山 環状列石
参考サイト:岩石祭祀学提唱地
大分の山と町
きちょくれきちょくれ国東半島
大分県豊後高田市 中真玉・城前・臼野
山頂岩石群の一辺が1.5m以上のもの70体以上。3m以上のもので22体。
中央付近の神体石の立石は全長4.65m、垂直高4.4m。傾斜角は約60度で先端に水が溜まる様になっているらしい。
時代?
米神山 佐田京石 と 山頂
参考サイト:きちょくれきちょくれ国東半島
大分県宇佐市安心院(あじむ)町 佐田
佐田京石:山道の左右それぞれに 半円を描くように 環状に石が配置されている。 ストーンサークルは、ただ石が環状配置されているだけでなく、長手方向に石が立てられている。
山頂の環状列石:大きな石・小さい石を含め約22ケ
下山環状列石
参考サイト:日本平穏
無数の繊毛 無限の色彩
大分県杵築市山香町大字山浦字下山
下山環状列石縦70m 横40m程度の楕円形で、総面積0.2ヘクタール
時代?


環状ではない配石遺構、または確認の取れなかった遺構
観音堂遺跡 ?
小牧野遺跡報告書 p260
岩手県稗貫郡大迫町大字大迫第11~12地割字観音堂 縄文時代中期
萪内遺跡 ?
小牧野遺跡報告書 p260
岩手県盛岡市大字繋字上野 縄文時代後期
宮沢原遺跡  (配石遺構)
小牧野遺跡報告書 p260
岩手大学 紀要論文No.3
岩手県胆沢郡胆沢町大字宮沢原 縄文時代中~後期
門前貝塚 (配石遺構)
小牧野遺跡報告書 p260
水野縄文博物館
岩手県高田市大字小友町字門前 縄文時代後期
荒谷遺跡 ?
小牧野遺跡報告書 p260
岩手県二戸市大字米沢字荒谷 縄文時代中~後期
堀野遺跡 (配石遺構)
小牧野遺跡報告書 p260
岩手県二戸市大字福岡字堀野 縄文時代後期
下村B遺跡 ?
小牧野遺跡報告書 p260
岩手県二戸市大字米沢字下村 縄文時代中~後期
玉内遺跡 ?
小牧野遺跡報告書 p260
秋田県鹿角市大字八幡平字玉内 縄文時代晩期
天戸森遺跡 ?
鹿角市(考古資料)
小牧野遺跡報告書 p260
秋田県鹿角市大字花輪字陣場 縄文時代中期
石倉岳遺跡 ?
小牧野遺跡報告書 p260
秋田県北秋田郡鷹巣町大字七日市字石倉岳 縄文時代後期
袖野遺跡 ?
小牧野遺跡報告書 p260
秋田県仙北市西木町西明寺袖野  縄文時代後期
雲穣野遺跡 ?
小牧野遺跡報告書 p260
秋田県北郡西木村大字西明寺字袖野 縄文時代後期
黒倉遺跡 ?
小牧野遺跡報告書 p260
仙北郡田沢湖町大字卒田字黒倉 縄文時代中期
月夜野・矢瀬遺跡 (配石・立石)
矢瀬遺跡
群馬県利根郡月夜野町地内
祭壇石敷がある。祭壇は5m程の楕円形の特殊石敷である。北側に大きな3つの立石、扁平礫の平敷きと横長立石並べの間の仕切り石、南側の目の字状配石。水場との間に半截材木柱列。破壊された前時期の石敷の一部が残る。
縄文時代後期
久森環状列石遺跡 ?
小牧野遺跡報告書 p260
北海道でっかいどう
群馬県中之条町
水口遺跡  ?
山梨県HP
太陽と山と縄文人
山梨県笛吹市境川町藤垈
縄文時代後期前半 柄鏡形敷石住居
(柄鏡形は遺跡トピックスNo.0153 中谷遺跡の方がはっきりしている)

山梨県都留市の中期の環状列石。
 春分の日没が地蔵岳に落ちる。(Landscape Archaeologyのゲストブックへの今福氏の投稿)
(補足・・・山梨県都留市に水口遺跡があるか確認できなかった。)
辻遺跡 配石遺構?
小牧野遺跡報告書 p260
滋賀県HP
滋賀県栗東市辻町
縄文時代中期(前3000年)の埋甕(うめがめ)遺構、
後期(前2000年)の配石遺構
縄文時代中~後期
新屋山神社 環状列石
不二草紙 本日のおススメ
山梨県富士吉田市新屋山神河原1230番地 なんだかいつの間にか誰かが作った(笑)
矢岳巨石群遺跡 
(ドルメン;支石墓といわれている)
熊本県上天草市姫戸町大字姫浦
長さ13m、幅6m、厚さ2.5mの天井石を支えたものがあり、世界最大級。
 この遺跡の中には杯状穴や方位を示す線刻とその先に並ぶ方位石や様々なペトログラフが刻まれており、超古代にエジプトやシュメールに近い祭祀がこの一帯で行われたことがうかがえる。
参考サイト:古代の足跡in熊本
天草観光情報HP(写真)
 矢岳巨石群遺跡は支石墓の代表として補足的に掲載しました。世界にも環状列石(ストーンサークル)だけでなく巨石信仰としてこういったドルメン(支石墓)などの遺跡が数多く残されている。奈良県明日香村の石舞台古墳もこの遺跡と何かしら関係があるのではとも議論されている。


Ⅲ・ストーンサークル

海外の環状列石 (ストーンヘンジ)
ストーンヘンジ

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イングランド、ソールズベリー平原
前2800年頃創建 
直径116mの円形土提の内側に荒削りの巨石50トンのほぞとほぞ穴の組み合わせで巨大な楯石をのせている。
夏至の日に、ヒール・ストーンと呼ばれる高さ6mの玄武岩と、中心にある祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇ることから太陽崇拝の祭祀場、古代の天文台、ケルト民族のドルイド教徒の礼拝堂など、さまざまな説が唱えられているが、前1100年まで増改築などがなされ 初期には墓の役割も果たしていたことから、
私の考えでは やはり 輪の思想 =『死と再生』の役割があったのではと推測している
ちなみに 柵があり中には入れない。ヒール・ストーンはかろうじて触ることができるらしい。
カラニシュの立石群

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スコットランド、ルイス島
前1500~1000年頃(中央の石塚)墳墓になっている。

(イラスト:石の大きさと形おおよその配置図)
(Googleマップ・アースとも接近地図の掲載は無し。)
WIKI
ギリシアの歴史家ディオドロスは 「ヒュペルボレオイ」=北風(ボレアス)の彼方(ヒュペル) という島国にアポロンを崇拝する民族が住み、巨大な石囲いと円形の神殿(カラニシュの立石群)を捧げたと書いている。 アポロンは冬をこの国で過ごしたといわれる。
 アポロン と 円 の関係ですね~~。 こちらもプレアデス星団の方角との関連、真夏?の満月のあがる方角など天文的なことと結びつけた解釈、ケルト十字との関連性もあるようですが、宗教的思想的な意味合いが強かったのだと思っている。
ちなみに 中に入る事ができ触ることもできる。東側にビジターセンターあり。
セネガンビアの環状列石

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セネガル、ガンビア両国に跨るセネガンビア地域で見られる環状列石群である。39,000km2に分布しており、遺跡の総数は、1,965箇所で、16,790基の石碑及び石柱が発見されている。また、1,045箇所の環状列石、3,448箇所の石をめぐらせた墓と石を使わない墓があり、9,093個の石が、石を使用した墓や環状列石を伴う墓に用いられている
UNESCO世界遺産
ニューグレインジ

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アイルランド
紀元前3100年から紀元前2900年の間に建設された
UNESCO世界遺産
 ブルー・ナ・ボーニャ遺跡群は
3つのの 巨石群
◎ニューグレンジ (Newgrange)
◎ノウス (Knowth)
◎ドウス (Dowth)
 と 以下の祭祀場の遺跡からなる
◎ドウス・ホール羨道墳群(Dowth Hall passage graves)
◎タウンレイホール羨道墳(Townleyhall passage grave)
◎モンクニュータウン・ヘンジ(Monknewtown henge)
◎祭礼の泉(Ritual pond)
◎ニューグレンジ・コース(Newgrange cursus)
◎Cloghalea Henge(破壊)

リング・オブ・ブロッガー

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スコットランド、オークニー諸島
紀元前2500~2000年
堀と土堤の内側に直径103.6mの円周上に27本の石柱が残る。最大のものは4.6m
創建時は60本であった。
UNESCO世界遺産
 近くに高さ7m、直径34mの巨大な墳墓も残され墳墓の入り口から中に続く坑道に、冬至の日にだけ夕日が差し込むように造られている事から 天文観測装置と説く学者もいる。が中心部の発掘はされていない。DNAの研究からケルト人によるものと説かれている。
 ちなみに環状列石の中に入り、触ることもできるようです。
ストーン・オヴ・ステンネス

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スコットランド、オークニー諸島
紀元前3200年
堀と土堤の内側に直径31mの円周上に3本の石柱と壊れた立石1本が残る。高さ4.8~5.7mほどで厚さが30cmの平石柱。壊れた立石は薄い事による風化。
UNESCO世界遺産
 近くに高さ7m、直径34mの巨大な墳墓も残され墳墓の入り口から中に続く坑道に、冬至の日にだけ夕日が差し込むように造られている事から 天文観測装置と説く学者もいる。が中心部の発掘はされていない。DNAの研究からケルト人によるものと説かれている。
 ちなみに環状列石の中に入り、触ることもできるようです。
サーヌールのストーンサークル
写真*78
インド マドラス市南部
前300~後100年頃の南インド巨石文化一例

中央地下に石や土器で作られた棺が埋められている。
 ネット上にこの遺跡群を載せているサイトが少なかったが kitombo.com様によると このような環状列石は200基ほどあり紀元前1000からの遺構のようである。
 
Ⅳ・環状列石・ストーンサークルの思想 まとめ
 
 環状列石・ストーンサークルの冒頭 「リンガ」について触れました。
この思想と巨石信仰、環状列石とは違うといった意見もあるかとは思いますが、わたくしは”リンガ”の思想も含めて古代の人がどういった思想でこういった遺跡を残してきたかについてまとめてみたいと思います。

 形状により、ただの配石、普通の墓など単独の意味を持っていた遺構もありますが、 環状列石、ストーンサークルに共通する国内・海外の遺跡を挙げ見えてきたこと、そしてどのような役割を持っていたか間違いなく言えることは
 ①墓 また それに付随する祭祀場
 ②日時計的役割(夏至・冬至)
以上の2点である。
 さまざまな研究や学説もありますが 事実このような役割があったとは証明されています。
 
 このことから推測できる事は 古代人が死も天体の流れも同じ時間軸の中でとらえていたという事です。
 太陽が朝昇り夕方沈み、月が出て沈み、また太陽が昇る 一日のサイクル。
 冬至を境に弱まった太陽光線がふたたび甦ってくることを知り、作物の準備、家畜やマンモスの繁殖時期を判断したり、夏至を境にこれから訪れる寒さに蓄えることを知ったのかもしれません。 そういった一年を通して自然が循環している事。
 人間も 出産に始まりやがて土になり またタマシイが人に宿り 輪廻、循環している思想。

 インド人の世界観の中に亀の上に象が乗りその周りを蛇が囲っているというものがありましたが、インドヒンドゥー教のリンガの思想は 上記環状列石の思想をよく表している思想と思ったのです。
 シヴァ神は破壊を司る神でありますが、リンガとヨーニに表されるように性交により新しいものを生み出します世界を創るのです。

 破壊(死) があり 創造(出産)があるのです。
 
  国内のほぼさまざまな環状列石を見てきましたが、配石の遺構の中に石棒(石剣)という男性器をかたどった遺物が同時に出土している場所も多いことも事実です。 

石棒祭祀
 「へび調査隊記」浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館(09.10.15)より
岡の平遺跡(おかのひらいせき)
縄文時代晩期
 岡の平遺跡の石棒祭祀の様子は環状列石状ではないかもしれませんが、立石を中心に男性器をかたどった石棒、祭祀道具が写真のように出土しています。 わたくしはこういった石棒祭祀と環状列石を関連したものとしてとらえています。
 古代の人々は同時に子孫繁栄を願った事がわかります。紀元前何万年前に”リンガ”という言われ方や思想があったか定かではありませんが 分かりやすくすることもかねて、リンガの思想と共に掲載してみました。
 
 環状(循環)の思想 を ”年間のサイクル””人の一生”と共にとらえてきた古代人の思想が 環状列石・ストーンサークルからうかがい知る事ができるのではないでしょうか。



環状列石・ストーンサークル
参考文献
*5 日本歴史展望 第1巻 原始ー古墳時代
  「埋もれた邪馬台国の謎」 
責任編集:上田正昭 田辺昭三  旺文社
*77 週間朝日百科「世界の歴史5」 E-4 朝日新聞社
*78 週間朝日百科「世界の歴史16」 A-119 
  朝日新聞社 (南アジアクシャーナ朝支配と国際商業) 写真:田村仁
*72 「大日本百科事典 ジャポニカ」 [ストーン=サークル]の貢
  発行者、編集者:相賀徹夫 発行所:㈱小学館

*80 「世界の考古学〈9〉 東北アジアの考古学」
 著:大貫 静夫 発行所:同成社  発行:1998/10/20
*82 「ヨーロッパ先史文明の謎」 著者:フェリック・R・パトゥリ 
  訳者:中島俊哉 発行所:佑学社 発行:1982年4月
など

参考サイト様
 イングランドの古代巨石文化
 
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   『へびって?』(”へび”の事を調べてるページ)

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