蛇の目ってなんぞや?!
 
  へびって?
「へび」を調べる 
- 蛇の遺物に見る民族の流れを探る -
 
はじめに
 そもそも なんで蛇を調べるようになったか 理由は簡単である。 私が育った店の屋号に  「蛇の目」 があったからである。
 目次としては 「蛇の目って?」 と 「へびって?」 が逆になっているが はじめは、「蛇の目」から調べていたのである。 その「蛇の目」を調べるうちに いかに「蛇の目」「へび」が世の中にあふれていることか知ることにつながる。 人はなぜ へびという 一見 怖い・気持ち悪いものを 屋号につけたり 何気なく地名に、また物の名前にある「へび」を目にしても違和感を感じないのだろうか。
 「蛇」がいかに 日本人としての民族にかかわり深い生き物であったか 遺跡や遺物に残されていることは あまり一般的に知られていないように思う。 そして地名や、河・沼・祭りにもへびと関係するものがあふれている。
 日本という国が縄文時代という教科書で教わる石器時代に次ぐ古い時代においても 何層にも折り重なるように 大陸あるいは 海洋から幾度か民族が流入してきたことは、遺伝子の観点から・もしくは遺物を炭素から調べる高度な分析ができる機器からも 立証されていることである。それではそういった民族がどこからどのような形で流入してきたか、へびを崇拝していた民族がどのような経緯で流入してきたか、世界にも視線を移し 研究を深め 明らかにしていきたい。
 その際 へびというものがどのような形式で遺物に残っていたか 文章で表すには難しすぎる。たとえば われわれが縄文土器として 学生時代に教わった土器であるが、縄文というより 「へび紋」である。 へびっぽいが縄文かなといわれれば縄文もあるが、明らかに 「へび」 がいる縄文土器がある。 へびを表した土器が非常に多い。
 子供の頃に教わったものの認識を改めるのに言葉では伝わりにくい。、百聞は一見にしかずである。
 あるいは 世界にへびがあふれていることも 画像で見ることができればより理解が深まるのではという見地から 研究の中で引用という形をとり、時に許可をいただきながら 先の研究者の大切な著作権を侵害しないようにつとめたつもりです。

  「へびって?」 では おもに へびに関するものを  「蛇の目って?」で、「蛇の目」に関するものをあげ 歴史をさかのぼり  蛇民族のルーツを探ってみました。
  
第一章  へびについて
一、 へび の意味
まず 日本において へびはどのような存在であるのだろうか

へび
  『トカゲ目ヘビ亜目の爬虫類の総称。体は円筒形で、細長く 鱗で瓦状に覆われ、肢と肢体がない。
舌は細長く先端は二分。小動物や、鳥の卵を食う。不吉なものとして嫌われる
シマヘビ、ヤマカガシ、アオダイショウ、マムシなど。
古名、くちなわ、ながむし、かがち。』
   岩波書店 広辞苑



一般的に へびの扱われ方 は、広辞苑にあるように 不吉なもの嫌われものとして表されるのが一般的だ。小学館 大辞泉では
『一般に執念深いなどとして人に嫌われるが、神の使いなどともされる。』 とある。
 



二、 蛇 という漢字
 続けて漢字の成り立ちである。 最近では子供の名前を音や響きによってつけることが多いようですが 現在でも画数や成り立ちを考慮し、名づける方も少なくないと思います。
わたくしも漢字の成り立ちから 娘につけたものです。美 という文字も中国で遊牧をしていた時代 「羊」「大」 羊を大きく育てることが美徳とされ 『美』という字ができた。と調べたものです。
 漢字のなりたちを知ることにより、へびに対するひとつの見方もできるのではないでしょうか。



 虫 の意
  『虫(チュウ(むし)=蟲(チュウ)(ジュウ) 虫は蟲の省略体
① むし。昆虫類の総称
② 動物の総称  羽虫は鳥。 毛虫は獣。 甲虫は亀類。
   鱗虫は竜の様なウロコのある動物。 裸虫は人間
・虫は まむしの象形 一般に爬虫類の意味を表す 』
   (大修館書店 漢語林)

 蛇 の意
  (ジャ・ダ)(へび)
『① へび・くちなわ
② 委蛇(イダ)はどじょ。一説に大鳥
③ 星の名
・虫 + 它  音符の「它」もへびの象形
  虫 に 它 を 加えることでその意を明らかにした。』
    (大修館書店 漢語林)



* へぇ~~ そもそも ”虫”って「へび」の意味も持つんですね。





三、 巳という漢字

み の意
・へびで、十二支の6番目 「蛇」(へみ)の略といわれています。
・昔の時刻を表し 定時法で  午前9時から11時までをさすが、午前10時から午前12までと誤用された
・巳の時が一日の真ん中 の 午(うま)の刻の前であることから 物事の物事の新古・盛衰の状態を時の推移にみたてた
・よって 絶頂を前にした上り坂の勢いを「巳の刻」と形容した。
・方位では 南南東 
     
  以上 小学館 JAPONICA 大日本百科事典より

   ◎十二支獣と十二支が結びついたのは後漢以前とされ
   十二支を12月の呼び名として考案されたのは殷の時代とされています。

巳 の意
①十二支の第6位。 月では陰暦4月。 方位では、東南と南南東の間。 時刻では午前10時、およびその前後2時間。 動物では「蛇」。五行では火
②子。はらみご。胎児。
◎象形文字。説文では、へびの象形とされる。 また胎児の象形ともされる。
      
   以上は 大修館書店 漢語林 より


 「へび」の意味する漢字に がありますが へび・蛇 を調べたように どういった成り立ちであるか また意味を持つものであるかが、わかると思います
 使い方からして「蛇」は動物爬虫類を表すものに 巳 は 方角や時刻 と分けていたのでしょうか。
 『十二支考 (上)』南方 熊楠氏は 延喜式の中での本居宣長の見方 柳田国男氏の見方を踏まえ 下記のように述べております。
 

 ◎日本の 『延喜式』のなかでの   
     下総の相馬郡に蛟(みづち)神社、加賀に野蛟神社二座あり。より
   ・「ミヅチ」なる水の怪(ばけもの)の解釈 として 
    本居宣長が ツチ を水の主と解き 尊称としていること。

 ◎柳田氏は、槌を霊物とする俗ありとて、 槌の意としているが、
 ◎南方氏は   
      大蛇をオロチ・巨蟒をヤマカガチと読むこと・
      『和名抄』や『書記』に蛟(こう)(きゅう)いづれも竜蛇の属名の字を
      ミヅチと訓(よ)んだから、 
      ミヅチは水蛇(みずへび)野蛟(ノヅチ)は、野蛇(のへび)
      の霊異なるを崇めたと、解釈していらっしゃいます
こう表した後

 ○「名義」より
    蛇を霊怪(ふしぎ)視した(な)なるミヅチを、
    十二支の(し)に当て略してミと呼んだは同じく
    十二支の(し)をネズミの略ネ、(ぼう)を兎(うさぎ)の略ウで呼ぶに等し

 
補蛇足
 金沢市神谷内町へ-1の野蛟神社(のづちじんじゃ)由緒
今をさる約1250年前(天平3年4月3日)に創立と言われる古社の一社です。当時神谷内を中心とした付近一帯に疫病が流行し、毎日のように住民が病に倒れ、亡くなる人もでたそうです。そうした時白髪の老人が現れ、『自分の言う通りに従えば、衆人一切を救ってしんぜよう。』と言うので、住民は老人の教える通りに行った処、不思議にも病気が治ってしまった。この老人は『ヌヅチの神である、永く祭祀(イツキマツルこと)せよ。』と言い残し“龍(アマレリ)”に乗って天上雲間に消えた。そこで住民は、その地に神社を創立して祀ったのが起りであると伝えられている。 (神社庁)
 ”へび”と病気を治す関係が見て取れる。野蛟神社は他に石川県金沢市琴町、金沢市滝下町などに。
 干支の読み方

   子(ね) ・・・ ” ずみ ” 
   亥(い) ・・・ ” のしし ”

  巳 を、へびの「へ」と呼ばなかったというのは先の『延喜式』のなかにあるように 
  「ミヅチ」 と呼び分けていた ことに由来するということ。

◎ 巳(み) ・・・ ”へび”⇒” づち ” と呼んでいたことから。
へびやへびを表す漢字 「蛇」「巳」を知ることにより へびというものを 違った角度から見ることが出来たのではないでしょうか。 ただ ここから へび の いい意味は、見い出す事ができませんでしたが、 「虫」は昆虫と思っていたのが まむしの象形文字ということが解りました。  新しい発見でした。(えっ 私が知らなかっただけ?) そして いかに蛇という存在が 漢字のできる古代から 重要視されていたということが言えるのではないでしょうか 




第二章  古典や信仰の中の へび
一、 言伝え(迷信) に へび
・蛇の抜け殻で湯を使えば膚(はだ)光沢を生ず
      お風呂に蛇の抜け殻を入れると 肌がつやつや!! 
 ・蛇脱(へびのかわ)の黒焼を油で(ね)って禿頭(はげあたま)に塗らば
     毛髪を生ずといい 、『和漢三才図会』
      毛生え薬のもと みつけた~~!!
 ・蛇卵や蛇脂が老女を若返らす  オエンの『老兎巫蠱篇
      えっ顔に塗るの?飲むのどっち? (試さないけど・・・・。)
 ・抜け殻を財布に入れるとお金が貯まるという風習
      これは わたくしも 信じています。
 ・出雲の竜蛇、その他の蛇の画符を悪魔よけに門戸に貼る
      (のちのローマで)




二、 伝説 に へび
『日本神話や古事記』
 スサノオノミコトがクシナダヒメを嫁にもらうことを条件に出雲国に出る、ヤマタノオロチを退治する話 有名ですね
『三輪山伝説』    記紀にもみえる神婚説話
[古事記] 夜ごとイクタマヨリビメに通う男に赤い糸をつけて辿ってみる
        と三輪山に続いていた話。
[日本書紀] 夜しか姿を表さないヤマトトトビモモソヒメノミコトの夫 
         大物主神(オオモノヌシ)に朝までいて欲しいと頼み、
         「明日の朝、おまえの櫛箱の中にいる私の姿を見ても驚かな
         いように。」といい。翌朝、姫が箱を開けてみると、
         中に小蛇がいたという話
『箸墓伝説』
三輪山神婚説話(箸墓伝説)
   「日本書紀 巻第五 崇神天皇 十年九月」の条 大意
 先に書かれている 「三輪山伝説」「日本書紀」より 
 翌朝、倭迹迹姫命(ヤマトトトビモモソヒメノミコト)が箱を開けてみると、中に麗しい小蛇がいました。倭迹迹姫命(ヤマトトトビモモソヒメノミコト)はびっくりして大声を出してしまいます。
 大神は恥じてすぐさま人の姿に化け、妻に言いました。
 「あなたは、堪えるこたができず私に恥じをかかせました。
 お返しにあなたに恥じをかかせます。」と言い残して大空を駆け、三輪山に登ってしまいました。
 この時、倭迹迹姫命(ヤマトトトビモモソヒメノミコト)は仰ぎ見て、悔いてどすんとすわってしまいました。
 この事が原因で倭迹迹姫命(ヤマトトトビモモソヒメノミコト)は箸で陰(ほと)を突いてお亡くなりになってしまいました。亡骸は大市(おほち)(桜井市 箸中)に埋葬され  当時の人はこの墓を 「 箸墓(はしはか) 」 と呼びました。
『常陸国風土記』の那賀郡茨城の里の項
 ヌカ彦(兄)・ヌカ姫(妹)がいるところにヌカ姫が結婚し、生まれた子供が蛇で 「お前は神の子」だから父の所に行きなさいといわれ恨んで ヌカ彦を殺してしまう。天に帰ろうとする蛇を帰れなくし その子孫が社を立て現在に至る 
   (簡単にまとめてしまいましたが、おおよそこういった内容)
『田原藤太竜宮入りの話』
 南方 熊楠 著 (十二支考 田原藤太竜宮入りの話)より
「太平記」 一五巻 より 
 天下第一の大剛 俵藤太郎秀郷(ひでさと)が、勢田の橋を渡っていると 20丈(60m)の大蛇が現れる。これに驚かず大蛇を踏みわたっていくと 人間の姿を借りた大蛇が 「わたしは、この橋の下に二千年も住んでいますが、あなたのように強い人は見た事がない」「毎年敵が襲ってきて悩まされているから」と助けを求める。
 秀郷は聞き入れて男について行き勢田の湖水の中に入っていく。
其処は竜宮城で、宴が始まる。 が、夜も更けた頃 
比良の高嶺よりを燈す「たいまつ2・3千が2列に並んで」現れ襲いかかる。
 秀郷は3本の矢を持っているが2本をしくじり 3本目でやっと眉間を貫き 近寄ってみると百足のムカデでした。
 竜神は、喜び 秀郷をもてなし、さまざまな宝物を与える。
その中の1つ赤銅の鐘を、 三井寺に奉納する。 
その後寺が炎上した折 この鐘を山門へ持ってきた山法師達が鐘を撞(つ)こうとするがならないため 怒って割ってしまう。 
 本尊に戻ってきた割れた鐘を あるとき 小さい子蛇が出てきてシッポで、たたくと疵一つなく もとの鐘にもどったと言う話。

 田原藤太竜宮入りの話 のおおよその内容を 上記 囲んだ様にまとめてしまいました。 元の文と内容が変わってしまっていたらお詫びします。 が おおよそこのようだと思います。
 蛇としての伝説を紹介させていただくため あえて記させていただきました。

 この話を 南方 熊楠氏は、戦火で鐘が割れてか?鳴らないのを 僧が民話のように繕ったか、たぶらかしたか?の様な事を書かれていますが
 同じように これより古い海外の書物から 似たような話があることを。
日本では太平記15巻が最も古く完全な形として 後に似たような話が形を変え説話として残っている事を紹介し 「近江輿地誌略」「今昔物語」「明良洪範」・・・
 等の類似点を述べていらっしゃいます。

また十二支考の中でも 海外の伝説などの類似点などを多く挙げています。
 詳しいことは この書物が、著作権の切れた書物ということで青空文庫に 本文がそっくり インターネット上に出ていますので 下記URLより
http://www.aozora.gr.jp/index.html
『十二支考04蛇に関する民俗と伝説』 に関してそのまま 掲載されていますので原文を読んでみてください。

『田原藤太竜宮入りの話』 はまだ 公開されていないようですので、当ページで参照または本を読んでみてください
 
 
 話は戻りますが、箸墓伝説・三輪山伝説 こういった伝説も民族的なものや戒めを子孫に残すために 言い伝えや口承によって残ってきたものと考えられる
 また 日本書紀・古事記に関しましても 海外の神話と似ている部分があるといわれています。 仮に海外から日本に入って来たとした場合 それはどういった 経緯で入ってきたものか 何を伝えるものであったのか 考える余地があるのではないだろうか。
『千年蛇』    (沖縄県島尻郡粟国村(しまじりぐんあぐにそん
那覇市北西60kmに位置する島 に伝わる民話

 昔、大層働き者だが貧乏な男がいました。その男は、畑にたくさんの黍(きび)や稗(ひえ)を植えていました。男がいつものように畑に行くと、アカマター(蛇)が首をもたげて一生懸命天に昇ろうとしていました。男が見ていると、アカマターは何度も天の途中まで昇っては落ち、昇っては落ちしていました。

  やがてアカマターは、近くに男がいたことに気付いて、男に言いました。「あなたが見ているから、天に昇れないのだ。あなたさえこのことを誰にもしゃべらなければ私は龍になって、空を飛ぶことができるのだが。私がもし龍になって飛べるようになったらあなたに宝物を落として金持ちにしてあげるから、今見たことは秘密にしてくれないか。」と頼みました。

  男は、「分かった。誰にも絶対言わないよ。それじゃ、私はあっちに行っているから早く天に昇りなさい。」と言いました。すると、アカマターはあっと言う間に龍になって天に昇って行きました。

  その後、龍になったアカマターは、男の家の台所と母屋の間に、龍の肝を落としてやりました。この龍の肝はどんな病気でも治せる不思議な薬だったので、男はそれを売って瞬く間に金持ちになりました。

  何年か経ったある日のこと、男は妻と喧嘩をしました。妻は「私が一生懸命働いたからこんな金持ちになったんだ。」と言いました。男も負けずに、「いや、俺が働いたからこんなに金持ちになったんだ。」と言いました。

  それでも妻は「これは私のおかげだよ。」と譲らないものだから、怒った男は我慢ができなくなって、「金持ちになったのは、ずっと前に天に昇ろうとするアカマターを助けてあげたからだよ。アカマターのおかげだよ。」と、つい口を滑らしてしまいました。

  その晩、庭にドーンと物が落ちる音がしました。庭に出てみると龍になったアカマターがもとのアカマターになって男の台所と母屋の間に落ちていました。そして、その家は、また貧乏になってしまったということです。

参考サイト様
[MENU] 沖縄の民話より 「50.千年蛇

沖縄国際大学文学部 遠藤庄治教授のご厚意により掲載 


◎その他 アカマターに関する伝説
 ・ヘビが美男子に化けて女性を騙して、妊娠させたり命を奪ったりする奇妙な伝説が至る所にある。
 ・身ごもった女性は、砂浜に行き砂の上で飛び回り身ごもった子を自ら流産させてヘビの邪悪を取り祓って自ら身を守るという奇妙談
 ・旧暦の3月3日 ヘビがもっとも嫌う海からの珊瑚を干潮時に浜に行き採り、男性も女性も玄関先に置き一年の祈願をする。(その日は、針縫いはしてはいけない)


 
この民話から分かること

◎ アカマターが龍になるということ。
◎ ”働き者なのに貧乏な男・一生懸命働く妻” 一生懸命働くだけではだめで、へびの神様に感謝しなさいよ。へび神様ののおかげだよ。お互い感謝することを教えている。
◎ アカマターがお金(裕福)と非常に深い関わりがある
◎ へびの薬になる。

ということを言っているような民話のように感じましたがいかがでしょうか。
 へびとお金を結びつける迷信や伝説は多く この沖縄の民話からも 同様にお金・商売とへびの関連性をうかがい知ることができます。(2009.3.25更新)
 


◎水木しげる氏の『ゲゲゲの鬼太郎』でも 沖縄県代表『アカマタ』として登場する。

左は シーサーを助ける為、鬼太郎に霊力を移しへとへとに疲れている状態。
沖縄代表 良い妖怪として紹介されている
(2009年2月8日放送)




三、 信仰(仏教)の中での へび
 「へび」という言葉を辞書で調べた折、「神の使いとされる」という文面がありました
古人 日本の昔の人々が へびをどのような扱いをしていたのでしょうか 神の 信仰の中でのへびのとらえかた から へびが見えてくるのではないでしょうか?
   


『 ・唐の武装姿をした薬師如来眷属の十二神将で、十二支の巳に
   当てられ、蛇を台座にしたもの、蛇の首を頭上につけているものがある
  ・唐の貴族女性姿の弁財天の身辺や祠堂付近には
   蛇や、人頭蛇身(宇賀神)が配されている。
  ・水天 の頭には数引きの蛇が首をもたげ、錫杖型に丸めた蛇策を持つ
  ・巳年生まれの一代守り本尊は、辰年生まれと同じ 普賢菩薩
  
   宇賀神(うがしん)=人頭蛇身(にんとうじゃしん) とし、
   東京都中野区の 福寿院の弁財天  ・  墨田区の江島杉山神社の
   顔が人間からだがへび という 人頭蛇身を紹介しています。 』
               ◎『動物信仰辞典』 芦田 正次郎 著   北辰堂


 へび といいますと 五穀豊穣 や、神の使いといった 神道のイメージがありましたが 上記書籍 より仏教との関連性もあることがわかります。

弁財天は、中世以降 神道と日本土着の水神や、宇賀神と習合(混交) されていたという書物も見かけます。

そのほかにも

◎岩国市のシロヘビ 
  遺伝により高い頻度で子孫に代々受け継がれ 天然記念物にもなっている。
◎奈良県 三輪山を御神体に大神神社に祀られる大物主
  大物主神は、蛇神として稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として
  篤い信仰を集めている



十二神将立像 巳神
東京国立博物館 調査記 (2009年8/28) より 追記

◎十二神将立像 巳神
十二神将立像 巳神

木造、彩色、鎌倉時代・12~13世紀
神奈川県横須賀市・曹源寺

へび いた~~~!!

 上記 著書にも記されているように十二神将は薬師如来の脊属とされ、宮毘羅大将から毘羯羅大将まで各々名称が定められています。衆生を守護する神将として、奈良時代から作られたようですが、もともと 十二神将と十二支は関係無く、平安時代から関係付けられ始め、頭の上につけるようになり、平安中期には一般的なものになったようです。
 また十二支をいずれの神将に当てるかについては一定していないようです。


他 収蔵されている場所
国宝 因達羅(いんだら)大将像(巳神) 興福寺
重要文化財 国(東京国立博物館保管)
宮城県指定文化財 有形文化財 彫刻(仙台市若林区)
川崎市重要歴史記念物 木造 十二神将立像 影向寺(宮前区)





蛇身弁財天 石像
東京国立博物館 調査記 (2009年8/28) より 追記

埼玉県富士見市諏訪
氷川神社境内・弁財天祠
正面より お社
本殿でしょうか?
 早朝より一人はるばる訪れたのですが・・・。 いないじゃん!?


 へび神様・・・。

本殿の中に祀られているのでしょうか?。

 
 本来なら
こちらの
 弁財天様にお目通りいただく予定でした。

そこで予習に利用させていただいた
『Time box of Miniature & Komainu』様(TOPページ)

『狛犬の杜☆別館』様の「神使の館」『蛇ヘビ』のページ
よりお借りいただくこととさせていただきました。
(許可10.4.27)

こちらのサイト様の「神使」像の対象として社殿内・拝殿内などにある像は対象としないとありますので本殿の中ではなさそうなのですが見つけることができませんでした。(涙・・)

 でもこの福田様のサイトすごいです。様々な動物が神使として
狛犬のように奉られているものを見ることができます。




 信仰・伝説・仏教においても

 ◎長い間 エサを食べなくても生きられる生命力
 ◎毒をもち敵を一撃に倒す力
 ◎足の無い長いからだである という 外見的特長
 ◎脱皮をすることによる「死と再生」の思想

 上記理由により古来から 「神の使い」として各地で祀られ、語り継がれてきましたてきました。

 ・抜け殻を財布に入れるとお金が貯まるという風習は 私も小さい頃から信じてきました。
 が へびがお金と関係する理由は課題となりそうです。
  
 





四、 行事・祭り
”へび”のある行事・祭り 
◎ 厄除け大蛇お練り 
東京都 世田谷区 奥沢神社 

藁をよって作った長さ10m 重さ150kgの大蛇をハッピ姿の成年男子が担いで練りまわす。  大蛇の藁は厄除け開運・ご利益があり抜き取られる
 「ヘビ」調査隊が行く  奥沢神社(奥沢5丁目) (H20.12/1) 参照


大蛇お練り行事 看板 (以下 内容)
世田谷区指定無形民族文化財(民族芸能)
奥沢神社の大蛇(だいじゃ)お練り行事


伝承地 世田谷区奥沢五丁目二十二番一号 宗教法人 奥沢神社
保持者 世田谷区奥沢五丁目二十二番一号 奥沢神社氏子中
指定 昭和五十九年五月三十一日
 江戸時代の中頃、奥沢の地に疫病が流行して,病に倒れる者が多かったとき、ある夜この村の名主の夢枕に八幡大神が現われ、「藁で作った大蛇を村人が担ぎ村内を巡行させると良い」というお告げがあったという。早速新藁で大きな蛇を作り村内を巡行させたところ、たちまちに流行疫病が治ったという言い伝えがあり,これが厄除けの大蛇として鳥居にからまり、大蛇お練りとして現在に伝えられている。蛇の形のものを作ってかつぎ歩く祭りは、全国的にあるが、都内では珍しい祭りである。蛇の形(水神の意)をかつぎ歩くことによって農耕に必要な水の確保や生産の順調なることを予祝する行事にほかならない。
 奥沢神社では毎年九月の第一日曜日に氏子が集まり、大蛇づくりが行われる。これは社殿に安置され、社殿にあった昨年の大蛇を鳥居に掛けられる。そして九月十四日の大祭に大蛇お練りが行われる。
           昭和六十年三月                           
世田谷区教育委員会   
 注・・・九月大祭の日程は変更されるそうです。
祭りの様子
「世田谷不動産.com」様 ブログより
http://www.setagayafudousan.com/blog/okusawa/taisai/5325/
じんがんなわ *1
大乗院   東京都足立区

じんがんなわとは蛇の縄祭りがなまったもの  
本尊の薬師如来に従者として使えた白蛇が室町時代の戦火で寺を消失し姿を消したのち 疫病や干ばつが起こった。 
 村人達が藁で大蛇を作り薬師如来に供えたところ、疫病が治まったことに由来する。
妙見尊の蛇より行事 *1
妙見寺 東京都稲城市

茅で綱をよって巨大なへびを作り 五穀豊穣と、悪疫退散を祈願した民族行事。
干ばつの時に蛇綱をよるとかならず、が降るといわれている。
蛇祭り *1
八幡神社 栃木県小山市

頭が竜 胴が蛇 の蛇竜をつくり悪疫退散・田植え前の五穀豊穣・風雨順調を願う
ヘビの御年始 *55
福島県会津高田町

毎年1月7日 男児が蛇体を担いで家々を回り五穀豊穣を祈る。
毎年作り替えられ一年間町内の寺に祭られる。
蛇祭り *55
群馬県利根村   

老神温泉で、旧暦の4/8早朝より午前11時まで、湯壷の周りに注連縄をめぐらせ一般の入浴を禁じ、布製の大蛇(ご神体)を担いで各旅館の浴場を練り歩く。
ツジギリ *2
千葉県下の農村部

小正月に行われる。
集落の東西南北の四隅にワラで作った蛇を木にくくりつけ邪気が入ってくるのを防ぐ。
へんべとり *2
岐阜県吉城群上宝村福地

千年ほど前、村人を苦しめる毒蛇がいました 福地温泉にお忍びで療養中だった村上天皇が、見かねて笛や太鼓踊りでなだめるとピタリとおとなしくなり平和が戻った毒蛇伝説による。
村の重要無形文化財として 毎年7月から八月にかけ毎晩夏祭りが行われる。
大元神楽(おおもとかぐら) *3
島根県邑智群(おうちぐん)

農耕神と考えられる大元神が招かれる神楽 選ばれた人々が神楽を舞い、髪の象徴
である藁蛇(わらへび)を持って祭場を回り 周囲のものに対して託太夫(たくだゆう)
その年の作柄の豊凶を告げる
   -- 週間朝日百科「日本の歴史37」 1-124   朝日新聞社 --
室根神社大祭
岩手県一関市 室根神社

~ 国重要無形民俗文化財 ~
岩手県一関市 室根神社大祭・新宮・本宮両御神輿の担ぎ手・陸尺の人々の
本宮側法被の背印に◯の蛇の目紋が、新宮 背印に菱の紋を記しているようです。
汁掛祭
奈良県御所市蛇穴(さらぎ)

5月5日ワカメ汁を参詣者にかけ厄除けする。他方5月4日の午前から藁で蛇の頭を組み5日の早朝から作りあげた約14mの蛇の御神体を先頭に村中一軒一軒を蛇綱をひき廻り家々の邪気を払い、病除を祈願していくおまつり

http://www.7kamado.net/shrine-l.html 『神社ふりーく』HOME
http://www.7kamado.net/noguti.html 「野口神社」
雨乞い祭りの龍蛇
埼玉県入間郡鶴ヶ島町

「神立ヶ池」に男の大蛇が住んでいて雨が降らない時に池の端のお雷電様にお願いすると雨が降ったそうです。
 雨乞いのお祭りは 寛永(1634~44)の頃、天保(1830~1843)の頃、と諸説あり、
徳川八代吉宗公の御代、享保6年(1721)に江戸町奉行大岡越前守忠相の命により、代官川崎平右衛門定孝による、大規模な武蔵野の新田開発が行われ、当地にも多くの新田が開かれた。
 神立ヶ池を水源とする広大な沼の大半が水田に変えられたのは、享保から元文(1736~40)であって、雨乞いの始まりもその頃と考えられる。 (文字による記録としては、明治7年(1874)に旱魃で雨乞いをした記録と江戸時代にあったとされる記述(村史編輯)と、弘化5年(1848)7月24日に、464文を雨乞い費用として支払った名主家の金銭出入り帳の記載がある)
http://72.14.235.104/search?q=cache:ReuoHXVdWMgJ:www.geocities.jp/seiko68t/sub4.htm+%E9%9B%A8%E4%B9%9E%E3%81%84%E7%
A5%AD%E3%82%8A%E3%81%AE%E9%BE%8D%E8%9B%87%E3%80%80%E3%80%80%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C%E5%85%A5%E9%96%
93%E9%83%A1%E9%B6%B4%E3%83%B6%E5%B3%B6%E7%94%BA&hl=j
a&strip=1

上記 URLのキャッシュから 引用させていただきました。が現在はリンクがありません。 蛇の目という言葉もそうですがわたし的には江戸時代と蛇のかかわりが大いに関係あるように感じました。
ヒトミゴク
奈良県奈良市 倭文神社(しどりじんじゃ)

毎年秋祭り 10/10 蛇祭りともよばれ、芋茎でつくった蛇と、里芋を輪切りにして顔を書き、餅をあしらった御供が供えられる。 
ヒトミゴク
福島県いわき市 磐城地方

カワベリノツイタチとよぶ12月1日に 川辺に御餅を供えたり、川に御餅を投げるまつり。
もともと、大蛇に娘を捧げなければならないところ、代わりに御餅を沼に投げ入れたことから。


以上 蛇にまつわる行事 参考文献
*1 「日本全国 お祭り探し」  著者 さの昭   今日の話題社 
*2 「十二支の話題辞典」  著者 加藤迪男     東京堂出版より
*3 -- 週間朝日百科「日本の歴史37」 1-124   朝日新聞社 --





”オコナイ”の中に”へび” 
◎滋賀県 栗東博物館 へび調査隊記 (10.8.05) より 追記
”オコナイ”の中に”へび”写真は
*103 「いのりのかたち」 オコナイの諸相 発行:栗東歴史民族博物館 
  主な図録写真:長浜歴史博物館 その他:明珍健二
より引用
 ”オコナイ”とは西日本の各地で1月~3月に行われる五穀豊穣を祈る伝統行事で、特に滋賀県が有名であり、湖北地方と甲賀地方に高い密度を示す。もともと湖南も含め県内全域で行なわれていたようで特徴的な供え物である”モチ”以外にもサトイモ、大根、ニンジン、など多種多様である。
 その中でも 堂々と”へび”を表す注連縄を作るオコナイがありますので掲載させていただきます。
 また、吉野裕子氏も 『蛇 日本の蛇信仰』 著:吉野裕子 講談社 1995年(*49)において、鏡餅が”へび”であるということとオコナイとを重ねている。


  
栗東町内
栗東町大字観音寺 の オコナイ
旧暦2月1日~5日
白山神社を中心に執り行なわれ稲ワラで長さ7m直径15cmのジャナワ(蛇縄)=カンジョウナワを作る。以前は木製の蛇頭も付いていた。
ジャナワ完成後、白山神社の覆い屋の柱に巻きつけられるようにかけられ2月4日神事が行なわれた翌早朝 日の出前に村の入口に掲げられる。
勧請縄(ジャナワ)をつくる



邪悪なものが村へ入るのを防ぐためにかけていると伝承されている。
村の入口にかけられたジャナワ

湖南地方
草津市下笠町 の オコナイ
2月10日~14日が準備期間 15日が本番の日。
本番の日、周辺の”村”と呼ばれる宮座で周り番で決まった神事元の家から老杉神社へ向けてお供え物と蛇縄を持った社参行列が出発する。行列は「エトエトー」と大声でさけびながら参道から境内へと進んでいく。
 お供え物は本殿に、蛇縄は拝殿に納められ、朝食後午前9:00に当番の村が老杉神社に集り、境内入口の鳥居にかける。
拝殿に納められたジャナワと供え物



蛇縄は準備期間の12日に作られる。蛇縄は12ひろにおよび、先に蛇頭がつけられ、蛇体には竹の輪に榊を付けたものが、5つさげられている。

※12ヒロの”尋”とは長さの単位で人が両手を広げた長さである。 1ヒロはおおよそ1.5~1.8m
鳥居にかけられたジャナワ

湖北地方
浅井町高山 の オコナイ
本殿に供えられたオカガミ
2月8日~15日 8日の米カシから始まり11日餅つき15日が本日(社参)。秋葉社では23日が本日(社参)。
氏神である高山神社(オウジサン)と摂社の秋葉社2箇所で行なわれる。

ここのオコナイでは注連縄を蛇縄と呼んだり蛇の頭は取り付けない。

お鏡餅は、底のない曲物の中に餅をあふれんばかりに入れ、上を丸くまとめ”カリ”と呼ぶ一番重要な男根(ちんちん)を意味する形に作られる。
その後、曲物をはずし竹のへらで表面をきれいにし四つ編みの注連縄をお鏡の下部に二重に巻きつけ、1文字にひもをかける。最後に注連縄を蝶々結びにして出来上がり。

”へび”と関係なさそうに思えますが、鏡餅を男根と重ね、それを注連縄で巻きつけることからも 子孫繁栄や五穀豊穣を願う”へび”の思想とも考えられるため掲載。

湖北地方
高月町馬上(まけ) の オコナイ
新暦2月4日~10日本日(社参)。
オコナイは走落神社を中心に行なわれる。
ここでのオコナイも注連縄を蛇縄と呼んだり蛇の頭は取り付けない。

5年に1度の大祭の時オイナワ(負い縄)と呼ばれる大変特徴あるものを背負う。 
負い縄は三組作られ、背中にお鏡をコモでつつんで背負う事からカガミオイをするという。 カガミオイが背負うオイナワを輪のように広げこの中に入ることにより無病息災を祈る

”へび”と関係なさそうに思えますが、鏡餅とそれに付随する注連縄(オイナワ)の形状も”へび”の思想とも考えられるため掲載。



第三章  遺跡・遺物 の へび
 本来 「蛇の目」というものは何であろうという目的から調べていたのだが、蛇の目と云われるものは元禄以前にも蛇の目の原型はあるのですが 江戸時代 ごろから ぱっと広がったように推測している。まだ研究途中であるが 詳しくはそちらも参照していただきたいと思います。 

 先の伝説にもあったが 箸墓古墳の伝説を例にとれば これは へびの民族が箸を使う民族にとって代わることによる伝説という人もいる。 ヤマタノオロチにしても さまざまな推測や考えがあるが これもわたくしは 民族の争い のようなものと考えている。

書物からの推測は勝者の書き換えが行われている可能性がありますが 遺跡や遺物 はへび民族を追っていくうえで重要な証拠となるのではないかと考え 縄文時代より順に 民族を追っていきたいと思う。
一、 縄文時代に見る へび
① 土偶と土器
Ⅰ 土偶にみる蛇
頭に蛇の土偶
  縄文土偶のほぼすべてが、女の像なのですが、髪が蛇で表されたものもある。
地母神崇拝 が強かったため
 (宮坂光昭『蛇体と石棒の信仰』より)
◎一の沢遺跡の土偶 *4
「へび調査隊』が行く◎山梨県立考古博物館調査記 (09.8.12)より


高さ14.1cm
重要文化財

 笛吹市の一の沢遺跡から出土した土偶で、後頭部にヘビがモチーフとなる髪形をしている。*41参考文献では、『縄文人がイメージした女神の姿を表現するものがあるという説が有力です。そして、死した女神(オオゲツヒメ・ウケモチノカミ)の体から食物が生まれてくるという、作物の豊穣を願う日本の神話と関連させた土偶祭祀を想定する説があります。このような神話は世界的にはハイヌウェレ型神話と呼ばれ、根菜農耕文化の起源神話として知られております。』

引用 写真・文
*4 『― 縄文時代の暮らし ―  山の民と海の民 展示図録』
    編集・発行 山梨県考古博物館 ◎写真P44 / 文P44 4行目~8行目




Ⅱ 土器にみる蛇
蛇神把手付土器 
 深鉢の口縁部に、蛇をかたどった取っ手がついている。縄文人たちは蛇や、トカゲなどの爬虫類を題材に選ぶことが意外と多いと 付記されています。

*5  P45 

縄文中期の深鉢 こちらは中部山岳を中心とする土器
長野県荒神山遺跡出土

*5 P204
蛇畑文土器  縄文土器のモチーフとして 動物や人体がありますが、蛇はその生命力の強さから豊饒を祈願したものといえるのではないでしょうか 
 蛇模様(蛇体文(じゃたいもん)の施された土器など 縄文時代中期の中部地方を中心とした土器に多かった模様は蛇である。
      
上記文左記土器図とも
「縄文土器模様解読」より  「解読Ⅰ 守護神」 
http://www.joumon.jp/kaidoku/kaidoku1/kaidoku1.htm
他にも蛇模様の土器と説明があり とても参考になる
サイトです。
蛇文装飾深鉢 「暗月を抱いた新月を表徴する蛇を表わした土器」
と、説明書きがあります。

曽利遺跡35号住居址

井戸尻考古学館
〒399-0101
長野県諏訪郡富士見町境7053
TEL 0266(64)2044 
http://www.alles.or.jp/~fujimi/idojiri.html

 縄文社会はまさに呪術の世界である。神々に対する信仰の念と、豊な収穫を願う神への祈念を、呪術的な意味を持つ種種の模様を飾ることによってその願いを表現しようとしました。
私達は 学生時代歴史の中で縄文土器を 私の記憶では名前のごとく 縄(なわ)の模様と教わってきました。
装飾だけではなかったのですよね。
 あらためて こういったことを知ると いかに縄文の人々が稲や作物の実りに真剣であったか神に祈る思いが伝わってくる気がします。
現代は飽食の時代といわれますが食べ物や作物に感謝を持って大切にいただきたいものです。



*5 日本歴史展望 第1巻 原始ー古墳時代
 「埋もれた邪馬台国の謎」 
責任編集:上田正昭 田辺昭三  旺文社
蜆塚遺跡出土 縄文土器
「へび」調査隊が行く◎浜松博物館 (20.8/14) より追記
 蜆塚遺跡出土
 (縄文時代後期・晩期)

 縄(より紐)を転がして縄文を付ける土器に対して
 右写真はヘラか棒を使って描いた模様のようです。
 
 茨城県出土
 (*6 図説 浜松の歴史 浜松市博物館 P8)

 どの遺跡から出土した物なのか電話で確認したら茨城県出土と言う事で・・・。
 今回の調査では 明らかな”へび”の模様は見られなかったのですがこういった土器ももちろんいっぱい出土しているという参考までに・・・・。
◎一の沢遺跡の土器
「へび調査隊』が行く◎山梨県立考古博物館調査記 (09.8.12)より
深鉢形土器

出土地:一の沢遺跡
寸法:高さ44.5cm
重要文化財

『正面の把手に人面が左側の把手にはヘビの頭が表現されています。』

*7 ◎写真P38 / 文P38 7行目~9行目
深鉢形土器

出土地:一の沢遺跡
寸法:高さ31.0cm
重要文化財

『右側の把手はヘビがとぐろを巻いたモチーフとなります。ヘビは多産で猛毒を持つマムシと考えられ、その性格から神格化された可能性があります。』

*7 ◎写真P39 / 文P38 3行目~7行目

引用 
*7 『― 縄文時代の暮らし ―  山の民と海の民 展示図録』より
    編集・発行 山梨県考古博物館   

◎火焔土器について   2011年08/11追記

馬高3式深鉢 高さ29.5cm
新潟県馬高遺跡 *102
馬高3式深鉢 高さ32cm
新潟県馬高遺跡 *102
 学校教科書の中で縄文土器の代表格として紹介掲載される火焔土器。
 この形状は名前の通り、火焔を表現した縄文時代中期の優れた造形である。世界の新石器時代を見渡しても素晴らしいものである。
 わたくしも ”火焔”という言葉に何の疑いも持たなかったのですが、へび調査隊員のハミハミ王子自身ののHP『SHIRAI TADATOSHI OFFICIAL WEB SITE』 Text1「日輪と蛇の尻尾」を読み、「なるほど!!」と納得することになる。

 白井氏は
 『縄文土器のイメージの源泉は「樹木」から影響を受け、隆線紋は蔓であり、森の蠢きであり、時の循環であり、蛇である。』と。
 また、
 『狩野永徳「檜図屏風」狩野山雪「老梅図襖」の表現はまるで火焔土器であり、尾形光琳「紅白梅図屏風」に描かれた流水表現の図案化などは土器に描かれる渦巻き文と対をなしているように見える。』
 と述べられ、火焔土器と蔓 そして、蛇信仰との図像と重ねているのである。
 あらためて、樹木に絡みつく蔓や森の樹木と、襖絵、屏風に見られる図像は、なるほど火焔土器である。素晴らしい着想だと思いました。
 この火焔土器も ”へび”の図像として追記させていただきたいと思います。

参考文献
*102 古代史発掘②縄文土器と貝塚
  編者:江坂輝弥  発行者:野間省一  発行所:㈱講談社  昭和48年


(ヘビ) と (タツ) 2011年8月12日 追記
 「蛇の目って!?」第12章 まとめにおいて  この縄、あるいはロープと言うものは 文明の道具として古代より大事にされ、長い事そして螺旋であることにより”へび”と重ねられてきたという事。縄について縄文人の思想とともに触れています。(下の写真 縄文時代の縄 は*5P41)
 そういった思想もあって 縄文人は縄とへびを同じように捉え土器に表してきたと思うのです。

 そして このHPではあえて、竜・龍は別物としています。その理由は、中国新石器時代中期の河南省濮陽県の墓(紀元前4000年ごろ)に龍 、メソポタミアの神話中のムシュフシュ(恐ろしい蛇)として、古来よりすでに別物として登場しているからです。(後述)

 同様に龍と蛇は別物である という興味深い論文がありますのでご紹介させていただきます。 へび調査隊員のハミハミ王子さんのHP『SHIRAI TADATOSHI OFFICIAL WEB SITE』 Text4「 タツ(辰)の語源はツタ(蔦)ではないか?」

 
竜巻(タツマキ)・立田姫(タツタヒメ)・龍田川(タツタカワ) と 日本古来の文献に記されるように海外の龍にあたる想像上の生き物が”タツ”であり、”蔦(ツタ)”が変化して龍・竜の訓読みに表される”タツ”になったのでは  というものです。
 龍と蛇はしばしば混同されるが、日本においての龍という呼ばれ方が輸入される以前は”タツ”であったのでは!? という観点からみると 蛇と龍は違うという立場のこのHPも納得いただけるのではと思いあえて ご紹介させていただきました。

 (右動画は浜松科学館で見た竜巻製造器)







Ⅲ 縄模様(蛇模様)にみる蛇
◎ 伊場遺跡出土の木製短甲   (浜松市)
「へび」調査隊が行く◎浜松博物館 調査記 (20.8/14)より

 伊場遺跡出土の木製短甲
弥生時代後期
よろいの背当て(左)・胸当て(右)
柳の木を丁寧に削りだし、赤と黒の漆で塗り分けている。
その模様はまさに へび模様


②縄紋にみる へび紋
「へび」調査隊が行く◎浜松市動物園  調査記 (09.8.12)より

ガラムート    パプアニューギニア


この模様は 縄文式土器に似ている。
横吹きトランペット  パプアニューギニア

わたくし達が普段目にするトランペットとはちょっと違うようですが・・・。

同じく 縄文土器などに見られる模様ですね。




 縄文時代の蛇 まとめ

学生時代に教わった 土器の代表的なものが 縄文式火焔土器である。縄文人が火の神秘性を持ち土器に表現したようだが このように蛇紋を見てみるとさまざまな縄目模様が蛇に見えてくるから不思議である。こういったヘビや蛇神をかたどった土器が中部から多く発見されているという事実も非常に興味深い事でした。
 竜神信仰といって 長野県から静岡県にかけて天竜川が流れていますが諏訪神といったものが中部に集中しています。今後そういった信仰と蛇紋(縄文)土器との関連性も調査していきたいと思います。

 ◎土器の装飾に 蛇をかたどったものが多数出土している。またそういった蛇紋土器が中部地方に多く出土しているようである。
 ◎土偶の頭部に蛇が装飾されているものもある。
 ◎縄のような蛇のような土器に見られる装飾が、東南アジアの楽器などにも見る事ができる。

 縄文時代の民族は 蛇を崇拝していた。






二、 弥生時代に見る へび
弥生時代と蛇
  ◎ 稲作の発達につれて、その収穫を阻害する野鼠の天敵として
  田の神の蛇信仰と、それまでに引き継いだ縄文の蛇信仰
  混合し、複雑化していきました。
  ◎弥生人にとって男性の象徴を思はせる
  蛇の形態は男性の象徴種神稲の実りとして、
  又蛇が成長するにつれて目や鼻まですっぽりと脱皮するさまは、
  それなくしては生きていけないためにそこに新生と永世を見てとり、
  縄文人に勝るとも劣らない
  信仰の対象になっていったようです。
  そしてとぐろを巻く蛇を連想させる姿から円錐形の山や家屋(竪穴式住居)
  などが信仰の対象になっていきました。
 ◎弥生時代の出雲では、肥の川の流域に
  クサナギ族(製鉄の民)、
  ナズチ族(農耕の民)、
  タケハヤ族(海洋の民)    の三つの部族が暮らしていた。
  このクサナギですが、「クサ」というのは猛々しく強いということ。
  「ナギ」はを指す古いことばです。
  だから、「くさなぎ」とは強い蛇の意味になります
◎ 弥生時代中期
金印 漢倭奴国王
  江戸時代後期,福岡県志賀島で発見された。
  中国の史書「後漢書東衣夷伝」の記事によって,後漢の光武帝が57年に、
  倭の奴国の王に与えた金印であることがわかった

            -- *8 週間朝日百科「日本の歴史39」 1-187 --
 左の写真はよく書籍や教科書でも見ますが 右の写真のように角度が変わると もっと解りやすいですね


この金印の鈕(ちゅう)(印を持つ取っ手の部分)があしらわれている。
印を授ける相手によって鈕の動物が使い分けてあり、
  南方の王には駱駝(らくだ)
  北方の王には羊、
  中国の役人には亀という具合です。
「漢委奴国王」と「愼王之印」の両金印は何れも蛇が使われていますが、漢は愼国と奴国を同緯度に位置していると考えており、この地域の王に授ける印には、蛇の鈕を使うことにしたと  いわれています。


こちらも 参考になります。
http://museum.city.fukuoka.jp/je/html/221-230/222/222_01.htm 
福岡市博物館 「中国の古代印章」 No.222



 弥生時代まとめ

 印を授ける相手によって鈕の動物を使い分けていました。

 弥生時代 日本(倭の奴国の王)は へびを崇拝していた。



三、 古墳時代に見る へび
古墳時代と蛇
  古代日本では蛇巫(へびふ)と呼ばれるシャーマンがいた。
  弥生時代までは女性が中心だったのだが、
  古墳時代になると男性シャーマンもいた。
  祖神である蛇を祭 ることにあった。彼らは白砂の敷き詰められた神聖な庭に
  生きた蛇を這わせて,その這った跡を見て占いをしたり,
  山や海から蛇を捕獲したり,常時蛇を飼育したりしていた。
  その後 憑き物信仰としての「蛇憑き」になっていったと考えられ
  中四国地方には最近まで残っていた憑霊信仰である
     
   古墳の石室の内壁には,よく幾何学模様が描かれている。
   ①三角形が連なったもの▲▲▲▲▲
   ②菱形◇◇◇◇
   ③同心円◎
   ④渦巻
     
  こうした文様はすべて蛇の象徴として描かれたかれたものと考えられている。
  三角形,菱形は蛇の胴体にあるうろこ,縞模様の象徴である。
  同心円や渦巻き紋様は蛇がとぐろを巻いた姿を象徴している
     
    やおよろず.com (http://homepage3.nifty.com/yahoyorodu/)
      日本的霊性 蛇信仰の本質 


上記 やおよろず。comさんの HPから引っ張ってきたのは 古墳時代の装飾古墳の模様の中でも▲◇◎という模様も「蛇」の象徴として考えられているといった内容・記述が有ったからです。

三角の模様として思いつくのが銅鏡です。
銅鏡の三角縁神獣鏡などの周りの縁に確かに三角△の模様が並べられています。学校でもこの三角を竜のうろこといった考え方として習ってきました。
そこで、わが国で弥生時代~古墳時代に使われていた銅鏡なるものをいろいろ調べてみたのです。
宮内庁協力出版の 銅鏡の模様を特殊な撮影方法で浮き上らせた写真集 等です。
鳥や建物・幾何学模様・体が竜でも人面のような図柄など、有りました。
でも銅鏡に蛇の図柄はないのです。?まさに蛇だ!!という図柄が無いのですよ。
(有るのかもしれませんが見つけることができませんでした)
そう考えますと あとにでてきます 鏡の解釈で、鏡=蛇 ですのであえてヘビの図柄を書く必要が無く全体がヘビなので うろこをあらわすことで充分といえるのではないでしょうか。

続けて 装飾古墳の模様・玄武についてご覧いただけたらと思います。


① 玄武 の へび について
Ⅰ 玄武 とは、(亀にからみつくへび)
 玄武とは、四神(しじん)のひとつで、周天を天の赤道帯に沿って4分割した四象(ししょう)の一つで、現在の黄道(太陽の通り道)が通る星座群「黄道12星座」にあたる中国星座の「二十八宿」と呼ばれる28の星座を、7つづつ4つに分けたものを北方七宿の総称をいいます。 
 北方七宿には「斗」「牛」「女」「虚」「危」「質」「壁」があり、 現在のみずがめ座とペガスス座の一部 虚宿と危宿を表す5つの星を結んだ五角形 を亀の甲羅にたとえ 北方七宿の形をつなげて蛇のからみついた亀の姿を表したといいます。
 玄天上帝ともいい 中国の神とされる。

Ⅱ 日本における玄武
◎ キトラ古墳 の 玄武
 704年以前(唐の影響受けていないため)
奈良県高市郡明日香村 
1983年(昭和58年) 石室内の彩色壁画の玄武を発見
キトラ古墳の玄武
左記写真は、

「奈良文化財研究所 飛鳥資料館」
http://www.asukanet.gr.jp/index.html
     (トップページ)
http://www.asukanet.gr.jp/kitora/
     (キトラ古墳)より



奈良文化財研究所
http://www.nabunken.go.jp/index.html
  メールにて 許可申請
◎ 高松塚古墳 の 玄武
藤原京期(694年~710年)
奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)に存在する終末期古墳。二段式の円墳で、1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されるようになった。
高松塚古墳の玄武
左記写真は、

「奈良文化財研究所 飛鳥資料館」
http://www.asukanet.gr.jp/index.html
     (トップページ)
http://www.asukanet.gr.jp/kitora/
     (キトラ古墳)より



奈良文化財研究所
http://www.nabunken.go.jp/index.html
  メールにて 許可申請
 
 現在 日本の古墳に見られる玄武はキトラ古墳・高松塚古墳の2箇所です。古墳はまだ調査されていないものが数多くあり、今後発見され、新たな展開があるかもしれませんが、現時点での玄武「へび」についてまとめていきたいと思います。。
 

ちなみに キトラ古墳と高松塚古墳について解り易くまとめてありますので下記もどうぞ。
「第264回 特別講演会
高松塚古墳とキトラ古墳 佐古和枝先生」
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku264.htm



被葬者の候補から民族の流れを追っていった場合
 キトラ古墳 ・・・ 百済王
 高松塚古墳 ・・・ 石上朝臣(物部氏) と、
百済王がどのような流れで、日本に入ってきたか、またそのルーツは。
物部氏のルーツは へび(玄武)との関連性は?といった視点からも 調べる余地があると思います。が、被葬者がどなたでも玄武と関連していたのは事実であります。
 
へび への執着心から まずは 玄武のへびが いつ頃日本に入ってきたのか またどのような経緯で入ってきたのか朝鮮・中国も調べたいと思います。。
Ⅲ 中国における玄武
 中国の四神は、新石器時代紀元前4000年ごろから貝殻絵という形で発掘されているが玄武の思想はその後 前漢武帝によってはじめて現れる。  
◎ 新石器時代中期 (四神の流れ)
新石器時代中期の墓(紀元前4000年ごろ)

黄河の中流域にある河南省濮陽県(かなんしょうぼくようけん)

右図10 
第1郡貝殻絵 (右)
東の龍、西の虎は四神で言う東方の青龍、西方の白虎 

第3軍貝殻絵 (左)
龍の背に乗って昇天する被葬者と、天空に舞い上る虎
* P.99図
◎ 秋春時代初期 (四神の流れ)
秋春時代初期の銅鏡 紀元前7世紀

右11図
河南省三門峡市の上村嶺?国墓地(じょうそんれいかくこく)から出土した鳥獣文鏡

来村氏は著書の中で、鳥・鹿・龍・虎と記しており、舌が出ているから龍と推測しておられます。わたくしには「あ・うん」の狛犬(獅子)にも見えなくないのですが・・・。
 先の出土図 貝殻絵の流れからも竜虎と考えるのが自然なのかもしれません。
*9 P.103図

 右11図の銅鏡の模様は、第七章の ② 青銅器鏡 としての 鏡
「日本の原始美術 8 古鏡 著者:田中 琢」の著書中にも同じ図があります。 そこでは紀元前13世に最古の中国鏡が発見されその後500年の空白を経過し前7世紀 晋に滅ぼされる前の小国 北?(ほくかく)から出土していると記されています。
 ここまでで、当初の四神図に玄武の  思想は無いということが解りますが、次ぎにはじめて四神図に玄武が表われる空心甎(くうしんせん)瓦当(がとう)を見たいと思います。


参考文献
*9『キトラ古墳は語る』 来村多加史 著 生活人新書148 日本放送出版協会,2005年 
◎ 前漢 時代  (玄武が現れる)
前漢武帝の茂陵  の玄武  BC141~BC87
 前漢7代皇帝 武帝劉徹(帝位:BC141~BC87)の茂陵の建築用材として用いられました。

<図13>
空心甎(くうしんせん)(レンガ)と瓦当(がとう)(屋根の軒の瓦)という建築用材の遺物に四神があしらわれています。
空心甎(くうしんせん)は、建築基壇の化粧部や階段の建造に使用され大きなものでは2メートル弱程ある中を空洞にして作られたものです。

前漢の時代になり 玄武が見られるようになります。
*9 P.113図


劉徹は劉邦の曾孫にあたり、生前の功績により孝武皇帝の略称「武帝」の諡号(しごう)が与えられています。 そのため前漢の武帝が一番メジャーですが武帝と称号がついている歴代の皇帝は21人いるわけです。
 こういった功績により武帝などといった称号を受けるのは、エジプトの歴代の王の神格化と似ていますね。
*9『キトラ古墳は語る』 来村多加史 著 生活人新書148 日本放送出版協会,2005年
 より 図引用
<図10>西水芭坡遺跡の貝殻絵・・・濮陽市文物管理委員会等「河南濮陽西水芭坡遺跡発掘簡報」「分物」1988年第三期/濮陽西水芭坡遺跡考古隊「1988年江南濮陽西水芭坡遺跡発掘簡報」「考古」1989年第一二期
<図11>上村嶺?国墓地出土の鳥獣文鏡 中国科学院考古研究所編「上村嶺?国墓地」科学出版社、1959年
<図13>漢代の空心甎と瓦当を飾る四神 趙立瀛主編「陜西古建築」陜西人民出版社、1992年/「中国建築史」中国建築工業出版社、1984年



◎前漢  扉のノブ に 玄武
『忘れへんうちに』  様
http://avantdoublier.blogspot.com/2007_03_01_archive.html
2007/03/23 「饕餮文は瓦当や鋪首に」 
ブログ内
14 ?(りゅう)金銅鋪首 青銅鍍金(高7.8cm) 前漢(前2-1世紀) 陝西省西安市紅廟坡村出土 西安市文物保護考古所蔵 の写真参照。

上記ブログ内 前漢(前2-1世紀) 陝西省西安市紅廟坡村出土 の 鋪首(ほしゅ)(扉のノブ) の写真に饕餮(とうてつ)という中国神話の怪物の人面があしらわれた装飾品があり、回りに四神図・そして玄武が配されております。
 こちらの出土品も前漢のものです。





◎ 中国 南北朝時代
中国 南北朝時代の四神画像磚 4~5世紀

それ以後の中国における玄武は 中国江蘇省鎮江市の鎮江東晋画像磚墓 の
四神画像磚 または瑞禽神獣画像磚(ずいきんしんじゅうがぞうせん)があります

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is70421b.htm
2007年4/21の読売ニュースにて 画像が紹介されています。





中国の四神図
 紀元前4000年 ・・・ 貝殻図として 人物と神獣とを埋葬する習慣。
 秋春時代初期 ・・・ 銅鏡 に 四神の原型。
 中国戦国時代初期以前 ・・・ 玄武無し。

中国の玄武
 前漢 ~ 魏晋南北朝時代 ・・・ 玄武図がたびたび墓の装飾として登場。


およそ 6・700年のこの期間に 玄武の思想を取り入れた。またへびを快く思っている民族が力を持ち始めた。という事がいえる。

Ⅳ 朝鮮半島における玄武
「裏世界遺産解説集バックナンバー」様より
   http://homepage1.nifty.com/uraisan/yakata2/yakata2.html(TOPページ)より
   高句麗古墳群
   http://homepage1.nifty.com/uraisan/yakata2/j0403.html

四神図が最初に登場するのは4世紀後半の遼東城塚麻線1号墳からである。 そして四神図が普及するのは5世紀から、 壁画の中心的画題にまで発展するのは6世紀からである。 ちなみに壁画に四神図のみが大きく描かれるのは、 江西大墓のような7世紀前半の古墳であって、 これは時代としてみれば高句麗王朝末期にあたる。



「高句麗壁画古墳の流れを追う」
   http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/subfiles/koguryo mural tombs.htm
こちらのホームページ 内
元京大教授の有光教一(ありみつきょういち)氏が分類された(「高句麗壁画古墳の四神図-四神図の変遷をめぐって」)。より引用
壁画の主題はA→B→Cの順序を追って変遷したと考えられると指摘され
(A)人物・風俗画を主題とする壁画
(B)人物・風俗画と四神図が併存する壁画
(C)四神図を主題とする壁画
と分類しています。

(B) 5世紀末に築造された双楹塚(そうえいづか)玄室北側に玄武が描かれはじめ
  後漢時代には小宇宙の象徴として画像石や四神鏡などに数多く描かれるようになる。
(B)から(C) 5世紀末から6世紀の初め頃と思われる。墓主像が描かれなくなり、四神図のみを四壁に配するようになる。その先駆けとなったのが湖南里四神塚である。やがて、華麗な四神図は江西大墓と江西中墓で結実する。この2つの古墳は、過去300年にわたって高句麗の地に連綿と築かれてきた壁画古墳の頂点に立つ古墳であり、同時に高句麗壁画古墳の終焉を告げる古墳であるとされている。



「扶余族が建国した百済」 では
同じく上記ホームページより 
武寧王陵がある公州の宋山里古墳群の中の6号墳と扶余近郊の陵山里古墳群にある東下塚しか発見されていない。宋山里6号墳は磚築墳で、ブロック表面に粘度を塗り、 それに胡粉で見事な四神図が描かれている。 陵山里古墳群は6世紀後半から7世紀に築かれた百済王室の墓域で、その中の東下塚と呼ばれる古墳は、水磨きされた切石で横穴式石室を作り、四神図と蓮花文や飛雲文を描かれている。
「キトラ古墳は語る」 来村多加史 著にも同じような内容が書かれています。



高句麗 江西王墓の玄武図
-- *10 週間朝日百科「日本の歴史45」 2-7 -- より

江西王墓 玄室の壁画


日本において見られる玄武とほぼ同じようなデザインと言っていいと思います。



 朝鮮の玄武 まとめ

朝鮮半島の四神図
 四世紀末
から

朝鮮半島の玄武
 五世紀末~六世紀

およそ 高句麗と百済が 玄武の思想を取り入れた。またへびを快く思っている民族であった。という事がいえる。

Ⅴ 玄武の流れ
 史時代区分表 を作ってみると 時代的にこのような感じです。
朝鮮では、宋山里・陵山里の二箇所でしか見つかっておらず中国大陸で前漢~南北朝時代の長い時代 玄武の思想が取り入れられたと言うことが解ります。そして 中国での玄武の思想が朝鮮半島から日本にもしくは同時期に日本列島に入ってきたと言うことが言えます。



 高句麗や新羅から、影響を受けているといわれている中 あえて 朝鮮半島と日本に同時期としたのは日本の古墳がすべて調査されているものではないということ、そしてキトラ古墳には 他に類を見ない精巧な最古の天文図が描かれているという点。また中国が11世紀最古の天文図に対して日本においては7世紀、400年も前に天文図が見つかっているというのは非常に興味深い。
 
 後の方で玄武・五行説については触れていますが『
陰陽五行と日本原始信仰  増補・日本古代呪術』 著者:吉野裕子 1985年 大和書房にて、 吉野先生は日本での五行思想について独自の見解を述べられております。がこの著書中、
 「日本に入った陰陽五行説は、六世紀中頃から七世紀初頭にかけては緩慢に、その後、起元640年頃、南淵請安・高向玄理らの学僧や留学生の帰朝後は急速に浸透し、天智天皇の治世に至って最高潮に達したろうという事である。
 日本に入った陰陽五行の特色は、その実用の面にあり、暦・占星・占術の方面において、本家の中国も顔負けするほどの勢いで取り入れられた。」
 (P.50 7行目~11行目)と日本においての五行説の取り入れ方は別格とおっしゃられている。

 玄武の流れについては上図の通りでありますが、吉野氏が言うように日本において五行説が日本で急拡大したように、玄武を受け入れるに置いても充分な下地・土台があったことをうかがわせる。





Ⅵ 亀と一緒の理由
なぜ 亀と一緒にいるのか?

参考文献
平成十六年度人文学科卒業研究
「亀の中国思想史-その起源をめぐって-」

   永谷 恵  中国文化専攻  指導教員:真柳 誠
http://www.hum.ibaraki.ac.jp/mayanagi/students/04/nagatani.html
の論文の中 「第四章 亀と世界観」

「亀と蛇を雌雄とする思想の影響があるものとし、麒麟や鳳凰は、それぞれが雄と雌のつがいからなっており、亀と蛇をつがいとして考えるとこの意味からも都合が良い。このことから、玄武は亀と蛇の姿をもつことになったのではないだろうか。
また中国創世神話に出てくる女神である女?は、人の頭に蛇の体である。蛇身の女?が天を補うために用いたのが大亀の足であるというところにも、亀と蛇の関連を見出すことができないだろうか。」


と、永谷さんは推測しておられます。
そして、当HP「へびって?」のページ「古代中国」でも、 伏羲・女?の蛇足の絵を掲載してありますが

上記URLには 足が亀?の伏羲・女?の図がありますね~
なるほど 亀と蛇を 雌雄とする発想からそういった亀足になったりへび足になっているのかもしれませんね。
「インドの亀蛇宇宙図 ドイツで19世紀に線刻されたもの」左記図

*11 高橋泉『カラー図鑑 カメのすべて』、132頁、成美堂出版社、東京、1997


インドでの世界観です。
 これって ゾウさんもいるけど そのまんま「玄武」じゃないの~~~~?
もしかすると中国前漢時代に玄武が使用される前はインドにつながってくるのではないでしょうか?
とするとやはり 玄武・青竜・朱雀・白虎の四神とは、ある意味民族・またその思想を表すことになるのではないでしょうか?装飾古墳に四神を取り入れた王様?支配者は ただ征服するのではなくそういった民族を傘下にいれうまくまとめていったということでしょうか?そしてその民族や思想がインドから中国・朝鮮・日本に入ってきたということがいえるのではないでしょうか。
Ⅶ 玄武の思想のルーツ
 日本の玄武は中国前漢の時代につながっていることがわかりました。それではいったい誰が何のために四神図に玄武をとり入れたのでしょうか。
 先ずは 四神とは何か 簡単にまとめてみたいと思います。
四神 図 

四神とは 玄武・青龍・朱雀・白虎の、四つの神獣の事で、
 玄武 ・・・ 冬・北・黒(玄) ・丘陵
 青龍 ・・・ 春・東・青    ・流水
 朱雀 ・・・ 夏・南・朱(赤) ・湖沼
 白虎 ・・・ 秋・西       ・大道

 と、季節・方位・色があてられています。、それに地勢・地相をあてたものが四神相応です。
日本で有名な四神相応は、794年10月22日 桓武天皇によって奈良県長岡の平城京から遷都された京都の平安京です。
 「青龍」・・・賀茂川
 「朱雀」・・・今は無き巨掠池
 「白虎」・・・山陽道・山陰道
 「玄武」・・・舟岡山
平城京においても その時代の賢者が、四神相応を取り入れ都を造ったようですが平安京と平城京では、地相の解釈が違う様です。

 『蛇の目って?』の貢「
蛇の目土俵」にも記していますが、相撲の土俵の思想にも五行(四神)の考え方が取り入られています。

 風水の基本としても 大地の気脈を読むため、方位学的な解釈「四神相応」が中心になっています。要は太陽が東から西に動く北半球で陽のあたるところにトイレを持って来るのは熱くて臭くなるし。人が集まる居間を北にして 暗い中 お話や食事をするのは衛生上・健康にも良くないといった 自然の中でごく当たり前な事を 気の流れとして捉えそれを形にしたものが風水であり 自然の中での季の流れとして四神相応となったのだとわたくしは解釈しています。

 そしてこの四神 の中央に 「黄龍」または「
麒麟(きりん)」を加えたものが『五神』であり、五行思想へとつながる 五行思想は紀元前305年頃-紀元前240年頃 四神は、四象(ししょう)ともいい、先に記した「二十八宿」と呼ばれる28の星座を、7つづつ4つに分けた思想で、紀元前403年頃-紀元前221年頃 理論付けされている。

 どちらが先か、調べる必要があるかもしれませんが五行には 四季、春夏秋冬の夏の次ぎに「土用」が来る・・・。これはあまりにも不自然と思う。たとえば、古墳の壁画に四神を配し中央に麒麟がいる。あるいは、黄龍がいる。といわれても説得力に欠けると個人的に思ってしまうのである。中央に配すほどの重要なものだったら埴輪、青銅器、貝殻としてでもいい。天井に壁画としてでも形にすべきと思う。 
 後の蛇皮線で触れるかどうかまだ未定ですが、民族によって吉数というものがある ギターなどの弦の数を吉数ということで、4本を忌み嫌ったりといった事が平気にある たとえば、偶数を嫌ったり、奇数を嫌ったりといった様に。これも 五という数字あるいは、奇数を吉と考えた民族が 何でもこじつけて「五行」として採用していったのではないでしょうか。
 五行思想は万物が木・火・土・金・水の 5 種類の元素から成るという説で、『へびって?』の貢「
水銀の記号とヘルメス」で、少し触れていますが西洋の四大元素説(四元素説)と比較される思想です。 案外、両思想の根底にあるものは同じなのでは・・・。とも考えてしまうのは私だけでしょうか。

 そして この五行思想を体系化したのは戦国時代後期の斉国(さいこく)に生まれ諸国で活躍した陰陽家 ?衍(すうえん)です。「五徳終始の説」として五行の輪廻を王朝の交代に結びつけ論じ、秦の始皇帝が初めて採用しました。
 ただここで 追っているのは「玄武」の思想です。
 先にも見てきましたが前漢武帝の時代にはじめて玄武が現れましたが 上記玄武の遺跡が残る国家祭祀の諸施設には、五行思想が色濃く反映されており この基本形を成立させたのが王莽でした。
 

 
 春秋時代にも四神図や紀元前から貝殻絵が見られる事から?衍(すうえん)以前にも五行に似たものや神獣を祭るような思想があったということが推測できますが、
 秦の時代始皇帝によって都 雍の地に阿房宮を建て五帝を祭ること、それを受け前漢の武帝が汾陰で、同じように五帝を祭ったということです。

 ここで注目したいことは 五行と四神図というものが秦の始皇帝、から前漢武帝と のちの新の王莽によって儒教とともに定型化したということ。そして、玄武は前漢武帝・王莽によって反映されたということです。

ではなぜ このころ玄武が採り入れられるようになったのか?

 『キトラ古墳は語る』 来村多加史 著 生活人新書148 日本放送出版協会 やWIKIにおいても漢民族の建国には『楚』の民族が大半を占める事が記されています。

漢王朝を建国した楚の人々 ここがポイントではないかと思っています。

楚の民族の祖先はミャオ族と呼ばれ長江文明の流れを汲んでいます。長江文明は黄河文明とともに発展また対立したといわれていますが、長江文明の中でも呉城文化(江西省)をおこし青銅器などの特色を持っています。
いづれ この「ミャオ族」 「楚」も調べる必要性があります。
が、 この民族の思想が『四神』 とりわけ『玄武』に影響を与えた事が大きいのではと推測させていただきます。


 

 玄武に見る へび民族の流れ まとめ

 玄武が取り入れられた四神図 は 五行思想によるものである。
 
中国において五行思想を取り入れた人物
 ◎秦の始皇帝
 ◎前漢武帝
 ◎新の王莽

 その中でも 五行思想を定型化した 漢王朝の民族の祖先、楚の民族 さらにその先の長江文明の流れを汲む

ミャオ族 が 玄武 へびと深い関係があったと推測できる。

 
 ~~~古墳関連といたしまして・・・ 「蛇の目って?」の装飾古墳にも 『古墳の蛇の目模様』がありますのでご覧いただけたらと思います。~~~





② 埴輪にみるへび
 埴輪といえば”盛装の男子”のような人物や”馬”の形の埴輪を想像する方も多いと思いますが、大きく分けて埴輪には円筒埴輪と形象埴輪の2種類があります。
 円筒埴輪は、名称の通り円筒形の物で、古墳の上に置くあるいは下部を埋め込んで固定し、主に古墳の外周や外部・内部の重要部分を囲い込ことにより聖域を表す役目をしていたともいわれています。(左イメージ図)

   その後あらわれたのが、形象埴輪で、大きく分けると家形埴輪、器財埴輪、動物埴輪、人物埴輪の四種がある。
 いづれにしても、埴輪は葬送儀礼や古墳時代の祭祀観・死生観を反映していると言われている。


Ⅰ 形象埴輪

東京国立博物館 調査記 (2009年8/28) より 追記

埴輪 盛装の男子
埴輪 盛装の男子

群馬県藤岡市白石字滝出土
古墳時代・6世紀

この埴輪 埴輪と聞いてすぐに浮かんでくるような瞳とスタイル
「で・・。どこにへびが?」

「拡大して確認してみて~~」


ココ!!⇒
 学芸員のお姉さんも館内の担当者も埴輪の腰についている 「ぐにゃん」としたものが何なのか分からないそうです。
 しかし、へび調査隊長としてのわたくしの目には ”へび”と映りました。
東京国立博物館にも複製の金印がありましたが、金印の(ちゅう)(印を持つ取っ手のひもを通す部分) と へびの模様なんかそっくりじゃないですか!!
埴輪 踊る人々
埼玉県熊谷市市野原出土
古墳時代・6世紀

こちらも国立博物館ですがやはり腰に何かぶら下げているようです。
埴輪 盛装の男子
群馬県太田市 四ツ塚古墳出土
古墳時代・6世紀

この子も へびらしきものをぶら下げています。

 刀も腰についており他に腰につけそうなものといえば □食料 □拳銃 □薬 □楽器 □きび団子 □弓矢に用いる弦巻(蛇の目) といった推測ができると思います。(拳銃は無いか。)
 その中でも楽器の可能性が高いのでは無いでしょうか?当HP八、へびを表す楽器でも調べたようにヨーロッパではローマ帝国キリスト教・西方教会では軍楽隊が編成されへびを表す楽器が使用されてきました。
 日本の戦国時代でも法螺貝などを吹き威嚇したり、景気付けに音を吹き鳴らしたようです。 
おそらくこの古墳時代にもそういったことがあったのではないでしょうか?


追記 2012.09.20
 静岡県磐田市埋蔵文化財センター調査記 (2011.08.02)より
磐田市駅前にもこれと同様のものがオブジェとして飾られ、弓矢を射る時に必要とされていたであるという・・・。
以下磐田市埋蔵文化財センター調査記より転記
WIKI「鞆」では

概要
革製の丸い形で、革紐で結びつける装身具であり武具。
鞆の歴史は古く、鷹匠埴輪と呼ばれている埴輪には、腰に鞆(とも)をつり下げたものがかたどられている。古代日本では用いられていたが、中世ごろには実用では用いられなくなっており、武官の儀礼用となった。

鞆に纏わること
紋様の一つの巴(ともえ)は、鞆の形を図案化して作られたとも、逆に鞆の形に似ていたため「ともえ」という名前になったとも、また、鞆によく描かれた紋様であるからとも言う。
最終更新 2012年9月10日 (月) 16:43
 鷹が腕にとまった埴輪の腰になぜ、鞆が必要であったのか?鞆を提げるのなら背中に弓矢を背負う必要もあります。また、へび調査隊として見てきたように群馬の埴輪の腰に同様のものがついているが鷹匠ではない。逆に弓矢を持った埴輪にもついているが弓矢を持たない埴輪にも同様のものがついている。
 また、「鞆に纏わること」で、巴(ともえ)と鞆(とも)との関連性を挙げているが巴はまさに「へび」である

 以上の理由からからも、私が以前推測してきた、「へびをかたどった楽器」を否定するものではないことが言える。

 左写真は静岡県磐田市駅前のオブジェ。
 クリックで拡大することができますが、やっぱり右側が吹き口で楽器に見えて仕方がない。
 


蛇を着る思想
 また 『蛇 日本の蛇信仰』 著:吉野裕子 講談社 1995年 P195「第五章へびを着る思想」(*12)において
吉野氏は装飾古墳画および埴輪巫女像にみる連続三角紋について下記埴輪を例に挙げている。 

左写真
『埴輪 腰かける巫女 (群馬県大泉町出土 6世紀)』
  写真は 文化庁HP文化遺産オンラインより

右写真 (*12同著 P197)
『手をあげる巫女 (群馬県箕郷町上芝古墳出土 6世紀)』

   (いづれも東京国立博物館所蔵)

 蛇の歴史研究をなされている方の多くが「連続三角紋」についてもへびを表したものとしています。第7章「一、鏡」 でも記しましたが、銅鏡や装飾古墳の多くにも連続三角紋が施されております。



Ⅱ 円筒埴輪
円筒埴輪
 愛知県吉良町 岩場古墳出土
 古墳時代中期

左写真はごく普通なオーソドックスな形の円筒埴輪といっていいと思います。 底は筒抜けで、ひだの部分は”突帯”あるいは”タガ”といい、丸くくりぬかれた穴は”透かし孔”で、方形・三角形・巴形などがあります。
 



 
 今回円筒棺に注目した理由は『ヘビ調査隊』として 吉良町歴史資料館に伺った際に、特殊な円筒埴輪に出会ったことがきっかけでした。
円筒棺
 岩場古墳出土
 全長193cm

この円筒棺ははじめから埋葬用に製作された棺で、全国でも25例しかないそうです。

左写真はパンフレットより

 そこで、この形状はサナギであると直感したわけです。
八、ナギの発音」にも記しておりますが、 ”さなぎ”とは”ナギ””ナーガ”からきており、”小蛇=さ・なぎ”ということです。
 同時にエジプトのミイラのように包帯でぐるぐる巻きにし、”さなぎ”・”へびの脱皮”を表し「死から再生・よみがえり」することを願ったのです。
 始から埋葬用として作られた円筒棺は全国で25例ですが、円筒棺を利用して棺に転用したものは畿内中心に数多く出土しており、そのルーツと所在地などを調べる事としました。



◎ 円筒埴輪の紀元 特殊器台
 その結果円筒埴輪の起源は岡山県南部中心に出土した特殊器台(弥生時代後期に器台(壺や(うつわ)を上に乗せる装飾された台)にあり、 それが大型に発達し、特殊な文様を持つようになった。ということを知りました。

特殊器台・・・円筒埴輪の元になったものといわれている
特殊器台
総社市宮山遺跡
ふつうの器台と特殊壺
(甫崎天神山遺跡)
特殊器台形埴輪
(矢部堀越遺跡)
3点の写真*13
図にするとこのような感じ
特殊器台に描かれる模様”弧帯紋””透かし孔”もデフォルメされたと推測されている。

 『特殊器台を出土した墳墓(ふんぼ)遺跡は、岡山県内で40数遺跡が確認され、広島県域の備後を加えると50遺跡にのぼります。その分布状況は、総社市周辺の備中南部を中心に、備前・美作・備中北部・備後にわたり、かつて「吉備」と呼ばれた地域に集中しています』
 『迷宮ロマン古代吉備の旅』様



◎ 弧帯紋は”へび”を表すものではないだろうか。

特殊器台 弧帯紋

 宮山遺跡出土 高さ95.6cm
 弥生時代後期 
 円筒棺に転用されていたもの。

 棺に使用される前に既に破損していたらしく他の2個体の破片を合わせて使用。


写真は『岡山県立博物館デジタルミュージアム』様より
旋帯文(せんたいもん)石(模造)

 原品:岡山県倉敷市楯築(たてづき)神社出土
 弥生時代(3世紀)
 楯築遺跡(楯築墳丘墓)の墳丘上に大正時代まであった楯築神社の御神体であった。現在は(ほこら)と”亀石”の収蔵庫があります。
全体写真
 縦横90cm

 神社の御神体としての”亀石”の他に楯築(たてづき)墳丘墓の木棺の頭部あたり上にバラバラの状態で出土している。

 敵対する勢力の仕業か?

 
(写真は『へび調査隊記』にて撮影)
 ネットでは”亀石””弧帯文石”という記述を良く目にするが、東京国立博物館での説明書きは異なっていた。亀の形と区別する為か博物館関係では”旋帯文石”で統一されているようです。

   円筒棺に使用された”弧帯文” この亀石の”旋帯文”いづれも被葬者の再生を願って描かれたものではないでしょうか?

 現在神社は移設されていますがこの一帯の楯築遺跡でも特殊器台が出土しています。
また、楯築墳丘墓は、両端72mの双方中円墳で前方後円墳でいう前方部が円墳の両端に突出しているという変わった形になっており、その丘墓を取り囲むように巨石が転々と置かれています。(イラスト参照)
 こういったことから、円筒埴輪は、聖域を表す葬送儀礼であったといえると思います。



  弥生時代末の宮山遺跡出土特殊器台は、古墳時代最古級の箸墓古墳(奈良県桜井市箸中)・大和古墳群の中でも最大の西殿塚古墳(奈良県天理市中山町)で、後円部墳上に並べられていたといわれ、特殊器台を棺としても転用されています。

こういったことからも 特殊器台(円筒埴輪)から、巨石により聖域を表すものが変化した同時に、弥生時代最大の墳丘墓から、古墳時代最古級の古墳群へと移行する過程を知る事ができます。

 埴輪にみる”へび” まとめ

 埴輪には、形象埴輪と円筒埴輪があり、そのルーツは特殊器台にある。

 ◎”弧帯文”と同じ様な模様”亀石”は木棺の上に置かれていた。・・・再生(甦り)を願う。弧帯文は”へび”と推測 
(一説に起源は直弧文であり、ローマの直弧文、巻貝、唐草文など諸説ありますが それら模様もへびと関係があると推測。理由はローマはへびと深い関係がある。巻貝は貨幣と関係。巻いてる形はへびのとぐろ)
 ◎”弧帯文”のある特殊器台が棺として転用された。・・・再生を願った。
 ◎特殊器台を多用した吉備の一大勢力と、奈良 大和古墳群への移行の可能性
  ・箸墓古墳にまつわる”へび伝説”。
  ・三輪山自体が”へび”・”へび伝説” など
 ◎円筒埴輪の結界・聖域を現す性質は 注連縄の要素と似ている。
 
 
よって 埴輪のルーツに ”へび” ”へび民族” の可能性がある

写真参考
 *13 三点の写真
 『岡山県古代吉備文化財センター』様 (14)特殊な壷と器台 より
参考資料 
 『岡山市埋蔵文化物センター』様  「特殊器台から埴輪へ」
 『趣味の古代吉備』様  岡山大学考古学資料館一般公開
           同じく  大きな石が取り巻いていた『楯築遺跡』
     (ホームは『杉原姓とラーメン』のようです。 『吉備東遷説』・・ありかも)
 『吉備邪馬台国説を追って 』様
 『特殊器台型埴輪について』様(リンク切れ)


2011年5月5日 追記
ストーンサークルを調べていたら”亀石””弧帯文石”と同じような石がありました。
紀元前3100年から紀元前2900年の間に造られたアイルランド・ミース州のブルー・ナ・ボーニャ遺跡群のニューグレンジ[Newgrange](日本の円墳の形をした塚)です。
入り口に巨大な石が置かれ、その平板の巨石(右写真)には渦巻き模様と菱形紋がある。
 ニューグレンジの塚は、内部で火葬された人骨があることから墓という意見が一般的ですが、冬至の明け方 入り口上のルーフボックスといわれる開口部から塚の長い羨道の奥まで日が入ることから、太陽信仰、天文的施設との説もある。
 
 ニューグレンジの模様は三つの渦巻きを結合させた三脚巴と似ているようで西ヨーロッパの新石器時代シンボルであるケルトシンボルの基調といわれているようです。 

 
また、同じブルー・ナ・ボーニャ遺跡群の墳墓ノース[Knowth]でも周囲を環状に囲む巨石の数々に渦巻文、トローチ(菱形)、へび文が描かれている。装飾の多くが渦巻き文であるがイラストに記すようなへび文も多く残っているようである。
Saint and Stones
よりイラスト自作
 模様は若干違いますが、ニューグレンジの墳墓の石にこのような模様を付けるという思想は誰もがするようなことではないと思いますし、同じ遺跡群のノースのへび模様との関連からも”亀石””弧帯文石”もへび民族の思想と推測できます。

第12章 輪の思想 環状列石の貢 も参照いただきたいのですが、楯築遺跡もある意味環状列石であり、ストーンサークルの性質を持っている



③ 戦闘用馬装 蛇行状鉄器 に へび? 
東京国立博物館 へび調査隊記 (2009年8/28) より 追記
戦闘用馬装 蛇行状鉄器

奈良県田原本町矢部出土
古墳時代・6世紀

どのようなものかお伺いしたところ 「馬の鞍に付属し先端に棒が刺さるような構造になっており、旗を挿した。」とのこと

図にすると下。(あくまでもイメージ)
博物館注釈
『紀元前1000年頃にイラン付近で開発された騎馬の技術は、急速にユーラシア大陸に拡がり、紀元前3世紀頃には馬の甲冑が工夫されました。馬冑はおそらく騎馬民族のスキタイ人から高句麗経由で朝鮮半島南部に伝わったもので、日本列島では2例知られています。』

 全国に 2例ほどで・・・。蛇行型というだけで へび民族と結びつけるのはどうかと思われる方も多いでしょう・・・。
 しかし!! わざわざ蛇行させる意味が分からないじゃん。注目したい。この時の調査での大きな発見は この馬具と埴輪の腰につけたものだったんです。 正直言って騎馬民族と関係あるでしょ?といわれそうですが、埴輪のルーツも考えると以外や以外 関係あるかもよ。

 (  「折れ曲がっただけ」   なんて言わないでね。  )



④ 蛇行鉄剣 
袋井市立浅羽郷土資料館 へび調査隊記 (09.8.18) より 追記

蛇行鉄剣・鉄鏃・鉄鉾・鉄斧 *14-P8
 石ノ形古墳 鉄製品
 古墳時代・五世紀後半

今回一番の注目がこの蛇行鉄剣です。
これだけ蛇行していると鞘に収めれる訳でなく、権力の象徴として実戦でなく誇示する物だったと思われます。
 そしてこの特徴的な形はまさにへびを表していると推測する。
 

 まさか 草ナーギの剣では?

*14 遺跡でたどる袋井のあゆみ『第2弾 古墳の巻』 
 編集:袋井市立浅羽町郷土資料館 発行:袋井市教育委員会 生涯学習課

四、飛鳥時代以降に へび は無し
 残念ながら飛鳥時代以降に へび・蛇の目を見ることが出来ませんでした。 
日本書紀による 592年、推古天皇が豊浦宮で即位し、飛鳥時代
 「7世紀後半になると、墳丘全面に石を貼り付けた古墳や、八角形の墳丘が登場します。石室には切石積石室や横口式石槨、磚積石室などが採用され、漆塗りの荘厳な棺が納められました。その技術には、版築や切石、漆喰といった寺院建築の技術が大幅に導入されています。そして、少ないながらも正倉院にみられるような豪華な品々が添えられました。」*15とあるように墓の形式が変わっていきます。
太安万侶墓(奈良市)
白川火葬墓(天理市)
 「700年(文武4)僧道昭は遺言により荼毘にふされました。わが国における火葬のはじまりです。702年(大宝2)には、持統天皇も火葬され、天武天皇と合葬されます。こういった火葬は、仏教思想とは別に、当時、新羅でおこなわれた火葬や薄葬思想の影響が強くあります。また、火葬は、広い階層の人々に定着することはなく、天皇にしたがった役人のあいだで、一種の流行のように採用されていました。」*16

後に調べた古代ローマ時代に骨壷(火葬する習慣)があったことを記していますが天皇家や貴族あるいは一部の僧侶たちだけに受け入れられ、仏教の影響があったというのが定説とされています。
*15 奈良県立 橿原考古学研究所付属博物館
    『Ⅲ.古墳から火葬墓へ-飛鳥時代の古墳-』
*16 同じく 『-火葬のはじまり-』 より
http://www.kashikoken.jp/museum/permanent/asuka-nara.html#6%20asukajidainokofun

 飛鳥時代以降 戦国時代までに 「へび」は見られない。
ただし 街の方角 陰陽などに 一部朱雀、玄武などの五行思想が見られる。

 火葬や仏教の流入に伴い 王族や貴族の遺跡からへびの遺物など見られなくなったようだ。

 
五、「第三章 遺跡・遺物のへび」感想
 『この列島でも、縄文・弥生・古墳と時代を経るにつれ、蛇信仰は、内容・形態の両面に亘って変化し、終始一貫しているものではない。
 即ち、男根状の蛇を、生命・人間の起源と観じた縄文人は、この蛇を祖霊・祖先神として信仰し、祖の情熱の赴くまま、自由奔放に彼らの祭祀土器・土偶のその姿を造形し、この傾向は中期において特に著しい。
 しかし稲作民族としての弥生人になると、蛇の神格には、祖霊のほかに穀物神・倉稲魂(うかのみたま)という強力な神霊が付加されてその信仰はさらに普遍的になって行く。
 ~中略~ その勢いは一時期には列島を完全に覆いつくしていたと思われる。
 ~中略~ つまり蛇に見立て得るものでさえあれば、それが自然物、人工物たるを問わず、大胆、且つ自由にそれを祖神の姿に見立て信仰し、利用したのであった。』*17

*17『古代日本の女性天皇』 著者:吉野裕子 発行所:人文書院 2005年 
   (p.54 13行目 - p55 11行目)

 『蛇 日本の蛇信仰』の中でも再三出てくるが 吉野先生がこの著書でも述べられているように 縄文・弥生・古墳と、このように蛇を信仰していた。 そのような民族なのに 飛鳥時代以降 中国から影響を強く受け 上記骨壷の火葬による変化 蛇の遺物がみられなくなっているように思う これはあきらかに民族の違い信仰の違いによるものと考えて良いのだはないでしょうか。
  
 へびの遺物を見てきて その時代ごとに 崇拝のされ方が違うのが解る。  縄文時代のへび集団 弥生時代のへび集団 そして古墳時代の装飾古墳のへび集団・玄武のへびを崇拝した集団 と、 何度かに分けて日本に入ってきた事が分かるが、それぞれの時代の民族が 同じようにへびを崇拝していたであろうことは非常に興味深い事でした。

 しかも 蛇金印や、縄文土器といった 当時貴重なものにまで へびを表現されていたというのは へびがいかに重要な位置にあり、崇拝されきたかということである。

 そして、 次の章からはへび崇拝の民族を世界に目を向けて追っていきたいと思います。
 

 
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