蛇の目ってなんぞや?!
 
  へびって?
「へび」を調べる 
- 蛇の遺物に見る民族の流れを探る -
 
第七章  「へび」を表すもの (国内)
 第一章 で へびの定義をみて 第二・三章で国内のへびの伝説・歴史を、 そしてその流れが海外に起源を持つものと考え 第四~六章まで追ってきました。
 ここからは 今一度 国内に目を向け へびそのものの形はしていないがへびといえるのではないだろうかと言うものを、みていこうと思う。またそれらも海外に紀元があるものとして探っていきたいと思います。
 
一、 鏡
① カガミ カガとしての 鏡
 *49『蛇 日本の蛇信仰』 著:吉野裕子 講談社 1995年 この著書をおいて「へび〕は語れないわけで カガチ・カガミ・カカシその他、語源に「カカ」を含む語が、なんらかの形で蛇に関わりを持つと考察しております。 この吉野先生の蛇に対する情熱と研究に頭が下がるばかりです。 そのなかで先に見てきた 海外における「へび」との関連性を見てみたいと思います。
三角縁神獣鏡(岐阜県龍門寺古墳) 太陽神ラー・フォルアクティ(ラムセス6世墓)
 そして著書中 吉野氏は

 『鏡は蛇の目(へびのめ)との相似から蛇目(カカメ)と呼ばれ、転訛して「カガミ」となったが、時代が移るにつれて、この「カガミ」は鏡を意味すると同時に、「蛇」そのものの意味ともなった。蛇の目(へびのめ)は呪力に満ち、蛇そのものを象徴するに足るものとして古代人によって捉えられていたからである。そこで、蔓状の蛇を連想させる植物が「カガミ」と呼ばれることになる。 
 しかし、あるいは、「カガミ」と呼ばれる一連の蔓状植物は、その携帯が蛇の身体そのものに相似なので、そのために、「蛇神(カガミ)」といわれるようになったとも考えられる。』(*49 p.144 5行目 ~ 12行目)

 注:著書中”蛇の目”にルビはふっていませんが当サイトが”じゃのめ”をメインに掲載している為読み違えないように”へびのめ”とあえてルビを振りました。また、上記銅鏡とウラエウスの写真はわたくしのイメージです。同著とは関係ありません。
 このように吉野先生は鏡=へびである と また同著第五章 「蛇を着る思想」内で、
日本における神事・葬祭のなかで、右図も蛇信仰を推測させる模様として述べられている。
そういったことからもわたくしは上記 エジプトの壁画にある 王の証としてのウラエウスと 銅鏡の類似性を感じているのである。
 エジプトの人々が太陽や蛇を崇拝していたものがウラエウスとして、ペルシャの太陽と蛇が紋章化せれたことと同じように。 この鏡も 太陽を表す天照大神と蛇信仰を重ねたように感じます。 民族の象徴として大切にされていたからこそ古墳の遺物として、また三種の神器として 崇拝されてきたことを 推測させていただきます。(ただし、エジプトでは柄がある鏡で、銅鏡といった形のものがあったかは今現在わたくしは知らない)


◎古代に日本では、K音とH音の区別がないので、「カカ」と「ハハ」は同じ言葉である。このことは、日本にも、世界の他の地域でと同様に、蛇を地母神の化身と見る女性崇拝の宗教があったことを示している。蛇は、川のように大地の上を蛇行するがゆえに、水の神としても見られていた。原始の日本人は、銅鏡ではなくて、水面を鏡として使っていたはずだ。その時、我々の祖先は、蛇のように身を「カガメ」て、「カガミ」に「カカ」を「ミ」たことだろう。
私たちが、鏡を通してはじめて、自分の全身を見ることができるように、そして、鏡像段階の幼児が、母親を通してはじめて、自己の存在を確認することができるように、縄文時代の人々は、地母神としての蛇を通してはじめて、自らの共同体をまとめることができた。ここでは詳述しないが、縄文人が蛇をトーテムとして崇拝していた証拠はたくさんある 
       哲学者 永井俊哉先生の 論文より引用
       (http://www.nagaitosiya.com/a/himiko_mirror.html



② 鏡の種類
 上記からは 発音からみた「へび」との関連性・またわたくしの推測する見た目からエジプトのウラエウスの関連性をあげました。さてこの鏡そのものの由来はどういったものでしょうか?
 原史時代に使用されていた 鏡を種類別に見ることによって、民族の流れを知る手がかりになるのではないだろうか
Ⅰ 多鈕細文鏡
◎日本国内の多鈕細文鏡
 多鈕細文鏡の特徴は、凹面ということ。平面・凸面のものより、姿見には適さない。
また、光を集めて火をおこすほどの焦点角度がないことから、集光目的であり、太陽神の依り代・象徴としての呪具と言われている。
①大阪府柏原市大県
弥生時代(前~中期)
前4~1世紀 21.7cm(最大)
②奈良県御所市名柄
弥生時代(前~中期)
前4~1世紀 15.5cm
「へび調査隊記」(09.08/27)
東京国立博物館より

朝鮮半島製
(東京国立博物館蔵)



◎出土状況 
出土地 遺跡名 時代 径(cm) 所蔵
福岡県小郡市 若山遺跡 弥生前期末~中期前半 16.0
15.3(二面)
小郡市埋蔵文化財調査センター
福岡県福岡市西区 吉武高木遺跡 弥生前期~中期 11.1 福岡市博物館
佐賀県唐津市宇木 宇木汲田(うきくんでん)遺跡 弥生早期~後期 10.5 佐賀県立博物館
佐賀県佐賀郡大和町 本村籠(ほんそんごおり)遺跡 弥生中期初 10.5 佐賀県立博物館
佐賀県佐賀市本庄町 増田遺跡 弥生前期末 佐賀市文化財資料館
山口県下関市 梶栗浜(かじくりはま)遺跡 弥生前期~中期 8.8 下関市立考古博物館
長崎県壱岐 原の辻(はるのつじ)遺跡 弥生前期末~中期前半 一部 壱岐原の辻展示館
長野県佐久市 社宮司遺跡 弥生中期 断片を再利用
 以上国内では 八遺跡九面がほぼ完全な形で出土しており、朝鮮半島を中心に遼寧省や沿海州など東北アジアの一角に拡がった。 この日本で出土した多鈕細文鏡も成分から朝鮮半島製と断定されている。




◎朝鮮半島の多鈕細文鏡 *5
大韓民国忠清南道南城里出土

径18cm
韓国国立中央博物館蔵
伝大韓民国全羅南道霊岩里付近出土

径21.3cm
崇田大学校博物館蔵
◎伝韓国慶尚南道出土 多鈕細文鏡 1面  初期鉄器時代・前3~前1世紀
 (東京国立博物館蔵 小倉コレクション保存会寄贈)

◎伝韓国全羅南道霊巖郡霊巖出土 多鈕細文鏡 1面 初期鉄器時代・前3~前1世紀
 (東京国立博物館蔵 小倉コレクション保存会寄贈

など29面以上
*5 朝鮮半島の多鈕細文鏡写真 
 『日本歴史展望 1 埋もれた邪馬台国の謎』 
 責任編集:上田正昭・田辺昭三 発行所:(株)旺文社



◎東アジア各地から出土した多鈕鏡は80面を超える。
 日本で9面 朝鮮半島で29面以上、東アジア各地からの合計枚数は80面を超えるようである。残念ながらその詳細は分かりません。詳しい画像での資料が少ないため分かる範囲での「Ⅵ・多紐細文鏡の流れ 私的見解」で、他地域とのつながりを記してみました。 


青銅器からみた紀元前一千年紀の朝鮮 宮里 修 氏
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/28801/1/Gaiyo-4648.pdf



Ⅱ 中国鏡
 中国鏡の起源は 下の図 河南省安陽にあるように紀元前13世紀がもっとも古い。その後500年の空白を経過し、晋に滅ぼされる前の小国 北(ほくかく)前7世紀から出土している。第三章 ②、日本における玄武 の銅鏡図にあるように 玄武の原型を見ることができる鏡である。
 前五世紀 春秋時代末期から戦国時代に本格的な中国鏡のはじまりでこの頃を「戦国鏡」。その流れを受け継いだ前漢からのものを 「漢鏡」と、田中 琢氏は書かれている。その後唐の時代まで作られるわけですが、
 日本においては、先に見てきた玄武に先行し舶載鏡として日本に入ってくる。
 先ず 多紐細文鏡が弥生時代前期末に入った後 中期以降次第、九州に集中してに入ってきます。この頃のものはすでに呪具としてのものではないと田中氏も述べられているとおりです。
 ただし北?(ほくかく)は前7世紀から多紐細文鏡が出土している。





Ⅲ 倭鏡
 『この日本列島で原史時代に使用された青銅製の鏡が三千数百面出土している。そのうちのほぼ三分の一は、中国大陸で製作され、海を越えて舶戴された鏡 ―舶載鏡―だ。残る三分のニは、中国大陸の覇者が、倭人と呼んだこの列島の住人が製作した鏡 ―倭鏡―であった。四、五世紀、倭鏡は、中国鏡の模倣から始まり、やがて独特の様相を持つ世界を作りあげた。中国大陸においては姿見であり、化粧具だった鏡が、この列島では、呪具祭器としての特質が付与され、政治と祭儀のなかで、呪力を発揮するものとなった。』(*50 p.6 2行目 - 11行目)





Ⅳ 鈴鏡
神獣七鈴鏡 この鈴がまわりについた鏡は倭鏡の集大成といえる。このように鈴がついたものは日本独自のもので埴輪の巫女の腰にも飾られているように呪具としてもちいられた。
 超大型倭鏡から次第に小さくなり これらは10cm内外と 小さめだ。


七鈴鏡というが 鈴は 六個のようですね?

七鈴鏡 (浜松博物館蔵)

浜松市東区有玉西町(古墳中期・5世紀)


「へび」調査隊が行く◎浜松博物館 (20.8/14)より
Ⅴ 最古の鏡 アナトリア
 『最古の鏡は、石製品である。トルコ・アナトリア高原にある初期農耕集落遺跡として著名なチャタル・ヒュユク遺跡 ~中略~ 前六千年紀のおわりごろのことである。現存する最古の鏡が石製品である点も興味深いが、それ以上にそれが巫女のもつ呪具であった可能性をみることこそ重要であろう。』(*50 p.46 2行目-15行目)

と黒曜石で作られた円盤形の副葬品が発見されている。この点から私が考える、卑弥呼が「女性」として「呪術的なもの」として使っていたイメージと一致します。

(写真:*51石鏡をもつ巫女の墓 前六千年期末「日本の原始美術 8 古鏡 著者:田中 琢」  p46)

 「古代アナトリアの遺跡」著者:立田 洋司 発行所:㈱近藤出版社 1977年においての放射性炭素C14による測定で、紀元前5650年の結果を出し、西アジア原始農村集落の中で最古の遺跡について 書かれている。この著書中に、へびに関するものまた、鏡については触れられていないが、この頃の特色としてあげられることが、『4・5件に1つの割合で神殿があり、その壁画に多いものが、狩猟・舞踊・大きな角を持った牛・女神や乳房の像である。その壁画から、ハゲタカによる鳥葬が行われている点、これは、ゾロアスター教の「鳥葬」に似ているということが述べられている。あと、泥で作った煉瓦造りの建物に石灰岩を擦って作った白い漆喰(しっくい)を長い年月をかけ100層以上も塗り重ねかなり長い期間使用されていたこと。』 
 現在では紀元前6850年から同6300年ごろの発掘調査が行われているが、田中氏・立田氏の述べられる時代からそんなに大きな変動はないのではと思う。

 ここで重要な事は 最古の鏡が呪具としての特性を持っていた事
そして、鳥葬であったという事実。鳥葬の民族は火葬を嫌う事(死体が火を穢すことになるため。またユダヤ教等は、身体の復活を願うため)



Ⅴ+ 補足 エジプトの鏡

(ダーラム大学、オリエンタル博物館蔵)
左 ベス神の柄鏡
右 ムト神の柄鏡

いずれも神王朝時代、第18王朝、前1360年前

 『鏡は生きている者の顔を映すので、古代人にとっては所有者の本質がそこに入りこんだかのように感じられた。そして鏡はエジプト人の心の内で復活と密接に結びつく事となる。』
 (*52古代エジプトの美展図録 p128. 6行目~10行目)

 これらニ点に代表される様にエジプトの多くの鏡がこのような形であるということであり、柄の部分に神が配置されたり、ミイラの包帯の中に一緒に埋葬される事からも非常に大事な物であると同時に再生と復活を願ったということが良くわかる。
 ただ、呪術的側面があったかといえば、太陽を映したり光を集める物では無く明らかに顔を見る物としての役割が大であった事がわかる。
③ 鏡伝来の流れ
Ⅰ 多紐細文鏡 の流れ 私的見解

鏡はそもそも、中国から朝鮮経緯で入ってきたと言われているが、日本では、呪術的側面を持っていたと言うことに着目して、呪術に関係しそうな出土鏡を追ってみた。
エジプトではすでに手鏡のように柄をつけていることから姿見の要素が多い。スーサは、どの要素を持っているかわかりませんでした。 他に示す分布図は、すべて呪術としての側面を持っています。
◎アナトリア  →  カラスク
 カラスクはアンドロノヴォ文化に含まれるがその範囲は広い。
フョードロヴォ文化(紀元前15~12制紀頃)火葬と拝火の証拠が見つかっているとWIKIにはあるがイリメニ湖あたりのノブゴロゴであろうか?アナトリアのすぐ北にあるのでもちろん関連性は深いがカラスクと関係があるかは、不確定。
◎カラスク →  中国 殷
 中国殷は多くの民族の寄せ集めの王朝であったためこの可能も十分ある。類似点を挙げる学者もいる。ただ 日本の多紐細文鏡の原点と言われる燕とつながるか河南省と遼寧省の間にの都市間に遺物が無いので関連が解らない。
◎アナトリア → スーサ → 燕 → 日本
 私が考える経路は こういった感じです。アナトリアで最古と見られる鏡がゾロアスター(拝火教・?教)と関連性があった点・呪術との関連性です。中国で発見製造されているものは明らかに 姿見・化粧用呪術と言うよりお守り的な使われ方である。
 今まで呪術としていたものが中国で姿見になりまた日本に入るまでに呪具に変わるとは考えにくい。

 日本において 九州と 畿内に分布が分かれていることから朝鮮から九州。燕から畿内に入ったことも考えられる 燕が、紀元前1100~前222年と栄え 『山海経』海内北経 による 「倭は燕の属国であった」という一節からも 有力と考える。
 海を経由して燕までいっていると仮説するのであればそれ以前に日本に来ていることも自然なことで 上記図のように 『私が思う経路』を足してみました。

多紐細文鏡 と 関わりがある国
(前13世紀) 呪術性があるか不確定
(ほくかく) (紀元前655年滅亡)。詳しい事は解りませんが多紐細文鏡
(前6~5世紀) 多紐細文鏡
魏(三国の) (220~265年)鏡(倭鏡)を邪馬台国の卑弥呼にあげる
卑弥呼 封号は親魏倭王。「当時の中国語から「ビミファ」だったのではないかとする説もある。 その場合、「ミファ」は大神(オオミワ)神社のミワに対応し「ビ」は、女性の尊称(ビ、ベ)、日あるいは蛇とも取れ、姫神、日神、蛇神とも解釈できる(後世、そのように解釈された形跡がある」。(WIKI「卑弥呼」)




Ⅱ 倭鏡 の流れ
 ◎『倭鏡の製作に従事した工人は、いくつものグループに分かれているのではなく、ごくかぎられた集団からなっていたのではないかという推論に到達している』(*50 p.36 18行目 - 23行目) とある。
 ◎一度飛鳥時代で途切れ再び奈良時代に唐の舶載鏡をもとに鋳造が再開される
 ◎頭初 姿見であった中国鏡(舶戴鏡)が、呪具としての倭鏡となること。
 ◎いわゆる呪具の凸面にするため縁が三角縁になっている三角縁神獣鏡のことだが、中国では出土していない。
 ◎現在 三角縁神獣鏡(倭鏡)は3世紀の古墳から出土と、時代が古くなっている。
 以上の事から

 この頃の日本国内にはすでに 中国大陸もしくは朝鮮半島の権力者がいたということ。
だから、専門の鏡職人(鏡師)を抱える事ができた。のではないでしょうか。
 邪馬台国の卑弥呼は、大陸の魏から三角縁神獣鏡をもらったのではなくて日本領土内の魏の領土 から鏡をもらったということも推測できます。




Ⅲ 中国鏡 の流れ
 ◎紀元前13世紀 殷・前7世紀 北?(ほくかく)に、呪術的要素を持つ鏡が出てきているがそれ以降のものは 姿見としての要素が強い。
 ◎春秋時代(前770~前403のものは、装飾があっさりしている。
 ◎漢の時代になり三角縁神獣鏡など装飾が多くなり唐の時代には彩色や模様も豪華そのものである。
 ◎唐以降は徐々にガラス製の鏡が入ってくる。
 
中国においての中国鏡は姿見であるが確かに呪具としての鏡が殷の中国にも入っている。ではなぜ500年の時を空け春秋・漢時代に大量に作られはじめたのでしょうか。鏡を太陽神と重ね崇拝していた民族が権力を握ったから。要するに 先に見てきた玄武の思想を持っていた民族と鏡の思想を持っていた民族とが重なるという事です。

http://www.searchnavi.com/~hp/rekishi/youyaku/06-1.htm





③ へび民族の鏡 まとめ
 本来ならシュメール民族・文化の中の鏡も見たかったのですが資料不足で不可能でした。
私がこの項で重要視していたのは へびを崇拝し、鏡をへびと同一視し巫女あるいはシャーマンのように本物の力(呪術)を持っていた民族が日本に入ってきたのではという事でした。

 考古学の見地からは笑われてしまうかもしれないが・・・。わたくしはシャーマンと呼ぶのが正しいかわかりませんが世界の霊感を持った人を信じている。今の日本で言えば江原啓之さんのような方である。
 鏡やへびを使って本当に未来を占ったり、「おまじない」みたいなものをしていたのではないかと信じている

 吉野裕子先生は、縄文時代から蛇を祀る蛇巫(へびふ)が存在していたと考えておられるが そういった能力を持った人がいたから 多紐細文鏡を使ってまつりごとをした民族も日本にすんなり溶け込んでいったのかもしれない。そして さらに呪具として倭鏡として発展したものと考える。



 新井宏氏 馬渕氏など青銅器の成分や数多くのデータによって出土地などを割り出し公表しており論争があるようですが、わたくしはへび民族の流れということにだけに重きを置いています。
 「Ⅵ・多紐細文鏡の流れ 私的見解」で自分なりのルートを考えては見ましたが
 多紐細文鏡の流れを追って行くにあたり東北アジアのツングース系民族”オロチョン族”は素晴らしい多紐細文鏡の使用をしておりました。

 しかも貴重な鏡をなんと贅沢にも7ツ使用しています。
天の神を降下させるときに、光りを乱反射させるようです。 紀元前にこのように多数枚の鏡を使用したかはわかりかねますが、 ”オロチョン族”=まさに”オロチ”であり、へび民族と鏡そして太陽信仰との結びつきを見ることができます。(ただし、自称オロチョンはへびではない 下記補足参照)

 『週間朝日百科「日本の歴史39」 1-183』の写真ではありますがその出展は『鄂春族』(中国・文物出版社) で、殷代の鏡の系譜をひくと思われる。 と記されている。 ヤマタノオロチも八つに光る鏡をへびの八つの頭に重ねるということもあったのでしょうか?
 
 日本において鏡がカガ、へびと重ねられる事実 がここにあるのではという結論と 殷=商=へび につながることも理解できました。


-- 蛇補足 --
◎「オロチョン族」
・人口は8196人。
・内蒙古自治区 黒龍江省の接するフルンベル盟オロチョン族自治旗に住んでいる。
・言葉はアルタイ語系、満州・ツングース語派、ツングース語に属し、文字を持っておらず公用語は中国語。
・オロチョンとは自称でありオロチョン語で「トナカイを駆使する人々」、「森に住む人々」を意味する。
・オロチョン族の人びとはシャーマニズムを信奉し、自然界の事物を崇拝し、万物には魂があると信じている。祖先崇拝が盛んに行われている。


鏡に見るへび まとめ

 ◎中国鏡は玄武の思想を持つ民族と重ねる事ができる。
 ◎多紐細文鏡はオロチョン族と関係があり、殷に起源を持つ。


 鏡カガミ は へびであった。

鏡の貢 参考文献
*50 「日本の原始美術 8 古鏡 著者:田中 琢 発行所:㈱講談社 昭和54年 
*51 石鏡をもつ巫女の墓 前六千年期末「日本の原始美術 8 古鏡 著者:田中 琢」
*52 『古代エジプトの美展』図録 イートン・カレッジ/ダーラム大学所蔵
  監修:ニコラス・リーヴス/クレイグ・バークレイ
  編集:ニコラス・リーヴス/古代オリエント博物館 東京新聞
  執筆:クレイグ・バークレイ/トム・ハードウィック/スティーヴン・クワーク
     ニコラス・リーヴス/ジョン・ラッフル/ハンス・シュナイダー/スティーヴン・スパー
  発行:東京新聞c2008
『週間朝日百科「日本の歴史39」 1-183』


 
追記 -- 蛇補足 --
◎『◆豊岡・森尾古墳の四神鏡は北近畿最古と判明
 豊岡市の森尾古墳で1917年に出土した方格規矩(ほうかくきく)四神鏡が、約2000年前の紀元前後に中国でつくられた北近畿で最古の鏡であることが分かった。弥生時代、北部九州並みの大陸との関係が指摘され、同市出土文化財管理センターは「大陸と交流する有力者がいた証拠」とした』
http://www.kobe-np.co.jp/data/0202/kyoiku.htm
 ちなみに森尾古墳は3世紀後半~4世紀前半頃
森尾古墳のある豊岡市には3000を超える小規模な古墳があり、古墳=豪族とは言えないようです。ただ 畿内に、王莽の思想の入った漢の鏡が発見されたことは重要であり、まだ調査されていない古墳にも、もっと早く玄武も見つかる可能性があるのではないでしょうか。



◎『一番古い鏡は、新石器末頃、およそ4500年くらい前のものが婦王墓から出土しているとのことであった。』
http://homepage3.nifty.com/alacarte/ 「中国歴史あら?カルト!」(ホーム)

http://alacarteofchina.at.infoseek.co.jp/seidouki.htm 「中国の青銅器ゼミナール」
 でも、調べてはいるのですが 上記URL以外に探すことができない。4500年前というと紀元前3500年になる、中国の古宮関係の本調べたがわからなかった。しかも「婦王墓」ってどこだ? 殷 河南省安陽の「婦好墓(ふこうぼ)」とゴっチャになっているのではないだろうか?正しいことが解ればそこからも推論ができるのだが・・・。
二、 鏡餅
 同じく『蛇 日本の蛇信仰』 著者:吉野裕子 にて、 先生は鏡餅考として 『二段に重ねられる鏡餅は、自分の身体の上に身体を重ねてトグロを巻く蛇の姿さながらである。また、鏡餅を上からみれば、そこにあるのは大小二重の輪であって、それはまさに、「蛇の目紋」である』(*49 p.153 11行目ー13行目) と推測されています。では海外からこういった風習が入ってきた可能性はどうでしょうか。

◎ ユダヤ人の宗教的な行事で過越(すぎこし)祭があります。 日本のお正月と同じように正月の7日間 丸く平べったい[パン」を祭壇に重ね そなえる風習です。まるで 鏡餅です。

 日ユ(猶)同祖論(にちゆどうそろん)という日本人とユダヤ人共通の先祖を持つ兄弟民族である(古代イスラエルの「失われた十部族」が日本に来た)という説。
他に 伊勢神宮 にまつわる 数々のうわさもあります。
伊勢神宮(内宮)の八咫鏡の裏にヘブライ語が書かれている。
  (明治天皇が見た後封印された)
伊勢神宮内宮から外宮までの石灯篭にダビデの紋が彫られている。
エルサレムの神殿に、16菊花紋等々・・・・・。

次に ユダヤ教 と 蛇の関係を調べてみました。

アダムとイブ にリンゴをそそのかしたのが 
モーゼの下を訪れた民が罪を認めて悔いると、モーゼは神に祈った。
モーゼは、祈りに応じた神の言葉に従って、炎の蛇の姿の青銅の蛇を作ると、旗ざおの先に掲げた。 蛇が人を噛んでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると、 命を落とすことはなくなった。  という物語
ユダヤ教徒やキリスト教徒の間には、モーゼが作った 「青銅の蛇」自体は偶像ではなかったが、ユダ王国の民が神との契約を 忘れるにしたがって「ネフシュタンと呼ばれ、偶像崇拝がなされた
イスラムの王ヒザキヤが、父ダビデに習いアシュラの像や、「青銅の蛇」を壊した とされる ユダヤ教聖典
ミディアン人(アブラハムの父テラを祖とした旧約聖書家系図に出てくる)の遺跡から発掘された青銅の蛇の遺物
   
◎主にこういったことのようです。



 同じく 伊勢神宮にまつわる 著書に  飛鳥昭雄、三神たける共著 「『心御柱』の謎」があります。『 伊勢神宮の内宮の地下宮にイエス・キリストの血染めの十字架が祀られており、 表はイエス・キリストであるが、裏は蛇であると書いてあるようなのです。』
 飛鳥昭雄氏は、UFOや怪奇・宇宙などを主に執筆しているようで本当かどうか 私は見ていないので確信できませんが 
 日本語学界では 吉野裕子先生が書かれている 「カカ」「ハハ」にたいして否定的な見解をしていたことを以前見かけました。 鏡餅とへびは無関係なのでしょうか。

 それでも上記のように  日本の神道の中心である伊勢神宮に これだけユダヤ関係の噂や 共通点がある。 これは 神道 と ユダヤ教 ネフィシュタン「青銅の蛇」 
  
 へび と 鏡餅 の接点 こういった観点からも見出すことができるのではないでしょうか。 ヘブライ語と日本語の共通点を研究なさっている方がいますが

  

 ◎ ユダヤ人のお供えする「パン」
     ・・・ヘブライ語で 「マッツァ」・「マツオ」  というようです。
   
  「マッツァ」「マッチオ」「モッチオ」「モッチ」「モチ」 「もち!!」
  と聞こえる? でしょうか?
  また  御餅を細長くとぐろを巻いたように供える所もあることから 
   鏡餅=蛇身餅(カガミモチ)  
  ユダヤ教との関連性として結び付けたいと思います。


鏡餅に見るへび まとめ

 ◎その形状が”へび”である。
 ◎ユダヤの風習に似たものがある。
 ◎そもそも 餅を重ねた形状に ”鏡カガミ” と付ける時点で”へび”


 鏡餅 は へびであった。起源はアラブ地方か?




三、 注連縄 (シメナワ)
 ◎吉野裕子氏は注連縄の起源を「蛇の交尾」としました。
『蛇 日本の蛇信仰』には へびの交尾の様子を示した写真が掲載されている。 頭から尻尾の先まで絡み合うその姿は まさに 注連縄でした。
①様々な注連縄
我が家の注連縄
我が家の注連縄も片方は切りそろえ もう一方はあえてそのままの形態。

◎「蛇除け」、「立ち入り禁止・結界」といった意味を持つ
  注連縄もあるようですが
 後に追記として紹介する奥沢神社下古山星宮神社のようにもともと蛇の形をした注連縄もあり、

 注連縄=”へび”と関連づけしても間違いないであろう。


 また、滋賀県のオコナイにも見られるように古来の風習として注連縄と蛇を関連づけしているものもある。詳しくは「へび調査記」
甲賀の里忍術村・栗東歴史博物館参照のこと



以下 注連縄特集
 
変わった注連縄 や、 へびとの関連性が強い物を掲載してみたいと思います。

敬慎院本堂 の 注連縄
七面山敬慎院(しちめんさんけいしんいん)本堂の注連縄
山梨県身延町にあり七面大明神をまつる
向かって左が太く、右側は極端に細い


正面には鳳凰の彫り物
 

日蓮聖人が身延で説法をしている聴衆の中に、美しい婦人がいた。南部実長がこの見覚えのない美女を何者であるか不審に思うと、日蓮聖人は婦人に「本体を皆さんに見せてあげなさい」と言われました。すると婦人は一丈あまりの竜に姿を変え、「私は七面山にすむ七面天女で身延山と法華経の護法神です」と言って七面山に去ったという伝説がのこっています。
 注連縄を蛇に例える社殿の注連縄は「頭」に相当する部分と「尻尾」に相当する部分があり太い方と細いほうがある。といいますが まさにそのとうりでした。
 ただ 敬慎院は、日蓮宗であり、仏教なのに 注連縄や登山道に鳥居らしき門があった。お寺の方にお伺いしたら 「仏教のお寺でも 注連縄や鳥居はありますよ。」 いつから注連縄があるかの問いには「昔から。」ということでした。 また 七面大菩薩は神様ですとお伺いいたしました。




京都 八坂神社 
でた!!  三連へび
明らかに尾っぽと、頭のあるへびが  三匹。




石割山の御神体 天の岩戸
山梨県山中湖村北東にある石割山の石割り神社すぐ右側に御神体「天の岩戸」がそびえる。

ご祭神は天の岩戸をこじ開けた手力男命

 全国に「天岩戸」と呼ばれる神社は多数存在する 天の岩戸神社としては 宮崎県高天原・三重県伊勢市二見町 二見興玉神社 「天の岩屋」 長野市戸隠村の、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になった戸隠山などが有名だが この山梨県石割山の御神体 『天の岩戸』の大きさにも驚くのではないだろうか。充分な風格を備えるその岩の割れ戸の中を通り、三度拝むことで幸運がひらけるという。また割れ目からしたたり落ちるしずくは霊水として飲むと無病息災眼病・長寿を保つことができると伝承されている。




七五三の注連縄
宮崎県 天岩戸神社東本宮
宮城県 天岩戸神社東本宮 一の鳥居

注連縄の縄が下に垂れているものを、足という。
これは 龍を意味するものではないかと思います。
矢切止夫氏のいう 菅原道真「天神信仰」を表すもの。特にこの神社の足は、七・五・三になっている。もっとも七五三縄と書いてしめなわとも読むのですが・・・。
 西宮本殿の背後、岩戸川の渓谷を挟んだ対岸 断崖の中腹に天照皇大神がこもってしまったという御窟(仰慕窟)がある。昔は洞窟だったものが天井が落ち窪みとなっている。皇室の崇敬も厚く 




三重県 夫婦岩(興玉神石)
天照皇大神の道案内をした猿田彦大神の誕生した石といわれ 夫婦岩が鳥居の役目をし、夫婦岩を境にこちらを俗世とする。

1910年(明治43年)、猿田彦大神を祀る興玉社(おきたましゃ)と宇迦御魂大神(豊受大神とも称される)を祀る三宮神社(さんぐうじんじゃ)を合祀し二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)となる。




天の岩屋  石神(しゃくじん)
 夫婦岩とともに天照皇大神がお隠れになった天の岩屋が祭られている。上記 石割山の御神体を掲載させていただいたように天の岩屋と呼ばれるものは多数存在する。
天の岩屋
 三宮神社(さんぐうじんじゃ)は、奈良時代に大江寺の境内に鎮守の神として興玉社を設けたのが始まりで、宇迦御魂大神は稲の霊の神と云われ、食糧を司る神、後に衣食住産業の守護神として仰がれて




恵利原の水穴(天の岩戸)
伊勢神宮の南 神路山の逢坂峠にある。伊勢神宮の五十鈴川は、二見に流れていくが  ここの水源は安乗崎西の伊雑の浦に注ぐ。

この下流域にも 何かゆかりがあるのだろうか?

 19年の夏休み、今まで神社仏閣に何の興味も無い、どちらかといえば嫌いな私だが、なぜかこの年 伊勢神宮に行きたくなって家内に言いびっくりさせた。この頃ちょうど「ヘビ研」(ヘビについての研究)の始まりで「蛇の目」について調べている頃でした。 まだ神社とヘビが関係あることも知らなかった。
家内は、いまだに「神仏に信仰心の無いあなたが伊勢神宮に行きたいだなんておかしい。不思議だ。」といっている。 たぶん二度と他の神社仏閣にもわざわざ行くことは無いと思っている。
 四連休の  一番の目的は松坂牛であったが、二見シーパラダイス、伊賀忍者の里など、子供が楽しめることを中心に三重県方面を泊まりで回った。 二見シーパラダイスに行ったら すぐ夫婦岩への入口があるので、なんとなくそこの神社と、夫婦岩を拝み。
 伊勢神宮では、外宮と内宮があることも知らず、 外宮を拝んだあとに、「おかげさま横丁はどこですか」と、神社の警備の方に聞き、内宮の隣ですと伺い 内宮の存在を知り、参拝する始末である。
 後からネットで調べて 外宮→内宮の参拝の仕方で正解!! と知りほっとしたものでした。  う~ん 御伊勢様に呼ばれたのかもしれない。
敬慎院等の写真は、全国の山登りをしている雲渓(父)提供による。




藤枝市 花倉八幡神社

 毎年行く竹の子堀りの途中に「あっ!
ここの神社もへびの注連縄だね」と家内に話し、通りすぎようとすると 
 「灯篭にも!へびが~~!!」 と、なかばあきらめかけている家内の冷たい視線を横に写真を撮りに車を降りるのでした・・・。

お賽銭も気持ちだけ入れて「撮らせていただきます」と拝んできました。

藤枝市内にも10社近くの八幡宮や八幡神社がある。
今までなら意識も無いところですが ついついへびの注連縄に反応してしまいました。

 ただここの神社のすぐ脇に 名前はわかりませんがロープで中には入れないようにした池があり、写真を撮ろうとしたのですが、デジカメの電池が切れ、撮る事ができませんでした。
 水にまつわる沼・池によく蛇や龍の名が付いているがこの池も 蛇と関係があるのだろうか?
 へびがみ様の「写すことなかれ」と言う声が聞こえてくるようでした。


 世間一般的に注連縄とへびとの関連性に気づいている方はまったく少ないのではと思うのですが。藤枝八幡宮について家内に聞くと、「周りに田んぼが多く、豊作を祝ったりするお祭りがある」とのこと。上記神社のように注連縄を作ったり、お手伝いしてる方は、きっと意識しての事なのでしょう。 
 足が無い事からも「へび」ということがいえます。鳥居と本殿との間にもう一本、ロープ状に細い縄で作った明らかに結界を表す注連縄が張られていました。
 ニ度と神社仏閣に不必要に行く事は無いと断言しましたが、考えてみると初詣は氏神さまに、子供の七五三に地元の五社神社に参拝している・・・・。今年(H20)も七五三だ・・・




世良田東照宮の注連縄
群馬県太田市
  世良田東照宮の鳥居 と 注連縄


 H20.7.30 徳川家康が、世良田出身と言うことから 現地入りして調査してきましたが「蛇の目・へび」との関連性に決定的なものは見つけることができませんでした。






冠稲荷神社(日本七社)  拝殿

「へび?調査隊」 群馬調査記 『冠稲荷神社』 (20年7.31) より
 稲荷神社にも注連縄をするものなんですね。

(クリックで拡大)

冠稲荷神社 聖天宮(しょうてんぐう)


 鳥居奥の聖天宮 は、伊邪那岐神(イザナギノカミ)・伊邪那美神(イザナミノ カミ)の夫婦神を祀る縁結び(えにしむすび)の基、 夫婦和合、親子和合、災難・ストーカー除の社 ということだそうです。

 中央部が下に湾曲しているのが特徴ですね。
縁結びの桜

 二手に分かれた幹が再び結びつき 縁結びにゆかりの深い桜の御神木




屋根神さまの注連縄
うだつの町 美濃市
 
 ”うだつ”は火災の類焼を防ぐための防火壁で、豪商らが富の象徴として競うようにその装飾性を高めた物です。

 左の屋根神さまは神社を置くスペースが無かったため 屋根に置く様になった様です。
 この美濃市の屋根神さまは「秋葉さん」とよばれ、 秋葉信仰 火の神様をまつっています。
「へび」調査隊が行く
◎岐阜県 調査記  うだつの上がる町並み (20.8/21)
より


 うだつに関しての関連サイト
http://www.minokanko.com/3udatu/machi1.htm (美濃市観光協会
http://www.telin.biz/mino/ (うだつの上がる町非公式ファンサイト)

http://www.udatsu.vs1.jp/waki_minami.htm 「卯建の町並み:美馬市脇町南町筋」




追記 奥沢神社 の大蛇 注連縄  (平成20年12/1)
 ◎ 『へび調査隊』 奥沢神社(奥沢5丁目) より
◎ 東京都世田谷区奥沢5-22-1
◎ 03-3718-2757
◎ 東急目黒線奥沢駅から徒歩3分、東横線・大井町線自由が丘駅から徒歩5分


顔アップはこちら
拝殿の注連縄

このページの下の方(七、行事・祭り
に上記大蛇のお練り祭事について掲載していますが

拝殿の注連縄も 
片方が細いへび(足があるので龍) 形式ですね。




追記 さまざまな注連縄 (2009年7/20)
~~ 一年中飾られる注連縄 ~~
「へび調査隊記」 あかつかやま公園・豊川稲荷
 より


南勢、伊勢志摩地方ではお正月に掛けた注連縄を1年中掛けっぱなします。また母の実家豊橋の商家でも一年中掛け、大晦日に新しく掛け替えると聞いていました。が、ここ豊川でも一年中のようですね。その形も短く太い大根のような形状に、足と呼ばれる和紙をジグザグに折った「紙垂」(しで)と、藁を束ねた「〆の子」を前垂れとして使用した「通称 伊勢型」と呼ばれる注連縄です。

一説には、天照大神(あまてらすおおみかみ)が弟の素戔嗚(すさのお)の乱暴ぶりに怒り天の岩屋に隠れた天の岩戸伝説から来ている説、天照大神が、二度と天の岩屋に入れないように結界を張ったことによるモノ。
また、伊勢を訪ねた素戔嗚を助けた際に受けた茅(かや)の輪を玄関に掲げて難を逃れたという言い伝えからと諸説あるようです。




追記 さまざまな注連縄 (2010年7/29)
◎ へび調査隊記 三重県 鳥羽水族館より
鳥羽水族館の入口に このあたりの風習 年中注連縄が・・・。

「千客万来」のゴボウ締めですね~~。 




追記 ヘビの注連縄 (2010年08/19)
 『ヘビ調査隊記』 栃木県調査記 「下古山星宮神社」より

下古山星宮神社 正面
”へび”の注連縄

いきなり へびの注連縄である・・・。
素晴らしい!!
一の鳥居
ヘビの注連縄
 古来より星宮神社の注連縄はヘビの形をしています。
現在ではこの近辺の二~三社のみとなりました。
 ヘビは水神様の使い、或いは金運象徴とも言われております。また、昔ヘビは脱皮を繰り返すことから、再生すると考えられ、すなわち不死の生き物と信じられておりました。
 当神社のご神徳は、天から恵み(雨もその一つです)をあたえると共に、人々を祓い清めて新たな活力をあたえる力を有しております。
 このようなことから、象徴的にこのような珍しい形が生まれてきたと思われます。
 どうぞ皆さん注連縄に願いを込めてみてはいかがですか。
二の鳥居




追記 ヘビの注連縄 (2012年04/17)
 浜松市 松之浦神社 調査記 (2011.01.14調査)より
松之浦神社 裏表のない注連縄
なんと、裏側も亀甲結びのようになっている!!

御祭神は
正勝吾勝勝速日天忍穂耳命
(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)
「なが~~~!!」




◎下記HPでも 注連縄のことを詳しく紹介しています。
  また 鳥居に巻きつく 注連縄の写真もございます。
      「注連縄の真実」 (http://enjoo.com/ayaseinari/jin_sinjitu01.htm

◎下記URL 「雉鳴庵 (ちめいあん)」さんからは 
お正月に各家庭が飾る注連縄をさまざま紹介しています。
そういえば 神社だけでなく お正月にも 注連縄って飾られますね。
よーく みると やはり 太い方と細い方があることがわかります。
http://chimeian.hp.infoseek.co.jp/index.html(トップページ)

http://chimeian.hp.infoseek.co.jp/zouni/simenawa.htm(注連縄 門松の項)



②へびの交尾?
へびの絡み合う姿を見て興味を持った方がネットで調べるうちに当サイトのことを知り興味を持ってくださり、21.5/17メールを頂きました。
 
20年夏 調査隊として「日本スネークセンター」に伺ったときに購入した小冊子「へびの世界」での内容に シマヘビの『コンバットダンス』という雄と雄が雌を争って絡み合う姿を紹介しています。 
 はたして へびの絡み合う姿は 雄と雄なのか? 雌と雄なのか?

この項冒頭で述べた様に吉野裕子先生はじめ、安田喜憲氏など、縄文式土器の模様や「しめなわ」は、蛇の交尾を豊穣の隠喩とする蛇信仰に由来すると文献でも多く見ることができます。

確認のために「日本スネークセンター」様にメールでお伺いいたしました。

以下 ご回答の内容です。

 ヘビが縄のように絡み合うのは、雄同士のコンバットのみと言っていいでしょう。ただし、日本の本土(北海道から九州まで)では、コンバットが確認されているのはシマヘビだけです。
では、しめ縄がヘビの交尾を模した、というのは間違いか、というとあながちそうとも言い切れません。というのは、現在でもコンバットは交尾と誤解されていることが多く、しめ縄が作り出された昔、コンバットが正しく認識されていたとは考えられず、おそらく交尾行動と思われていたでしょうから。
ちなみに、ヘビの実際の交尾行動は、雄が雌に体を沿わせ、雌の背面を盛んに刺激し、いったん交尾の体勢にはいると、あとは尾のつけ根を交差させたまま、それぞれが自由な姿勢を取っています。シマヘビのように、雄が雌の胴体にかみつく例もあります。

(財)日本蛇族学術研究所 所長
 

まとめ

 注連縄の形はへびの絡み合った姿(交尾)をあらわし、現在は雄と雄の「コンバットダンス」と認識されている。

*53写真: 『ヘビの世界』 
発行所:(財)日本蛇族学術研究所
執筆者:鳥羽 通久
P20 45.「シマヘビのコンバットダンス」 


 今回改めて確認のきっかけをつくってくださった岐阜県のN様 ご回答いただいた「ヘビセンター」様にお礼申し上げます。
 (2009.6/15)


 しかし!!なぜへびの交尾が注連縄として結界として使用されるのか?
ルーツについても調査するつもりである。


注連縄に見るへび まとめ

 ◎その形状は”へびの交尾”である。
 ◎注連縄に、へびを模したものもある(奥沢神社)。

 注連縄 は へびであった。 起源と由来は?



四、 神
①『神』発音 にみる蛇

アイヌ語で のことを カムイ と言うことは良く知られている。
 

 国立民族学博物館教授であった、言語学者 崎山理氏が復元された縄文語から
 
 縄文語の蛇(ムイ)に接頭語の 「カ」 が付いて 『カムイ』
 蛇 ・ 「ムイ」(mui) の母音部分がウムラウト化(音質が変わる現象)し、
 『ミ』 となり、     接頭語の 「カ」 が付いて 『カミ』

 要するに 「カムイ」が、 ウムラウト化して、 『カミ』

 といった内容を、「面白いほど良くわかる 新道のすべて」 著者:菅田正昭 発行所:㈱日本文芸社 (*56 p.26)でかかれている。
 縄文時代に如何に蛇が、崇拝されていたかということからも、蛇「ムイ」から、『神』となっという菅田氏の推測は、間違ってないかもしれない。同じく著書の中に「常陸国風土記」で、
(かみ)(かみ)と記述している例も記している。

http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/index.html 「情報処理推進機構」(ホーム)
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/k-jda1/k-gca1/k-gsa2/IPA-san0110.htm 縄文語の復元―単語
では、
『へび』 ツング-ス諸語とオ-ストロネシア諸語が、縄文時代中期以降、混ざり合うことによって現在の日本語の母体を形成した。『へび』は縄文語で『mEi』と発音され、その語源はツングース諸語『mui:蛇』である。(資料提供:国立民族学博物館/崎山理)
とある様に 縄文語というより北方近隣諸国のツングース語と関係がありそうだ。
すると、先の多紐細文鏡で見てきた「燕」の国との関係を疑う余地がありそうだ。



◎縄文語とアイヌ語がどの程度関連性があるか解らないが念のため アイヌ語で、 名詞の後ろに「ムイ」とあるものをあげてみました。
 青大将・・・・・タンネカムイ
 黒へび・・・・・クンネペ
 赤へび・・・・・フレカナンペ
 まむし・・・・・・トッコニ

 龍神・・・・・・・ポンカンナカムイ
 雷神・・・・・・・シカンナカムイ

熊・・・・・・・・・・・キムンカムイ・ イソカムイ
金毛熊・・・・・・・コンヌマコロカムイ
鯱・・・・・・・・・・・レプンカムイ
狼・・・・・・・・・・・・オンルプスカムイ
鷲ふくろう・・・・コタンコロカムイ
しまふくろう・・・クンネレッカムイ

国土創造の神・イカッカラカムイ  
人を作った神・・アイヌカラカムイ
国造りの神・・・モシリカラカムイ
男神・・・・・・・・・ピンネカムイ
女神・・・・・・・・・マツネカムイ
国守・・・・・・・・・モシリシカマカムイ

100・・シネムイ
200・・ト°ムイ
         
900・・シネペシムイ
http://asobihorokeruyama.web.fc2.com/ 「アソビホロケール山」(ホーム)内 

http://asobihorokeruyama.web.fc2.com/ainugo.htm アイヌ語覚え書きより
 アイヌ語 で、「ムイ」とつくものは、百の単位「00」のみ?。他は「カ」が付いていますね。
蛇にしてもアオダイショウだけが「カムイ」となり、他の動物や神の意そのものを「カムイ」として表している。またアイヌ民族の伝統的信仰は多神教 いわゆる、動植物や自然現象、炎などあらゆる物を神格化しているようです。まさにわたくしが求めている自然崇拝の民族だ。
 
 「カムイ」が、日本語の「神」の語源とする説もあるが、違うという意見もある。
でも、アイヌの方々が「へび」や、動物・自然を神とし、自然を大切にするものの考え方から「神」として崇拝する考え方は、日本の「神」として太陽や自然崇拝の本来の意味を持つものと等しい様に思う。
 神道にこれだけ蛇があふれていることからも「神」が、へびを語源としているという考え方も 否定できないのではないでしょか。
 
 ちなみに、WIKIより『近年の遺伝子研究では、日本人の三つの民族集団(アイヌ民族、大和民族、琉球民族)のすべては、ほぼ同じで、北アジアを起源に持つことが明らかにされている』ように、時代やルート・思想の違いで、民族が分かれているようになっているのは、残念に思う。アイヌの方々が、「へび」をどのように捉えているのかも機会があったら是非とも伺ってみたい。




②へびを「ムイ」という ビルマ語
 「ムイ」といえば、ビルマ語で『蛇』を意味する。ミャンマーにある ムイパヤー(Mwe Paya)が有名だ。
 ムイ=へび。 パヤ―=パゴダは仏塔。仏像の脇に巨大なニシキヘビが住みついている。
縄文人と ビルマと関係があるのか?!
縄文人が海を渡って来たとするならばビルマを経緯する事事も否定できない。

 日本と諸外国とで、読みと意味が同じものはいくつかあるが
これも へびとムイの読みが同じ意味するものに関するひとつの良い例ではないでしょうか。
 

   {仏塔・・・釈迦の代わりになるもので、「釈迦の住む家」)である。}




神に見る へび まとめ

 ◎世界的に”へび”を神としていた事実
 ◎「ムイ」から 「カムイ」 ⇒「神」

五、 蛇口
①蛇口の由来
なんで 「蛇口」が蛇という字を使用されているか疑問に思われる方も多いと思います。
 明治20年の横浜で道路の脇に共用栓が敷設された当初、イギリスからの輸入品で、ほとんどのものにヨーロッパの水の守護神であった「ライオン」のレリーフが付いていたようです。
 徐々に国産化される中で中国・日本の水の守護神である「龍」(龍口)になり、いつしか「蛇口」と呼ばれるようになったようです。
下記URL にて、 語源(由来)を知ることができました。上記は下記URLからの引用です。
http://www3.kcn.ne.jp/~jarry/jkou/ii107.html


http://www.dokokyo.or.jp/ce/kikanshi0202/zakki.htm 
こちらでも 蛇口の由来が記されています。

 ここでも 日本が 水の神=蛇 と考えられていたことがわかります。 それが 池・淵に、蛇や龍が付く理由と、蛇口にもなるわけですね。



②蛇口の語源
 辞書をひきひきなので 多少の間違いは御容赦願います。またご指摘頂ければ有難いです。

フォースの語源 (日本でホースといえば蛇口に取り付けるビニル製のものですが)
言語 表記 発音 意味 語源
ラテン語 falsus ファルスス 偽の・ゆがめられた
フランス語 fausser フォセ ねじ曲げる
アメリカ英語 Faucet フォーセット 蛇口 ねじ曲げる

ロビネという呼び方
フランス語 robinet ロビネ 蛇口 robin 羊の口?
イタリア語 rubinetto ルビネット 蛇口
ギリシャ語 ロビネス 蛇口

タップという呼び方 
イギリス英語 tap タップ 蛇口・叩く 引き出す意味を持つ

カランという呼び方
オランダ語 kraan カラン 蛇口 鶴・(日本のクレーン車のクレーンも「クラーン」(鶴)から)
ロシア語 kpah(m) クラーン 蛇口 オランダ語。Kraan

ヴァッサーハーンという呼び方
ドイツ語 Wasserhahn ヴァッサーハーン 蛇口・水の魔女 ニワトリ (直訳:水のニワトリ) 

グリーフォ
スペイン grifo グリーフォ タップ・蛇口 グリフォン/グリフィン(ワシの翼と上半身・ライオンの下半身を持つインドの怪獣)
 *グリフォンはギリシア語で「曲がったクチバシ」を意味するGryps(グリプス)・Grups(グリュプス)とも

シュイロントウ
中国 シュイロントウ 蛇口 水龍頭 
 *韓国語も調べようとしたのですがHPビルダーでハングルが表示できないので割愛。



バルブの語源
言語 表記 発音 意味 語源
ラテン語 volve バルブ  バルブ・弁 volvere (回転する、巻く)




Ⅰ・ フォース
  ラテン語 fallere(ファッレレ) 「だます、ゆがめる」
   ↓
  ラテン語 falsus(ファルスス) 「 ゆがめられた、偽の」
   ↓ 
  フランス語 fausser(フォセ) 「ねじ曲げる、ゆがめる」
   ↓
  アメリカ英語 fauset(フォーセット) 「ねじ曲げられた、蛇口

 と変化している。

  ネット的には faucet(フォーセト/ファーセト) では無く イギリス英語のtap(タップ)と訳される事が多かった。。



Ⅱ・ ライオンの口
「へび調査隊」山梨県編(09.8.19・20)より
 『信玄餅』で有名な”ききょうや”さんにある”ライオン口” 
桃泉水(とうせんすい)
日本一の桃を育てている一宮の地下水。

軟水で、お世辞じゃなく本当においしい水でした。
こういったおいしい水を飲むと長生きしそうです。




 ◎日本最初の近代水道

1887年(明治20年)9月にイギリス人工兵中佐パーマーにより洋式水道(日本最初の近代水道)が完成し獅子頭を持つイギリス製共用栓を用いて配水されました。

詳しくは
 タイムスリップ横浜様 横浜開港資料館中庭 に
 獅子頭式共用栓(ししがしらしききょうようせん) 写真と説明が出ております。


◎ マーライオン
 ライオンの口から水と言えばまず思いつくのがお風呂とマーライオンですよね。
そこでまずはマーライオンを調べてみました。


マーライオン

シンガポール セントーサ島にあり、思ったより小さいと言うことで世界三大がっかりになっている・・・。シンガポール近郊に栄えた都市「ラマセク」(ジャワ語で海の意) フランス語の海の意「Mer」と、シンガポールの象徴「ライオン」から
 ちなみに シンガポールの名前の由来は11世紀のスリ・ウィジャヤ帝国のサン・ニラ・ウタマ王子がライオンを見たことに由来し、サンスクリット語で「ライオンの町」となった。とある。
 シンガポールは16世紀にイギリスの植民地支配を受けており、イギリスの国章・国王の紋章である、ライオンからきているのではないでしょうか。イギリスの国章には、左にイングランドを表すライオン・右にスコットランドを表すユニコーンが、シンガポールの国章には左にライオン・右にマレーの象徴トラ。台座の波もライオンが海からやってきたのを表しているようないないような。あくまでも個人的な感想です。
 エジプトでは、スフィンクスに象徴されるように、キリスト教東方正教会では「マルコの福音書」を、ライオンに翼の生えた象徴として表す。
 ライオンのイメージは邪魔なものを打ち滅ぼし、高貴で力強いイメージ。多産な動物で次々と子孫を増やすことから、繁栄の象徴としてのイメージが強い。
 ライオン=権力・象徴・守護神 だった様な気がします。


 日本や東洋で龍や蛇が水の象徴、あるいは権力を表していたからでは?と想像しました。


◎ ライオンの口から水が出るルーツ
 ところが、さらにルーツを調べていくとエジプトのテフヌト(Tefnut)神/セクメト(sakhmet)神に起源があることが分かりました。
 テフヌト神は雨、露、湿気の神でありデンデラのハトホル神殿で、屋根の排水の水をライオンの口から流しているらしい。


 

*写真は セクメト神の像 
末期王朝時代、第26王朝、前600年頃、ファイアンス、高さ9.5cm
イートン・カレッジ・マイヤーズ博物館 (古代エジプトの美展図録 p53)

 テフヌトは太陽の神ラーの娘でラーの左目から生まれ太陽神の目である蛇の女神、ウラエウスと同一視されることもある。(額にへび(ウラエウス)
 同じ獅子頭の女神であるセクメトと混同され後にバステト(Bastet)と習合される。

 
  
  ◎テフヌトの語源「テフェン」が(唾を)はくという意味で 雨、露、湿気の神とされる。
ヤマタノオロチ伝説に似た逸話。テフヌトとバステトは後に習合される。
 
ラーが年老いて、自分を信仰しなくなった人間に罰を与える為に自らの目を抉って生み出したのが雌獅子神セクメトであったが、彼女は多くの民を惨殺し、流れ出た血を浴びるように飲んでは踊り狂うという、あまりに苛烈な殺戮行為を繰り返した。国の惨状を憂いた神々はラーにセクメトを止めるように進言し、ラーもそれに同意するがセクメトの激情は生みの親であるラーにも抑える事が出来なかった。そこで神々は策を嵩じ、赤土(マンドラゴラや、アカネなど植物説もあり)を混ぜて血に似せた大量のビールをセクメトに与え、酔って眠ってしまった所をラーが彼女の「憎しみ」の感情のみを取り除いた
◎豊穣の神バステトは、ネズミを退治する守り神とされてきました。

 テフヌト神・セクメト神共に上記写真の像のように、ライオン顔に太陽と蛇(コブラ)で表されます。そして、その女神の性質・背景にあるものが 日本で水の神様として崇拝されるへびと似ていると言う事が分かりました。

参照させていただいたサイト様

 セクメト・ライオンの口から水 について
 * 「エジプト神話 神々名簿」様 
 セクメト・テフヌト・バステト女神 WKI 


-- 蛇補足 --
◎そうそう ほんとは、こんなライオンを探していた。(下記URL)
みんなの憧れですよね。
http://portal.nifty.com/2007/12/22/a/

◎歯磨きの「ライオン株式会社」の社名の由来。ライオンは、歯が強いからという理由から。
◎銀座ライオンは、前身の「カフェー・ライオン」の社名に由来し、イギリスのレストラン会館「ジョー・ライオンズ商会」創業者ジョーライオンズ氏にあやかっている。



Ⅲ・ 龍口
 蛇口の起源といわれる”龍口”
実際なんて呼ばれているのか、起源はいつなのか調べてみる事にしました。

 龍口と聞いて思いついたのは下の写真のようなものでしたので神社関係を調べ・・・。
 
龍口
神社で良く見かける

たしか奈良東大寺の手水舎の龍
龍口

こちらは 世良田東照宮の 手水舎の龍



「へび」調査隊が行く 世良田 東照宮 (20.7.30・31)  参照

 ネットで調べても分からなかったので 神社庁に問い合わせてみました。
 「文献等調べますので1時間後にご連絡を」と広報科の方に質問事項を述べ再び電話してみると
・龍口なるものの正式名称は・・・。
   「判りませんでした。」
・手水舎(てみずや)に龍があらわれるようになったのはいつからでしょうか?
   「判りませんでした。」
・仏教が日本に入ってきたことと関係ありますか?
   「判りません。」 
   「古くはへびが、また竜神信仰によることもあり 水の神様としてうんぬん・・・・。」
といった内容でした。  
 まさかネットで調べたということではないとおもいますが・・・。
でも広報科の方なのでそれなりに見識のある方の判断と理解いたしました。

 ただすべての神社仏閣で龍口があるわけで無く、現在でも清水(しみず)のように岩の間から流れる水で清めたり、伊勢神宮の様に五十鈴川で、見を清めたり、竹筒で、水を流したりといったことが存在しているわけで、龍の口から水を流すようになったのは体裁をとるものであったようだ。


 蛇口の元となったといわれる”龍口” 実は名前・名称が無かった・・

 実際”龍口”と呼ばれていたものは蛇体鉄柱式共用栓(じゃたいてっちゅうしききょうようせん)でした・・・。
 
 獅子頭式共用栓(ししがしらしききょうようせん) がイギリスから輸入され日本で始めて設置された後
 蛇体鉄柱式共用栓(じゃたいてっちゅうしききょうようせん) に替っていったようです。

 これら初期の共用栓がどこで造られたのか知りたくてまず TOTO歴史資料館 さんに電話でお伺いしてみました。(INAXさんにも何度か電話したのですがなかなか繋がりませんでした)

 どの企業で造っていたかは分からないということでしたが、
 蛇口の起源として
 ◎ 獅子頭式共用栓が普及するにつれ 龍に代わっていった。
 ◎ 蛇体鉄柱式共用栓の柱が蛇腹であった為蛇口といわれるようになった。
 など 幾つか説があるらしい。

 ◎ しかし蛇口と同じようなものはすでに日本にあり、明治5年 官営模範器械製糸場の富岡製糸場では、フランス製のカランとしていわゆるバルブが存在していたそうです。
 ◎ また、京都伏見の蒸気機関車の官業製作所でも カランという名称であった。
 
 という事である。 

 フランス製でカランというのはおかしいので明治5年以前にもカラン(オランダ語)という言い方で蛇口に相当するものがあったのではと推測する。

 
 

TOTO歴史資料館
〒802-0073 北九州市小倉北区貴船町2-2
TEL 093-951-2534 FAX 093-951-2539



Ⅳ・ カラン
 江戸時代末期 長崎において 井戸から水が出るのをオランダ人が「カラン」と言ったのがはじまりだそうです。

左写真は「井戸用手押しポンプ」

 1600年頃に発明されたそうですが、その後、鎖国中にオランダ人によって長崎にもたらされたそうですが、その場所や詳しい時代などは分かりませんでした。

 
「TOTOさんのカラン」
TOTO-TMF19ARR と TOTO-T16ANX13C
 
うわ~~えらいハイカラなカランだなぁ。

わたくしの中では
銭湯にある押すと水が出る蛇口タイプが”カラン”というイメージがありました。

 カランの語源を調べてみました。
 オランダ語のWIKI http://nl.wikipedia.org/wiki/Kraan サイトを開くと同じスペルの”kraan”「液体」・「機械」・「鳥」へのリンクがあります。 形以外にルーツになった理由は無いかWIKI以外にもいろいろ検索してみましたが、見つける事ができませんでした。
 ドイツ語”Kraniche”と検索するとエジプト神話に、太陽の鳥として、神にささげられたり、食用にされていたこと、”B"の象形文字であること。 ギリシャ神話で、ヘルメスの使いであったりの”警戒と慎重の象徴”であたことの記述がありましたが、

 ライオンや、へびに関わりのあった”水”との関連性は分かりませんでした。
 ”カラン”のルーツは形状からというのが現時点での結論です。
 
 


 参考サイト様
 *手押しポンプ写真 写真素材 [フォトライブラリー]
 *Tiny Tales 



Ⅴ・ バルブ
 バルブといえば 回す部分を指します。
 蛇口と言うと水が出る口から回す部分までも指すから面白いですよね。


我が家にあったバルブ(生ビールサーバーの炭酸ガス)

金属製のバルブが登場したのは1863(文久3)年、紡績用ボイラが輸入されたとき一緒に入ってきたのが最初といわれています。

 『「バルブ」の起源は、紀元前1000年頃の古代エジプト遺跡から発掘された、木製のコックまで遡ることができます。古代ローマ時代には、貴族の家には水道のパイプが敷設され、その出口には青銅製のコックがついていました。このように金属製バルブは2000年以上も前から実用化されていました。』

 この点は先にTOTO歴史資料館さんにお伺いいたしました、富岡製糸場の説明と重なりますね。

 参考サイトさま
 *rivervillage.net
 *FUJIKIN
 *KITZ



Ⅵ・ -- 蛇補足 --
 2年ほど前に”蛇口”の起源を調べたときには 情報が少なかったのですが、どっと情報量や画像も増え訂正しないといけない部分がでました。

 蛇口という呼ばれ方のルーツについて 
中国では井戸水を ”井水” 水道の事を”洋水”とよび 蛇口を””と呼びます。
  蛇口・・・ 龍・・・ 頭・・・である。 まさに 龍頭の水
そして、水道整備は日本が先でした。 なので日本で”蛇口”とんでいたので、中国で””と呼ぶようになった。という記述です。


 日本にはじめて共用栓が敷かれたのは明治20年 西暦1887年である。
 中国の水道整備が始まるのは10年後のことである。


◎『北京では1908年、清の末期に水道事業が始まりました。それまでは井戸水が一般的でしたから、庶民は水道水のことを「洋水」と呼んだそうです。』
http://japanese.cri.cn/304/2006/07/20/1@68790.htm(中国国際ラジオ)。

◎長春市日中友好浄水場 1986年頃~ 日本の無償資金協力による。
  北京・南京・鄭州・徐州・成都  1988年頃~ 第二次円借款

◎「日本と中国の水道の協力と発展」 宗先生のお話
http://www.waterforum.jp/jpn/china_japan/backnumber/files/02/data01.pdf

   ・・・など
 こういったことを考えると日本で「蛇口」と言ったものが 中国で(蛇口の意)と言われるようになったことを推測いたします。中国語で井戸水のことは「井水」

 もちろん中国で、龍が、水の神であったことと、 中国の象徴であったことにもよります。
それらを考慮した上で 中国で「」(水龍頭)と呼ばれるようになったのではないでしょうか。
 といったように記述していましたが、

 2年経ってさらに調べてみると
◎近代上水道の整備によって共用栓が敷かれる前にも、国内にバルブ・カラン・コックといった様々な呼び方のものがあったこと。
◎江戸時代にも消防のためのオランダから入った手押しポンプ”龍吐水(りゅうどすい)というものがあった。
◎龍と書いて”じゃ”と呼ぶものも多くある。逆に蛇体鉄柱式共用栓は龍の顔であり、はじめから”じゃ”であった説。

 TOTO歴史資料館さんは 「長崎おくんちの蛇踊り(じゃおどり)*註」のように へびだけど龍の格好である事と同じで龍と蛇を混同している点」などをお話いただきましたが、龍が先か蛇が先かはっきりしなかった。
 中国においての呼ばれ方についても調べましたが確証はできませんでした。

 中部地方以北では未だに藁を蛇の形に編んで”へび”として練り歩く祭が多いことからも長崎蛇踊り(じゃおどり)も昔は蛇の姿であったのでは?
 そして 不思議な事であるが海外の遺物に”へび”があり、図録や解説に英文でも”snake”と書かれていても 日本国内で翻訳されると”龍”と記述される事が多い。 また翡翠・漆も日本がルーツであるのに海外がルーツであると長年言われてきた(あるいは銅鐸も中国起源といわれるが中国からの出土は無い)ことから判るように 近代においては ”へび”を嫌う思想も多く、あえて龍と書こうとする傾向、中国に起源を持とうとする傾向にあるようである。 
  

  しかしながら 日本で蛇口といっていたものが中国で「」(水龍頭)と呼ばれるようになったという書き方は訂正したいと思います。
 
 が、
 ◎あくまでも水道設備や環境は日本の方が先であったこと
 ◎徳川家康は江戸入府に際して上水道の整備を行いますが、その際の水源として選ばれたのが井の頭池であり、その上水路が神田川である。日本最初の水道は江戸時代徳川家康によるもので、木製の水道管から引き込んだ水を井戸につなげていた。ことなどからも
 
蛇口という呼ばれ方が中国から来た訳では無いと断言します。

 ちなみにです。家康自身も何度かこの地を訪れたとされ、慶長11年(1606)に家康が井の頭池の水でお茶をたて、その時に使用したとされる茶臼は今も弁天堂に伝えられています。


蛇口に見る へび まとめ


 ◎イギリスにおいて水の守護神であった”ライオン”
   から 日本においての水の神様”へび”に置き換わり『蛇口』 に
 



*註:「龍踊り(じゃおどり)」は、以前は「蛇」の字を使い「蛇踊り」としていましたが、県外の人が「へびおどり」と読むため、龍の字を使うようになった。




-- 蛇補足 --
◎蛇口のようで・・・。 新しい使用法だ!!(感動)
http://portal.nifty.com/2006/07/06/b/ 「立形水飲水栓」



六、楽器 へびに関するもの
① 蛇皮線(じゃびせん)  三線(さんせん)
Ⅰ・蛇皮線とは
◎胴に蛇の皮を張ることからそう呼ばれ 沖縄の三線の俗称
◎明清の俗楽に用い、琉球の民族楽器になり 永禄頃(1558-1570)本土に伝わり 三味線(しゃみせん)の祖となった。
  -- 広辞苑より --

沖縄ではサンセン・サンシンと呼ぶのが一般的 なようで、本土の人が 猫皮・犬皮 紙の三味線(シャミセン) 分けて蛇皮のものを 「じゃびせん」と呼んでいるようです。


写真浜松楽器博物館 『三線』 
            (写:巳右衛門)


沖縄サンシンと 
http://gkabudan.ivt.org/~sanshin-w/sanshin.html  「三線クラブさんしん隊」(HOME)
http://gkabudan.ivt.org/~sanshin-w/3theory.htm 「サンシン論」
奄美三味線 について
http://www.asahi-net.or.jp/~rr4a-tnk/index.html  「奄美島唄の世界」(HOME)
http://www.asahi-net.or.jp/~rr4a-tnk/jami01.htm 「三弦(奄美蛇皮線)」


 奄美島唄の世界 コオル兄さん三世さんが沖縄サンシンと奄美三味線とは「奄美蛇皮線のキーは高く、弦も細いものを使用するため音色が違うこと、また左手の小技を使う」点から性質が異なる述べられています。それでも、奄美・沖縄のものもいずれも中国から伝わっていると言うことなので そのあたりも探ってみたいと思います。
 中国では 民間の弾弦楽器、弦子ともいう。
 



Ⅱ・三線(さんせん・さんしん) 弦の数の起源 
左から
リュート(ヨーロッパ)
ウード(西アジア)
ビバ(中国)
琵琶(日本)・・半分ですが。



写真は浜松楽器博物館
      (写:巳右衛門)
 上記 四種の楽器は 下記ウードの写真に見られる様に右側の玄が張ってある部分 糸倉 が後ろに折れる形の類似性から 同じ先祖をもつものとして紹介されています。
 浜松楽器博物館でも、これらの先祖を、ササン朝ペルシャ(226~651年)の「バルバット」としておりますが、残念ながらそのバルバットは、現物も写真も展示されていませんでした。
 また材質・時代・バルバトのペルシャでの意味も浜松楽器博物館に伺ったのですが「解らない」ということでした。電話の方が調べてくださった中では「ニューグローブ音楽辞典」(講談社)にインド起源と出てます。と教えていただきました 

上記写真の説明書きにはペルシャ起源と書かれていますが

 「どっちやね~ん」 と つっこみはしませんでした




◎ウードについて


 ウード(エジプト)
 洋ナシを半分に切ったような形をしているのが特徴
 ヨーロッパで用いられた古楽器リュートも、このウードを起源としている様である。 ウードもリュートもアラビア語の"al‘ud"(アル・ウード)に由来し、『木』を意味する。
ペルシャ語では”Barbat”とWIKIには出ている。上記バルバトもウードのような物と判断してよさそうだ。

 
 この「ウード」。 名前にわざわざ「木」とつけていることから ウードの起源は木じゃ無い物だったのでは・・・。 ウードの祖先がペルシャ時代の弦楽器「バルバト(バルバット)」とするならば、エジプトのネチェルが、羊皮でできていた様に 「木」以外のものだったのでは?
 と推測したりする。またはアラビア固有のミズハール(皮を胴に張ったリュート)と区別した事が推測できる。

 琵琶はインド起源という説もあるようですが。 ただここまで歴史を見てきた中ではペルシャもインドもゾロアスター教の流れからも起源は似たようなもんと考えてよさそうである。もちろん時代考察は必要ですが・・・。



◎琵琶について

http://d0v0b.info/album/kich2194.html 「津軽三味線について  田辺尚雄」
http://d0v0b.info/contents.html 『上記URLの ホーム』
  ペルシャの琵琶がインド古来の弦楽器であるヴィナと融合してインド琵琶となったと田辺氏が述べられています。 ヴィナあるいはヴィーナは、南インドに起源を持ち、神話に登場するシヴァ神が作ったとされる。このことからもヴィーナ=シヴァ神のルーツと断定できる。
 ペルシャの琵琶というのは 先に出てきた「バルバット」のことで、梵語では「バルブー」、ギリシアでは「バルビトン」 と呼ばれていた様である。  これら琵琶の起源を 呼び方(発音)から見てみると とっても解りやすい!!

 バルバト(ペルシャ)⇒ヴィナ(古インド)⇒ビバ(中国)⇒琵琶(日本)


補足 チトラヴィーナ ・ ルドラ・ヴィーナ ・ ヴィチトラ・ヴィーナ ・ サラスワティー・ヴィーナ を総称して ヴィーナ(ビーナ)というようです。  チトラヴィーナを世界最古の弦楽器とwebで見かけるが スライド奏法の現在の形になったのは最近の様である。




◎三弦について

 三線 の先祖 三弦について
『中国の三弦は(げんとう)を、始祖とし、その発展の過程で、阮咸(げんかん)、琵琶、特に火不思(くーぶーず)、ダムニアンから影響を受け、棹の構造を改良して、弦を押す 指板に改善した。また、唐代の驃国等の楽器から、両面に蛇皮を張った胴の構造を受け入れた。魏晋、隋唐の三本弦の楽器から示唆を受け、楽器発展の法則に順応し、加えて唐宋時代には、道教思想が人々の心に深く浸透した。こうして、基本的な三弦の形態的特徴が確立された。』(*54  p.42 11行目 ― 16行目) 上記著書にて、王燿華氏は仮説を立てている。
 
筆者が三弦の
始祖を弦?(げんとう)としている。理由として弦の数・構造・材質(蛇皮)があり、それらの類似性から上記のように弦?(げんとう)起源説を立てているわけです。それほどに論拠されている。のですが、
 わたくしのような専門家でない者からすると 大まかに胴があって 棹があって 弦があって といった構造から 始祖を探っていけばいいのではと考えてしまう。
 牛龍菲氏が『古楽発隠』の中で述べられる様に三弦はペルシャ長頸琵琶「パンドゥーラ」の意訳で、バビロン(紀元前1千年前後)の時代に、ギリシャ人が呼んでいた 胴が小さくて、羊の皮が張ってある。長頸の一端がその中に挿入されている。もの といった説の方がすっとくる。


参考文献
*54 「中国の三弦とその音楽」著者:王燿華 ㈱第一書房 1998年

◎パンドゥーラについて (補足)

パンドゥーラ(Pandoura) バンドゥーラ(Bandura) 
http://www.piano8.com/ongakukan/gakki/pandoura.htm (ミナさんのパンドゥーラ)
『パンドゥーラの幻』も楽しかったです。今の自分があることに感謝するとともに世界の人が国境や民族など関係無く心を一つにできたらいいなあと思います。末尾 浜松楽器博物館の 写真のように。
http://www.piano8.com/ (かねしまピアノ) ホームにあたるのは←ここ?

1502年にイギリスで考案された金属弦の低音用弦楽器としての 上記URLのパンドゥーラと『SKY GUITARS』下記URLの古代ギリシャの撥弦楽器パンドゥーラ(Pandoura)またはパンドゥロス(Pandouros)が上記 パンドゥーラと同一のものかは解りません。

 が、上記 ミナさんのようにペースの弦12本・中高音に42本の弦ですので ハープの先祖といえそうです。同じく『SKY GUITARS』氏も、発音からタンバリンと関連付けてはいますが撥弦楽器と記しており竪琴(撥弦楽器)のようですので、同じ物といえますが、『古楽発隠』にある長頸琵琶も名前が一緒ですので おおよその形態としては3者とも同じと考えたいと思います。。





◎三線の起源について まとめ

 「中国の三弦とその音楽」著書中 田辺尚雄氏は エジプトの楽器「ネフェル(Nefre)」あるいは「ノフル(Nofre)」と掲載されているが『ネチェク』(三本の弦であったらしい)と同じものではないだろうか? ネフェルというと”美しい”の意になる。
 
 http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/7500/sky6.html 3単弦ギター、3複弦ギター 参照
 http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/7500/ 『SKY GUITARS』(ホームページ)
上記サイトでは『ネチェク』とともに『ゲンゲンテ』ともかかれている。


 バルバトが最古のものなのか?
 ヴィーナが最古か?
 パンドゥーラが!
 ネチェクが最古か?!

 三弦の起源を古代エジプトの羊皮の胴の『ネフェル』を起源とし、ペルシャの『セタール』からといった説があるが。
 語源は 『セタール』の”セ”・・・「三」・”タール”・・・「弦」である。
補足ではありますが 『ギター』の語源はWIKIや上記URLでも詳細に記述されています。「キタラ(Cythara)」」として「旧約聖書」「創世記」にあるように、「キタラー」を語源としてることが多いようですが、それ以前にも四弦楽器が存在していた可能性も高く
 ペルシア語で同様の構造のもをカルタール(Chartar)・・・「4弦」、セタール(Setar)・・・「3弦」、ドタール(Dotar)・・・「2弦」、エクタール(Ectar)・・・「1弦」を意味する様にペルシャ以前にすでに多様な楽器が存在しており
 アラビア語で”ギ”・・・「四」・”ター(ル)”・・・「弦」という語源説を支持したい。 アラビアでの起源かは解りませんが。

 また先に記した南インド発祥のヴィナ(ビーナ)に対し北インド発祥とされる『シタール』という楽器がある。リュート、ウード、ギターなどの撥弦楽器とは異なるタイプということだが、語源はペルシャのセタールからきているという。
 

 何で三弦にこだわって起源を調べていたか それは民族によって好む数字嫌う数字があるからです。ということで、

三本の弦に注目したときの起源 
 ネチェク(エジプト)⇒
セタール(三 弦)(ペルシャ)⇒
⇒シタール(インド)
(ペルシャのセタールからきているが伝統的なものは19弦)
⇒三弦(中国)⇒
⇒三線(日本)


      エジプト ネチェクに 三本弦の起源がある

Ⅲ・ ニシキヘビの皮 の楽器
 蛇皮(へびの皮)についてですが、 上記*54引用文「中国の三弦とその音楽」著者:王燿華 ㈱第一書房 1998年 p.42の驃国が蛇皮の楽器を扱っていた記述がありますが
それでは 驃国の他にへびの皮を使っていった民族は無かったのだろうか?
下記にまとめてみたい。
中国
三弦 (サンシェン)

 中国南部の弦楽器 
 説明は上記にあるように。
ニ胡 ◎中国
 
 二弦
火不思(くーぶーず) 唐代新疆
 ◎ 9世紀初期以前に書かれた4弦の絵を最古と考えられている。
 ◎古代中国北方草原の多くの遊牧民族が使った。
(火不思写真 中国音楽研究所)
ラワープ ◎新疆ウイグル
三味線のルーツ。
棹の付け根にある翼状の突起は古代ペルシア楽器を踏襲した装飾。 
扎年(ダムニアン) ◎チベット
三弦 火不思に似る。
蛇・羊皮 7世紀以前
中国南部国境付近の いわゆる少数民族の楽器
ドム(Dom) (中国では小三弦)
 ◎アカ族 (中国ではハニ族)

糾魯布(チュルプ)
 ◎タイ族・ハニ族・イ族・ラフ族
 三弦
(Muding)(ムヂン) ◎雲南省
 ◎タイ族 三弦
http://www4.kcn.ne.jp/~ortiz/instruments.html 『楽器紹介』 ドム写真をお借りしました。
http://www4.kcn.ne.jp/~ortiz/index.html 『SAKAMOTO古楽コンソート』(ホームページ)

 上記 HPにあるように ドムというのは アカ族の呼び方で、中国の雲南省・国境を接するベトナム、ラオス、タイ、ミャンマー等多くの少数民族の方々が使っているものです。
モンゴル
ジョダルガ ◎モンゴル
古くから伝統的に女性が用いている。不思議な形の撥を使うらしい。
ホーチル ◎モンゴル
別名 ドルボン、オタスタイ、ホール
 ニ弦・四弦
シャンズ 三線 ◎モンゴル
中国の元明時代に伝わったとといわれている。
モンゴルの音楽についてのホームページ
http://www.culta.com/mongol/index.html
 『モンゴル音楽』(ホームページ)
http://www.culta.com/mongol/mongol/muinfo/muinfo.html 「モンゴル民族音楽ミニ辞典」

これらモンゴルの楽器の歴史がわからないのですが 形や呼び方からも中国の楽器からの影響をかなり受けている事がわかる。
アフリカ
リラ ◎アフリカ
古代ギリシアの竪琴(撥弦楽器)を意味するものであったが、形態の近い楽器もリラと呼ばれる。
太鼓の蛇皮
ダップ ◎中央アジアから北アフリカ
タンバリンの起源

 唐の書物『新唐書』の中に驃国(現ミャンマー北部)と四川が深い交流のあったこと、成都にニシキヘビの皮の張ってある物を、献上していたり、四川に三弦の蛇皮を張る技術があった事が記述されている。
驃国というのは、現在のミャンマーにあたる。南のモン族に対し北のビュー(pyu)族が7世紀に驃国を建国しているピュー族は当時中国の奥地から徐々に南下していたチベット・ビルマ族の先駆で、仏教経典のパーリ語訳やインドのグプタ美術の影響による彫刻や青銅像がある。

 http://www011.upp.so-net.ne.jp/florian/216bm1.htmlビュー族について
 http://www011.upp.so-net.ne.jp/florian/index.html(『フロリアンチッチ』ホーム)
 
 ニシキヘビの分布状況を見ると アフリカ大陸、ユーラシア大陸南部、インドネシア、フィリピン に集中しているようです。オーストラリア大陸にもオセアニアニシキヘビというのがいるみたいですが 蛇皮の楽器が見当たりませんでしたのでカット。
 以外と広範囲にいるものなんですね~~。 
それと、 蛇の皮で作られた楽器を見てみると 中国・モンゴル・中国南部のいわいる少数民族と言われる方々、ビルマ・タイのあたりということが言えると思います。
 アミメニシキヘビ・インドニシキヘビのような メジャーなニシキヘビがいるにもかかわらずインドを含めた周辺に 蛇皮(へびかわ)の楽器が見られない・・・。インド以西になると 牛革・羊皮になる様です。
 蛇皮の起源となりますと これはもう驃国のピュー族・中国南部、ビルマやタイあたりの民族とさせて頂きたいと思います。 そして中国において、そういった楽器が花開いたという事がわかりました。
 モンゴルにも蛇皮の楽器が多く存在しますが チベット・ウイグルに伝わったのと同じように、蛇皮の音色が素晴らしかったという事ではないでしょうか。現在の日本・中国のニ胡においても蛇皮のものが音色・デザイン的にも好まれる様です。
 また 『新唐書』によると驃国の貢物の中には蛇皮だけで無く蛇の模様や、形も彫られていた様で、ニシキヘビの分布状況からみた蛇皮の使用され方から見ても蛇を崇拝していたことが推測できます。


何で日本本土に蛇皮が入ってこないのか?

 ニ胡などは、蛇皮が最良の音を奏でるため 高級品である。 蛇皮の入りにくいモンゴルでも蛇皮の楽器がある。
 案外 蛇皮の三線は、琉球どまりで、本土の三味線は別ルートで、入ってきたのではないだろうか?

「16世紀末、琉球貿易により堺に中国の三弦がもたらされ、短期間の内に三味線へと改良された。豊臣秀吉が淀殿のために作らせた三味線淀」が現存するが、華奢なものの、すでに基本的に現在の三味線とほとんど変わらない形状をしている。 」三味線WIKI
 あっけなく 別ルート仮説は否定されてしまった様です。
「糸竹初心集」(1664年中村宗三)・「御湯殿上日記」の天正8年(1580年)に記される三味線は、蛇皮線の可能性が高いですが
 ここに紹介される日本最古といわれる三味線『淀』の材質が何であったのか?解らない。 ””三味線 淀””で検索すれば皆WIKIのコピペなのか どのページが出何処なのか解らないくらい・・・同じ文。 現在の三味線と変わらない形状という事から犬・猫の皮だったと思う。
 
 豊臣秀吉だったら 蛇の皮くらい輸入できたと思うのですが最良の音を奏で高級品だった蛇の皮をあえて日本本土に入ってくる際に変えてしまうなんて・・・。
 淀君が蛇嫌いであったのであればそれまでですが。
 
 先に見てきた 奈良時代以降 古墳の埋葬の仕方や壁画の玄武に傷をつけたりと、蛇に関係するものが姿を消してきている様に この楽器(蛇皮線)においても同様の民族的なものがあったのではないだろうか。



Ⅳ・ニシキヘビの皮の起源 まとめ


以下に日本の代表的な弦楽器 琵琶と三味線・三線(蛇皮線)がどの様に伝播してきたか あらためて図にまとめてみました、図1の方は 主に三味線・琵琶の流れを図2の方は、蛇皮の楽器の流れと、ニシキヘビの分布をあわせて書いてみました。



 まず図1やギター、他の楽器などから考えられる事は歴史のかなり古い時代、ペルシャ時代以前古エジプト時代1500年前あるいはそれ以前にも多様な弦楽器があり、当時から今のような形態の楽器がある程度確立されていたのではということ。琵琶には琵琶の・三弦には三弦のといったようにです。
 起源は確定できませんがおおよそエジプト・ペルシャあたりという事がいえます。
 文化の
東漸(とうぜん)といいますが西から東に文化・民族・宗教の流れがあるようにこの弦楽器に関しても同じような事がいえると思います。







 図2に示す様に蛇皮の楽器が必ずニシキヘビの分布と重なるといったものではないようです。
 ◎火不思(くーぶーず)・・・ 新疆 9世紀以前に書かれた4弦の絵を最古と考えられていますが蛇皮だったか解りません。羊の皮等のものが近年ニシキヘビになった様です。
 ◎扎年(ダムニアン)・・・ ペルシャのセタールの影響を受けたといわれ7世紀以前のものがチベット、ラサ王宮博物館に残っているようです。
 ◎驃国の蛇皮を使っていた楽器・・・ 最も古く、他の楽器もニシキヘビの文様や、形を彫っていた。(自分の大事にしていた馬を楽器(馬頭琴)にした”スーホーの白い馬”という話があるほどですから、よっぽど蛇好きですよね)
 ◎ジョガルタ・シャンズ・・・ モンゴルの蛇皮楽器についてモンゴルでも蛇皮を手に入れることは容易ではなかったはずで、下記宗教性や民族性も蛇皮を、楽器に取り入れていた理由になるのではないでしょうか。 
1200年以降、モンゴルは中央アジア・イランにまで帝国を拡大し、イスラムの影響を受けているが、古代のモンゴル人においては、石を特別視したり、拝天・拝火・自然崇拝をしていた様である。
http://www.shd.chiba-u.ac.jp/kiyou/kiyou0603_07.pdf#search='モンゴル 宗教'
今日のモンゴルの宗教は1992年の新憲法により宗教の自由が認められ現在の日本のようにイスラム教・キリスト教など対立無く共存している。そしてチベット仏教の影響から仏教徒が大多数を占め、古来からのシャーマニズムも存在している。


 ◎ニシキヘビが中国南部より北にはいない事。
 ◎ニシキヘビのいるペルシャ・インドから蛇皮の楽器がみられない事から。

 蛇の皮を使った楽器(蛇皮線・三線)の起源 まとめ
 ◎アカ族・タイ族・驃国周辺の民族が蛇皮の弦楽器の起源であり、蛇に特別な思いを持っていた民族である。
 ◎音質が良いというだけでなく、チベット仏教あるいはそれ以前の自然崇拝(へび好き)の思想から火不思・扎年・ジョガルタ・シャンズの蛇皮に影響を与えたのではないでしょうか?
 



② ガムラン
青銅・鉄でできた打楽器。他に太鼓・弦楽器管楽器を合わせた演奏形態で演奏される。

「たたく」という意 ジャワ語「ガムル」パングル(Panggul)というバチでたたく

 山縣真美さんの論文 
 『バリ島のガムラン音楽~ガムランを知るために~』より 引用

 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/9459/Yamagata1.htm
 「ガムランをはじめ、東南アジアの旋律打楽器のルーツがドンソン文化にあると言われている。ドンソン文化とは、ベトナムの北部を源として紀元前10世紀半ば~紀元後1・2世紀にかけてインドネシアに広く伝播した稲作農耕文化」

 ドンソン文化の銅鼓の起源は紀元前5世紀頃、中国の雲南で創出されたといわれています。
 先に見てきたアカ族のドムや、その周辺諸民族の蛇皮を使用している事・驃国の楽器から、ドムソン文化の民族は蛇を崇拝していたのか?調べる余地がありますが。

 中国雲南あたりは、蛇と音楽をを愛す稲作民族だったのでしょう。



③ ジュゴッグ
ジュゴッグ

 『バリ島西部、ヌガラ地方サンカルアグン村周辺に伝承する、世界最大の竹琴。竹筒は8本、2人で演奏する。
 またそれを中心楽器とするサイズの異なるジュゴックとの合奏形態もジュゴックと呼ぶ。
 彫刻には、聖獣バロン、ヒンデューのヴィシュヌの守護神ガルーダ、力の神ナーガ(=龍)、ブワヤ(=鰐)など。』 註釈より

 ジュゴッグの起源を調べようとしたのですが ネットで解らないので、また書籍等で、調べて見たいと思います。

「へび」 調査隊が行く ◎浜松市楽器博物館 二回目 (20.8/14) 参照



④ セルパン
蛇のように形が曲げられて作られている管楽器 フランス語で、serpent(蛇の意)

16世紀末頃、 単旋律聖歌(グレゴリオ聖歌)の音量補強のために開発された。
18世紀中頃、 軍楽隊で使われ始めた。

日本を代表するセルパン奏者 橋本晋哉氏 の運営するサイト
http://www.shinyahashimoto.net/tuba/serpent_top.shtml 『S.H.web』 セルパンの歴史参照
 
 グレゴリオ聖歌というのは 西方教会の単旋律聖歌(プレインチャント)の基軸をなす聖歌で、ローマ・カトリック教会で用いられる、単旋律、無伴奏の宗教音楽である。 
 二、 古代ローマ人の生活で見てきた様に 原始キリスト教は創造の神サバジオスからご神託をうけていました。 サバジオスはバッコスやユピテルと同一視されるとともに(ギリシャ人はゼウスとも重ねました。)そして シンボルが蛇である事は見てきたとおりです。
 キリスト教はローマ帝国でひろまり、 そのローマの人々も蛇を神棚に祭ったり、装身具に使っていた事からも、それから後の 1054年に教会が東西に分裂した 西方教会 現ローマ・カトリック教会でも同じように 蛇を崇拝という言葉が正しいか解りませんが 蛇を神聖視していた事がいえるのではないでしょうか。
 よってこのセルパンは へびの形だから セルパンというわけで無く、
へびの形の楽器を あえて作ったという事がいえると思います。





⑤ ラッシャン・バスーン
ラッシャン・バスーン

 『フランス人音楽家J・Regibo(レジボ)が、セルパンの改良楽器として1789年に考案。持ちやすくするためにファゴットの形状と構造を採用した。彩色した竜頭のベルを持つことが特徴。
 ロシアやプロシアの軍楽隊で19cに普及』 注釈より

 そのまんま  蛇です・・・・  。  
 ローマなどで見られる「ノギ」(頭部のツノみたいな毛みたいなもの)がついています。 註釈では竜頭とありますがセルパンの改良形ということから 蛇頭としたほうが良いでしょう。

「へび」 調査隊が行く ◎浜松市楽器博物館 二回目 (20.8/11) 参照




⑥ オフィクレイド
オフィクレイド

 『大型低音のキュー・ビューグル。U字型の形状が特徴。1817年パリの楽器製作家Halary(アラリ)が考案した。
 イタリア、フランスなどの軍楽隊で普及。テューバが現れるまではオーケストラでも使用され、メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」序曲の用例が有名。
 名称はギリシア語のophis(オフィス) (蛇) と kleides(クレイデス) (鍵)からの造語』 注釈より

 右が本種・左が「バス・オフィクレイド」 

「へび」 調査隊が行く ◎浜松市楽器博物館 二回目 (20.8/11) 参照




⑦ オリファント
オリファント

 ホルンの仲間で、全長60cmほど。ヨーロッパに広くひろまり、この象牙に蛇などを施したオリファントは特に中世の貴族が狩りをするときに用いたそうです。(電話にて確認) 全体がか竜のように先が頭になり胴体部分にも、や、角のある牛?や人物が彫られている。(ギリシャ神話かは不明)

「へび」 調査隊が行く ◎浜松市楽器博物館 二回目 (20.8/11) 参照


  ラッシャン・バスーン オフィクレイドは註釈の通りでオフィクレイドにとって変わる事になったチューバ(tuba)は、ローマ時代から管楽器の名称として用いられており「管」を意味する言葉「チューブ」と同じ語源ということです。
 オリファントはエレファント(象)が語源で 象牙に彫刻を施した角笛ということです。ホルンは 英語・ドイツ語ではhom・フランス語ではcor・イタリア語ではcornoと言い、「コール」・「コルノ」は、『角』を指す言葉の様です。ホルンの起源はオリファントにあるようですが、中世と言っても初期は6世紀頃~後期16世紀と長いです。

 いづれに致しましても 今まで見てきた へびがヨーロッパで広く支持されてきた時代と重なり、 楽器からも ヨーロッパにおいてヘビが 崇拝されていた事を改めて確認できたと思います。




⑧ 木製楽器(太鼓)の装飾
太鼓  コートジボアール


(左記拡大写真左90度回転)
「へび はっけ~~ん!!」
太鼓  アフリカ


(左記拡大写真左90度回転)
「へび はっけ~~ん!!」
ガラムート  パプアニューギニア

この模様は 縄文式土器に似ている。
横吹きトランペット  パプアニューギニア
わたくし達が普段目にするトランペットとはちょっと違うようですが・・・。

同じく 縄文土器などに見られる模様ですね。

 コートジボアールはアフリカ大陸の西側、ガーナの西隣りです。太鼓2点とも「ヘびだけで無くワニやトカゲのような動物・人物などが彫られており 日常の生活あるいは、自然崇拝・自然に感謝する気持ちを表した物のように感じます。
 ガラムートは割れ目太鼓といった形式になるのでしょうか。大木を空洞に彫りぬいており中央の割れ目の突起を木バチ打ちます。
 聖なる物として成人儀礼時に使用されるようで、やさしい音色を奏でてくれます。

 「へび」調査隊が行く でも記しましたが、ガラムート・横吹きトランペットの模様が縄文土器に見られるような模様に見えます。 東南アジアの楽器や、昔からの模様をもっと数多く調べる必要があるとおもいますが、稲のジャポニカ米が、現在インドネシアから伝わったと遺伝子レベルで解明されてきている点からも。
 縄文人が東南アジアから渡ってきた可能性として この「へび紋」からも確認する事ができるのではと推測致します。





七、蛇を含む地名
参考文献
 ◎「十二支の話題辞典」  著者 加藤迪男     東京堂出版
 ◎「雨の神 信仰と伝説」 高谷重夫 著   岩崎美術社
 ◎『国土地理院』 
  http://www.gsi.go.jp/WNEW/PRESS-RELEASE/2001-0129-2c.html
  http://www.gsi.go.jp/WNEW/LATEST/special00-01-Mi-hebi.htm
① 地名
yahoo地図 所在 メモ リンク
蛇ノ鼻岬 北海道上磯郡知内町
大蛇(おおじゃ) 青森県三戸郡階上町 駅、漁港、小学校
蛇浦 青森県下北郡風間浦村 簡易郵便局、小学校
蛇ヶ崎 岩手県陸前高田市
蛇口 岩手県九戸郡軽米町 近くに川
蛇田 宮城県石巻市 支所、小・中学校、駅
蛇島崎 宮城県宮城郡松島町
蛇穴(さらぎ) 宮城県宮城郡松島町北小泉
大蛇鼻 秋田県北秋田市
蛇の崎橋 秋田県横手市
千蛇谷 山形県飽海郡遊佐町
蛇岩 福島県南会津郡南郷村
蛇沢大橋 福島県田村郡三春町
蛇ノ鼻遊楽園 福島県安達郡本宮町 公園
蛇塚 茨城県日立市  
蛇食 茨城県牛久市 バス停、交差点
蛇尾橋 栃木県大田原市 橋、トンネル、ダム
蛇尾川ダム 栃木県那須塩原市 橋、トンネル、ダム
南蛇井 群馬県富岡市
南蛇井下仁田線 群馬県甘楽郡下仁田町 道の駅
佐倉大蛇郵便局 千葉県佐倉市 郵便局
蛇園トンネル 千葉県旭市 橋、トンネル、ダム
蛇崩下橋 東京都目黒区 橋、トンネル、ダム
蛇崩 東京都目黒区 バス停、交差点
蛇崩川緑道 東京都世田谷区 公園
へび坂 東京都世田谷区成城三丁目緑地内 「へび調査隊記」
(08,12/1)
蛇骨野 神奈川県足柄下郡箱根町 バス停、交差点
蛇塚 神奈川県秦野市 バス停、交差点
蛇越 富山県富山市
弥蛇ケ原ホテル 富山県中新川郡立山町
大蛇礁 石川県輪島市
蛇谷 石川県白山市
重蛇島 石川県七尾市
七蛇鼻 福井県小浜市
蛇堀 長野県小諸市
蛇持 岐阜県養老郡養老町
蛇谷 岐阜県揖斐郡揖斐川町
蛇渕橋 岐阜県飛騨市
蛇枝 岐阜県大野郡白川村
蛇出谷 岐阜県高山市
蛇ヶ谷 岐阜県加茂郡七宗町
蛇ダシ谷 岐阜県下呂市
蛇ケ橋 静岡県田方郡函南町
蛇石 静岡県賀茂郡南伊豆町
蛇島 静岡県賀茂郡西伊豆町
蛇石峠 静岡県賀茂郡松崎町
蛇松緑道 静岡県沼津市 公園
蛇塚 静岡県静岡市清水区 「へび調査隊記」
(21.5/24)
石浜蛇子連 愛知県知多郡東浦町
蛇ケ洞橋 愛知県瀬戸市
蛇抜橋 愛知県高浜市
蛇島 三重県度会郡大紀町
蛇谷 滋賀県高島市
蛇溝 滋賀県東近江市
蛇谷 兵庫県芦屋市
蛇ヶ原谷 京都府北桑田郡美山町  
蛇ケ端ポンプ場 京都府福知山市 その他の官公署、公共施設
蛇島 京都府舞鶴市  
蹉蛇図書館 大阪府枚方市 その他の官公署、公共施設
蛇草 大阪府東大阪市 各種学校
羅蛇 大阪府大阪市中央区 飲食店
蛇喰 奈良県生駒市 バス停、交差点
蛇穴(さらぎ) 奈良県御所市 バス停、交差点
大蛇ぐら 奈良県吉野郡上北山村  
蛇が谷 奈良県吉野郡黒滝村
蛇ノ鼻 和歌山県日高郡日高町
大蛇島 和歌山県西牟婁郡白浜町
蛇塚 和歌山県御坊市
蛇岩 和歌山県海草郡美里町
蛇谷 鳥取県日野郡江府町
蛇島 島根県大田市
蛇ノ目乢 岡山県苫田郡鏡野町
蛇ヶ乢 岡山県真庭市
蛇喰磐 広島県大竹市
蛇岩 広島県広島市安芸区
蛇島 山口県周南市
蟠蛇森 高知県高岡郡佐川町
蛇崎 長崎県南松浦郡新上五島町
蛇島 長崎県佐世保市
蛇島 長崎県壱岐市
乙女蛇運動公園 熊本県本渡市
蛇ヶ谷公園 熊本県玉名市
班蛇口大橋 熊本県菊池市
蛇ノ尾 熊本県阿蘇市
蛇生溪谷 大分県大分市
小臥蛇島 鹿児島県鹿児島郡十島村
臥蛇島 鹿児島県鹿児島郡十島村
蛇ノ河内 宮崎県宮崎市
② 山・谷
yahoo地図 所在 メモ リンク
女蛇山 青森県青森市
蛇石山 岩手県九戸郡大野村
蛇山 岩手県気仙郡住田町 近くに牧場
蛇台蕃山 宮城県仙台市青葉区
蛇ヶ岳 宮城県黒川郡大和町
蛇田山(へびたやま) 宮城県栗原市金成町
蛇崩山(じゃくずれやま) 福島県喜多方市
辰巳山(たつみやま) 福島県南会津郡南郷村
寅巳山(とらみやま) 栃木県宇都宮市
蛇ヶ岳(じゃがたけ) 群馬県北群馬郡伊香保町
蛇脱山(じゃぬけやま) 新潟県東蒲原郡阿賀町
蛇崩丘 新潟県三島郡出雲崎町
蛇崩山(じゃくずれやま) 新潟県岩船郡関川村
三蛇山(さんじゃやま) 石川県輪島市
蛇骨岳(じゃこつだけ) 長野県小諸市
蛇峠山(じゃとうげやま) 長野県下伊那郡阿南町
五蛇池山(ごじゃいけやま) 岐阜県揖斐郡揖斐川町
新蛇抜山(しんじゃぬけやま) 静岡県静岡市葵区
大蛇峰(だいじゃみね) 三重県熊野市
蛇谷ヶ峰(じゃたにがみね) 滋賀県高島市
蛇崩山(だくえざん) 奈良県吉野郡十津川村
蛇山(へびやま) 島根県松江市
蛇円山(じゃえんざん) 広島県福山市
蛇峯山(だぼうざん) 広島県江田島市
蟠蛇森(ばんだがもり) 高知県須崎市
蛇焼山 長崎県平戸市
蛇ノ尾(じゃのお) 熊本県阿蘇郡阿蘇町
③ 川・池・沼
yahoo地図 所在 メモ リンク
蛇ノ目沢川 北海道留萌郡小平町
大蛇の沢川 北海道夕張市
蛇内川 北海道上磯郡木古内町
蛇口川 岩手県九戸郡軽米町 地名
蛇王川 宮城県本吉郡南三陸町
蛇川 秋田県由利本荘市
蛇石川 福島県郡山市
蛇尾川 栃木県那須塩原市
大蛇尾川 栃木県那須塩原市
小蛇尾川 栃木県那須塩原市
蛇尾川 栃木県大田原市
蛇川 群馬県太田市 「へび調査隊記」
(20.7.30・31)
小蛇川 群馬県多野郡神流町
蛇川 群馬県伊勢崎市
蛇骨川 神奈川県足柄下郡箱根町
八蛇川 長野県上水内郡飯綱町
蛇堀川 長野県小諸市
所蛇川 長野県下伊那郡天龍村
蛇喰川 静岡県伊豆市
蛇ヶ洞川 愛知県瀬戸市
蛇谷川 三重県亀山市
蛇砂川 滋賀県東近江市
加勢蛇川 鳥取県東伯郡琴浦町
蛇の川 鳥取県西伯郡大山町
蛇の谷川 島根県浜田市
蛇喰川 島根県安来市
蛇道川 広島県東広島市
蛇谷川 高知県安芸郡北川村
蛇籠川 宮崎県西都市
蛇谷川 宮崎県延岡市
白蛇ノ滝 北海道上川郡上川町
蛇滝 福島県南会津郡檜枝岐村
蛇王ノ滝 栃木県塩谷郡栗山村 「へび調査隊記」
(2010.08.18)
蛇滝 東京都八王子市
三蛇ヶ滝 石川県金沢市
蛇谷滝 福井県吉田郡永平寺町
蛇淵の滝 長野県下水内郡栄村
蛇谷の滝 岡山県苫田郡鏡野町
蛇渕の滝 岡山県勝田郡奈義町
蛇淵滝 福岡県京都郡犀川町
蛇生瀬滝 大分県竹田市
蛇之口滝 鹿児島県熊毛郡屋久町
毒蛇沢 青森県中津軽郡岩木町
蛇ノ沢 岩手県八幡平市
蛇滝沢 岩手県遠野市
蛇沢 岩手県一関市
蛇沢 宮城県加美郡加美町
蛇沢 秋田県大館市
蛇ノ木沢 秋田県仙北市
蛇沢 福島県南会津郡下郷町
大蛇倉沢 群馬県多野郡上野村
蛇野沢 群馬県吾妻郡中之条町
蛇崩沢 新潟県南魚沼市
蛇子沢 新潟県魚沼市
白蛇沢 山梨県東山梨郡大和村
蛇沢 山梨県西八代郡市川三郷町
蛇洞沢 長野県飯田市
蛇拔沢 静岡県静岡市葵区
蛇沢 静岡県静岡市葵区
新蛇拔沢 静岡県静岡市葵区
雄蛇ヶ池 千葉県東金市
蛇ヶ池 福井県丹生郡越前町
蛇池 岐阜県海津市
蛇池 愛知県名古屋市西区
蛇喰池 三重県伊賀市
蛇ガ谷池 三重県安芸郡安濃町
大蛇ヶ池 京都府京都市西京区
蛇池 兵庫県神戸市北区
蛇ケ池 和歌山県和歌山市
深蛇池 和歌山県和歌山市
蛇池 島根県出雲市
蛇瀬池 山口県宇部市
妙蛇池 徳島県板野郡北島町
乙女蛇池 熊本県本渡市
蛇堀池 大分県宇佐市
蛇沢沼 秋田県鹿角市
蛇沼 茨城県龍ヶ崎市
大蛇の淵 滋賀県犬上郡多賀町
温泉
元蛇ノ湯 宮城県玉造郡鳴子町
蛇骨湯

東京都台東区浅草1-11-11
03-3841-8645

へび調査隊記
(09、8/26)
④ 洞窟
yahoo地図 所在 メモ リンク
蛇穴(石巻山) 愛知県豊橋市 神の使いの大蛇伝説 石巻山蛇穴 
蛇穴(嵩山) 愛知県豊橋市 縄文人の居住跡・大蛇伝説 「へび調査隊」
(20.6/9)
鍾乳洞>蛇穴(野尻) 岐阜県郡山市 村に恵みをもたらす大蛇伝説 鍾乳洞蛇穴
蛇穴神社 兵庫県姫路市 蛇穴の森に住む大蛇伝説 蛇穴神社
蛇穴山古墳 群馬県前橋市 「日本書紀」上毛野田道の墓伝説 蛇穴山古墳
蛇穴鍾乳洞 福島県原町市 男のロマン 探検 蛇穴鍾乳洞
八溝山(やみぞさん)蛇穴 茨城県・福島県 悪鬼と大蛇を倒す伝説
(久慈郡大子町蛇穴(じゃけち)
八溝山蛇穴
蛇穴谷戸(じゃけつやと) 神奈川県座間市 谷戸山公園 マムシが良く出たから
蛇穴 長野県南佐久郡
ことわざの蛇穴
 「蛇穴に入る」 蛇が寒くなって穴に入り冬眠することをいう。




愛知県 石巻山「蛇穴」  
写真は「夫婦で登る百名山」(関連サイト)

 蛇穴と付く場所は、鍾乳洞や、石灰岩が水の流れで侵食された穴についており、ネットに掲載されるような場所にはおおむね大蛇の伝説が残っている。水の流れからへびを関連付けているようでもあるが、案外へびを崇拝している縄文人などが住んでいたため蛇穴と呼ばれていたのではと、憶測を呼ぶ。

 結構あるのではないかと思いましたが以外と少なかった様に思います。知名に関しては、現在 「
(あざ)」「大字(おおあざ)」といった使われ方は省略されるため字に蛇穴とつく地名を調べたらもっとあるかもしれません。
 鍾乳洞に蛇穴とつく場所も2・3ヶ所と、少数です。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~kkoyama/cave_list.html (全国の洞窟リスト)

 わたくしの住む近くにある上記愛知県豊橋市 嵩山蛇穴・石巻山蛇穴の一帯は湖西連峰と呼ばれ、両親も年に数回は登る山ですが へびが多い山ということです。




④ 神社・仏閣・歴史施設 など
蛇王神社 秋田県横手市 神社、寺院
蛇骨地蔵 福島県郡山市
白蛇神社 長野県上田市
横川の蛇石 長野県上伊那郡辰野町
蛇池神社 愛知県名古屋市西区
蛇塚古墳 京都府京都市右京区
蛇穴神社 兵庫県神崎郡香寺町
唐音の蛇岩 島根県益田市
白蛇資料館 山口県岩国市
石阿弥蛇五日市線 宮崎県小林市 道の駅





八、へびの石・化石
 ”へび”と名前に付いている石と言えば蛇紋岩でありますが、古来から”ウニの化石””サンゴ”などかわった形の石を”へび”に由来を絡ませて不思議がっていたことが伺えます。
 そういったものを調べることによって気づかされるものがありました。

 へび(爬虫類)の化石は次の第八章 へびの生態へ。
① 蛇紋岩
蛇紋岩(英:serpentinite) 英語でも「セルパンティン」といわれるようにセルパンとはもちろん楽器でもみてきた”へび”なのである。
  第十二章 一、輪の思想においてヒスイの項目に蛇紋岩について少し触れていますが翡翠が産出されるところは全て造山帯であり、翡翠は主に蛇紋岩中に存在する。 古代の思想「死と再生」と”へび”と密接に関わっていたものと考えている。

蛇紋岩
成因:カンラン石、輝石を含む岩石が変質したもの。
特徴:暗緑色~黄緑色で、つるつるとした脂肪光沢がある。蛇の皮のような模様や光沢があるので、この名がついた。 装飾用建築材料、肥料の原料になります。
産地:愛知県設楽郡鳳来町黄柳野
『へび調査隊記 
 豊橋市地下資源館 (21.7.17) 』
より



『へび調査隊記』 奇石博物館(2010.08.26)より
ジャモン岩 カンラン石をふくむ岩石が変質してできた岩石で、ほとんど、ジャモン石からできている。黄色がかった緑色で、すべすべした感じがする岩石で、いままで出てきた深成岩と違い、ナイフで傷がつく。
 ジャモン岩は、マグネシウムをたくさんふくむため、田畑の土でマグネシウムの不足している所に使われる、肥料の原料にされる。
(*111 P63ジャモン岩の項)
宮沢賢治の地学散歩
 童話作家として有名な宮沢賢治は石ッコ賢さんとあだ名されるほどの地学通で、この蛇紋岩も詩「山の農明に関する童話風の構想」に”なめらかでやにっこい緑や茶いろの蛇紋岩”と紹介しています。
この他にも賢治収集の石や縁の品を展示していました。
参考文献*111 「ポケット科学図鑑4 鉱物・岩石」 監修者大塚良平
編集責任者:関根冨士夫 発行所:㈱学習研究社




『へび調査隊記』 浜松科学館 (2010.09.18)より
 自分ちの庭に蛇紋岩らしきものがありまして、よくよく見ると左写真の岩石のように「ヌメッ」というか「テカッ」というような自然の光沢があることに
 最近、気がつきました。
 なるほど模様だけでなく光沢感も似ているんだ。と改めて納得です。



蛇紋岩の思想
蛇紋岩は第12章 ②ウロボロスの項で玉璧、大珠(ヒスイ)と同じ思想の下で環状石製品として数多く遺物が残っている。しかし、素材が手に入り易いことも重なり、世間でもあまり注目されない。
 しかし、蛇紋岩も時には非常に重要な立場を得ることがある。そういったものも紹介していきたい。

◎ 黄金の魚のいる蛇紋石パテナ
『黄金の魚のいる蛇紋石パテナ
パテナとは聖体拝領皿である。この聖体皿のまわりは、宝石やガラスがはめ込まれた金銀細工で豪華に飾られ、緑がかった蛇紋石の底部には、8尾の黄金の魚が象眼されている。サン・ドニ修道院にあったこの典礼用の聖体皿は、長い間修道院長シュジェール(1081~日51年)の聖杯と結びつけられていた。8~9世紀。蛇紋石に金銀細工。直径17センチ。』(*112 P12)
 サンドニ修道院は歴代フランス君主の埋葬地となった教会堂である。しかもバシリカといってローマ教皇から特に重要な教会堂と認められ、特別な地位を与えられた教会堂である。
 このパテナに載せる御聖体とは、

聖体(せいたい)とは、カトリック教会、正教会、東方諸教会などキリスト教諸教派において、ミサや聖体礼儀で食するためにパンを聖別し、キリストの体の実体として信じられ、食べられるもの。カトリックではパンとしてイースト菌(酵母)を使わない一種のウエハースを用いており、これを「ホスチア」(ラテン語で「いけにえの供え物」という意味)と呼ぶ。』
WIKI 『聖体』最終更新 2012年1月26日 (木) 04:42 
 サン・ドニ司教が殉教後、亡くなった場所にサン・ドニ教会が建てられる。その後、フランク王国のダゴベルト1世(628年 - 637年統治が創立するが、それ以前のシルデベル1世(496年 - 558年)から、何世紀にわたってフランス国王とその親族が埋葬されているのである。
 キリスト教では”へび”古代ローマ時代より”へび”を崇拝してきたと以前見てきましたが、御聖体を載せるパテナに蛇紋石を使用しているのも偶然とは思えません。



参考文献 *112「NHKルーブル美術館 Ⅲ 神の王国と人間の都市 中世からルネサンス」
監修:高階秀爾 責任編集:中山公男 佐々木英也
昭和60年9月20日 発行所:日本放送出版協会

② スネーク・アゲート(蛇めのう)
SNAKE AGETE
米国 オレゴン産

表面は蛇皮のような模様のある白皮を被むり、中は研磨すると半透明淡紫色の玉すい(CHALCEDONY)が現われる。中には蛇皮様の紋理がある。表層は或は蛋白石かと思われる。
(690099)
『へび調査隊記』 奇石博物館(2010.08.26)より

③ 石蛇(アンモナイト)
 石蛇と呼ばれるものの正体はアンモナイトの化石。その中でもカタツムリの甲羅のように螺旋状に巻いていないものを石蛇とと呼んでいるようです。
 白亜紀末期には下記写真のようにほどけたように退化型といわれるアンモナイトがいたようです。
石蛇(古) 奇形アンモナイト(現)
Pravitoceras sigmoidale
中生代白亜紀和泉層

この標本はアラビトセラスという白亜紀末期の退化型のアンモナイトである。この標本は赤色部が欠けているが、全体としてS字型をしている。
赤色部は肉体の入っていた住房に当たる部分で、現在の「いか」のような軟体であった。殻の部分は空で海底から水面への浮沈の役割をした。蛇がドクロを巻いた観がするので、中国では石蛇の名で古くより呼ばれた。
 兵庫県三原郡西淡町湊海岸産
『へび調査隊記』 奇石博物館(2010.08.26)より
石蛇(古) (鈎石:Hook stone)
Pravitoceras subquadratum
中生代白亜紀和泉層

鈎石(ハミテス)はPravitoceras subquadratumという白亜紀末期のアンモナイトで、ふつうのアンモナイトのように一平面上にまるく巻かないでほどけたようになってカギ型となる。つまりアンモナイト絶滅の前夜の退化型の一例になるものである。
 北海道中川郡中川町中川村大和産
(710196)
カボチャ石と呼ばれるものも石蛇に属する
『へび調査隊記』 奇石博物館(2010.08.26)より

④ 蛇石
プラグマチック脈のある片岩(schist)

産地:静岡県浜松市浜北区 天竜川河床

変成岩中に貫入した著しく摺曲した岩脈をプラグマチック脈と呼ぶ。
フィンランドのプラグマチック脈がデザインされた切手と共に展示され「図案化された石たち」のコーナーで紹介されており、”蛇石”としての掲載ではありませんでしたが、鑑賞石として”蛇石”がありますので蛇石とさせていただきました。

鑑賞石 蛇石

こちらは横浜調査記(未編集)「へびや黒田救命堂」さんにお伺いした時に展示していたものを許可を頂いて撮影してきました。

岩沼市・金蛇水神社様HPにも「形態石」として写真の掲載があります。
『へび調査隊記』 奇石博物館(2010.08.26)より

⑤ 蛇の卵


蛇の卵 現代の解釈
石になった蛇の卵
1世紀ごろ、ローマの博物学者プリニウスは、著書「博物誌」の中に、「ガリア人(フランスを中心として住んでいたケルト人のこと)は、多くの蛇が絡み合って身体から粘液と泡を出し、この丸い石”蛇の卵(ラテン語でオヴム・アングイヌム)”を作ると知っていること。」「蛇のシュウシュウ鳴く音とともにこの卵は空中に飛び出してくるので、それが地面に落ちる前にマントで受け止めなくてはならないとガリア人の信仰したドルイド教の僧が説いていること。」「この卵を手にした者は一目散に逃げないと、川にぶつかり行く手を遮られるまで、蛇はどこまでも追ってくること。」を伝えています。また、プリニウス自身もその卵を見ており、「大きさは林檎ほどで、殻には蛸の足にあるような軟骨状のイボがある。」と形状を説明している。」
棘皮動物~ウニの仲間~の化石
標本 ウニ(ペミプネウステス)
産地 オランダ
時代 中生代 白亜紀

「石になったヘビの卵」なるものは、実は古くからガリア人の崇拝していた球形をしたウニの殻のことでした。ガリア人の先史時代の墓からは、「蛇の卵」、つまりウニの化石がたくさん発見されており、彼らがこれを「復活と再生」のシンボルと考えていたと思われます。
『へび調査隊記』 奇石博物館(2010.08.26)より

⑥ ゴルゴニア
ゴルゴニア (メデューサの首に触れて石になった海藻)
メデューサとは頭髪の1本1本が生きたでその目に睨まれると石になってしまうというギリシア神話上の女でゴルゴンとはその三姉妹のことです。
「ペルセウスがメデューサの首を打ち取りアンドロメダを救った後に浜辺で休憩し、メデューサの首を浜辺に置いた瞬間に海草が石化してしまう。」これが珊瑚の始まり。」とギリシア神話に書かれている。
石になった海藻は石化した木のようですが現世のサンゴであり、石灰質の硬い石質組織を持っており、大昔の人はこれを不思議に思ったのでしょう。
『へび調査隊記』 奇石博物館(2010.08.26)より



十、”なぎ”の発音から
 ◎サンスクリット語 ”naga”が「コブラ」(へび)を意味する。
  日本で「ナガ」「ナギ」「ナーガ」といった発音を表すものに”長い”意を表すものが多い。
 ◎ 「ナギ」は、へびの古語であり 蝶や昆虫の「サナギ」もナギから来ており、へびを表す物である。と吉野裕子先生も述べられている。


  
① うなぎ  ウナギ
 奈良時代の『万葉集』に「武奈伎(むなぎ)」として見えるのがはじめで、その後11世紀院政時代から「うなぎ」と呼ばれるようになり定着した。

 語源
 ◎家屋の「棟木(むなぎ)」のように丸くて細長いから
 ◎胸が黄色い「胸黄(むなぎ)」から 
 ◎料理の際に胸を開く「むなびらき」から
 ◎「ナギ」は「ナガ(長)」に通じ「ム(身)ナギ(長)」の意である

など、幾つかあるようですが、「ナギ」は蛇類の総称で「ナギ」は「ナガ(長)」に通じることといった語源が定説であるようです。


 参考文献
 *WIKI「うなぎ」 
 *55 「日本語源」  著者:賀茂百樹  出版元:興風館 発行:昭18年




② クサナギ 草薙剣(天叢雲剣)  
 天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ、あめのむらくものつるぎ)とは、三種の神器の一つで、熱田神宮の神体である。草薙剣(くさなぎのつるぎ・くさなぎのけん)・都牟刈の大刀(つむがりのたち)・八重垣剣(やえがきのつるぎ)とも称される。三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされる。

 ヤマタノオロチ伝説では スサノオが酒におぼれたヤマタノオロチを切り刻んだときに剣の刃が欠けたので、尾を切り開いたときに出てきたものが 草薙の剣だったのである。

 オロチ(へび) = 草薙(ナギ) である。




③ サナギ
カブトムシの蛹

 吉野裕子先生は、「蛇」著書中”サナギ””ナギ”についてもへびと述べられている。これについては、インドの神様中国の神様に「ナーガ」というのがあり異論は無いと思います。
またミイラも包帯をぐるぐる巻くことにより サナギや、へびの脱皮のようにして、再生・復活を祈ったとも述べられています。



Ⅰ・ エジプト ミイラに見るサナギ
「ヘビ」調査隊が行く 古代エジプトの美展 (20.7/6) より追記
 吉野裕子先生も”サナギ”も”へび”だなんて 言い過ぎでは~~と思っていました。
しかし 今回の調査 に行く事によって 

 吉野先生が述べられている、ミイラも包帯でぐるぐる巻く事によってサナギの状態またはへびの脱皮の状態にし再生を願う。
 といったことを確認するにいたったと確信しております。


ミイラと棺   プトレイマス王朝前250年頃おそらくアクミール出土
左記
写真上・・棺のふた


写真下・・ミイラ
ミイラ中央部の黒茶色は左腕義手

ミイラの心臓部に有翼スカラベ
下腹部に有翼女神
その下に有翼日輪
 写真は*52『古代エジプトの美展』図録P159

 上記棺の側面 (今回注目のイラスト!!)
棺 側面
 
 イラスト は、上写真木棺の両側面に描かれている絵であります。
ささっと書いたので多少違うかもしれません。(胴体に赤と黒の点線が2本あった気もします。)
写真撮影がだめというのが残念ですが学芸員に図録を見せてもらい側面の写真が無かったので、許可を得てスケッチしてきました。
側面は全体的に黒く塗られ、その上に白いへびのような絵が描かれ背骨のラインが赤く塗られていました。
明らかに古代エジプトの人たちは死体に包帯を巻くことにより、へびの脱皮・または蝶や昆虫のサナギのごとく 再生を願ったと言えます。

 このようにはっきりへびの様な書かれ方をしているものを 目にできた事は本当にラッキーだったといえるほどで、その後も本などの資料でも見かけない。しかしながらツタンカーメンをはじめ他の棺には全面に鱗のような(
鳥の羽のような)装飾の有る棺を かなり見かけることからも 同様な思想があったことが伺える。
 




Ⅱ・ 古墳時代 円筒棺にみるサナギ
『ヘビ調査隊が行く』 吉良町歴史資料館(09.10/12) より追記

岩場古墳出土円筒棺 (すぐ下の写真はパンフレットより)
出土地
 吉良町小山田字大山の丘陵端部に所在する全長30m余の帆立貝式前方後円墳から出土
大きさ
 全長193cm
様式
 円筒型埴輪の作成法を用いており、弥生時代後期から古墳時代埴輪を使用していた頃にかけて見られる 近畿地方中心に全国でも25例ほどの出土。

 この施設で最も期待していたのが、埴輪の作成方法を用いた珍しい棺 すごい形ですよね!!胴体部分の蛇腹模様は理解できても左右の蓋になるキノコの傘状のものは何を表しているのか? 全体の形は サナギのようでもあります。死後再生を願ってこのような形にしたのではないでしょうか。

 この円筒棺が出土した岩場古墳では同時に下記円筒埴輪も出土していますが、円筒埴輪が棺に転用されたとされています。
 ”朝顔形”という円筒埴輪はさなぎのような形の上部に杯を載せたような形状の円筒埴輪棺です。
円筒埴輪 (中央奥)
 埴輪棺を覆っていた埴輪片を復元すると円筒埴輪になりました。

朝顔形円筒埴輪胴部 (中央)
杯部を打ち欠き埴輪棺の本体として利用されていました。

須恵器壷 (手前)
墳頂部から出土 

 いづれも 岩場古墳出土


  この円筒棺のルーツを調べてみました。
 詳しくは 『②埴輪に見るへび』 で ・・・。

 ”へび民族”と関係がありそうです。






十一、「蛇」という字のつくもの
 本来なら蛇口もここに掲載するべきでしたが変更してリンクを貼り直すのが大変なので・・・。
 少しずつ足していきたいと思います。


  
① 蛇籠(じゃかご)


 『蛇籠』(じゃかご)です。この中に大きめの石をを入れていくつも積み重ね堤防を築いたり、氾濫を防止したんです。
 天竜というおおきな「龍」 を「蛇」神さま達で押さえ込んだんですね~~。頼もしい。水や川を蛇と例えられることもありますが「へび」をもって「へび」を制すといったところでしょうか。
 
 「蛇籠」という存在を写真や本で見たことはありますが、実物を見ることは今回が初めてでした。 おおよそ3m~4m位あるんじゃないでしょうか?予想外に大きなものでした。
 また、現在は材質が竹ではなく鉄線などを用いて蛇籠を作っているようです。

 材質が鉄になったり形が長方形になっても『蛇籠』なんだ。写真はWIKI「蛇篭(じゃかご)」最終更新 2012年5月13日 (日) 12:28  より



今日は良いものを見ることができました。
お勉強にもなったしね。

 



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